別離(クリフォード・ウィザーズ、1861年以降)
人生の最初の10年を振り返るなら、それは少年にとって間違いなく、幸福に輝いていた日々であった。
彼が長じて後もしばしば見せた良い気質…… 明るさや快活さ、人懐こさといったものは、その頃に培われたものに違いない。
故あって幼少時から彼を引き取っていた、実の母親の従姉妹は、常に厳しくも優しかった。
変わった名前の乳母は、そのまま母親代わりとして少年を、我が子のように可愛がってくれた。
…… それが一転したのは、彼が10歳の時。
育ての親のような存在であったアデレードの遅い婚姻が、決まった。
28歳の彼女は、近年勢いを持ち始めた隣国との友好を図るため、隣国王の第2妃として差し出されたのだった。
公爵家の姫とはいえ、変わり者と名高いアデレード。自由気ままな生活を送っていた彼女も、王命には逆らえなかったのである。
アデレードは、少年のために、寄宿舎付きの学校を手配しようとしていたが、それを阻んだのは、他ならぬ2公爵家の当主たちだった。
アデレードの兄のハワード公爵と、ミリアの父のウィザーズ公爵である。
――― いくら忌まれた出生とはいえ、少年…… クリフォードは紛れもなくウィザーズの血筋であり、跡取りにするに不足はない。
学校などにやって自由な教育を受けさせるより、ウィザーズの館で、跡取りとしての知識と教養を身につけさせるのが先行。
……そう、彼らは判断したのだ。
アデレードの反対は受け入れられず、少年は彼女が隣国へと発つその日に、ウィザーズ公爵家に引き取られる…… 『帰る』 こととなった。
「わたくしが教えたこと、忘れないでね?」
別れ際にアデレードは、少年に幾度目かの確認をした。
「あちらの家では、辛いことも多いかもしれないけれども……」
「決して人のせいにしない。人のせいにしないで済むよう、己の意思で選ぶこと…… でしょ」
アデレードは心配しすぎだ、と、クリフォードは笑った。
…… もし本当に己の意思で全てを決められるなら、アデレードについて行きたい。
そうした想いが、彼の口から出ることはない。
「そうよ。我慢なんかしなくていい、どれだけケンカをしてもいいのよ。人生を他人のせいにするのは、不幸なことですからね」
「アデレードは? 今さら、他国の第2妃だなんて……」
どうして僕よりそっちを選んだの、という質問もまた、飲み込まれた。…… クリフォード自身にとっても、そうした問いは幼すぎるように思えたから。
見捨てられたように感じること自体が間違いなのだ、と彼は自身をなだめた。
「それこそ、王様のせいなんじゃないの?」
「いいえ。わたくしが選んだのは、あなたがこの国で平和に暮らせる未来よ…… あなたがいなければ、決心がつかなかったかも、しれなかった」
彼女は少し黙り、それから小さく、ありがとう、と呟いた。
友人を陥れたふたりの子を育てるのは、時に割りきれない想いをもたらしはしたが…… それでも、もしもう一度、友人に会うことがあるなら、彼女は胸を張るだろう。
子供に罪はないのだ、と。この子はわたくしに、他者に無条件の愛情を注ぐことを教えてくれたのだ、と。
「少し遠く離れるけれど、いつも気にかけているわ」
「大丈夫だよ。お母様と暮らすんだから、僕、楽しみにしているんだ」
楽しみよりも不安が大きくても、少年は、それを言わなかった。
言えばアデレードはきっと受け止めてくれるだろうと分かってはいたが、クリフォードは異国へ旅立つ彼女に一抹の不安も残したくなかったのだ。
しかし、アデレードは困ったような顔をした。
「お母様は……同じ館にいても、あなたには、お会いになれないのよ、クリフォード」
「でも、僕のこと好きなんでしょう。知ってるよ。
僕の産着は全部お母様が作ってくれたものだし……」
季節ごとの贈り物も、誕生日も、必ずお祝いをくれるもの。それから、お手紙にはいつも愛している、って書いてくださるし……
ひとつひとつ指を折り、自身に言い聞かせるように数える少年を、アデレードは強く抱きしめた。
――― それが、彼が肉親の温もりを感じた、最後の時になった。
ウィザーズ公爵家は、ハワード公爵家とは親戚でありながら、家風は全く違っていた。
簡単にいうならば、外聞を気にし、『身分』 や 『品の良さ』 という価値観でがんじがらめに縛られている家である。
使用人が主人と必要以上の口を利くことは許されず、家族の間にも親しいやり取り、というものは一切なかった。
クリフォードの母親代わりでもあった乳母のズデンカは、人種が違う、という理由で、アデレードが嘆願していたにも関わらず、ウィザーズの館に入ることを拒まれてしまった。
クリフォードの実の母親のミリアは、彼の前に一度も姿を現したことがない。
そして実の祖父母であるウィザーズ公爵夫妻は、彼に対して冷淡であった。
彼らはクリフォードに部屋と食事と高価な衣装を与え、一流の教師をつけてはくれた。
しかし、孫に触れることはおろか、必要以上に話しかけることも一切しなかった。
クリフォードがこの家に来て以来、最もよく聞いた言葉は、 「ウィザーズの名誉を汚してはならない」 と 「これ以上、恥を重ねるな」 であった、と言えば、彼の味わった寂寥を理解してもらえるだろうか。
――― わずか10歳だった少年は、温かな愛情溢れる腕の中から急に、冷たくよそよそしい人々の中へと放り出されたのである。
…… それも、他人ではなく、血を分けた肉親であったがために、彼らの冷淡さと無関心は、より強くクリフォードの心を突き刺し、凍えさせた。
少年は次第に、満たされない心を他者からの賞賛で埋めるようになっていった。
祖父母からの 「恥を重ねるな」 という声を聞きたくないがために、失敗も気にくわないことも、全て他人のせいにする癖がついた。
アデレードとした約束は、単なる、幸せだった遠い昔の想い出のヒトコマに過ぎなくなった。
……『人生は自分自身のものだ』 など美しい理想に過ぎず現実的でないのだ、と、その約束自体を責めることで、約束を守ることのできない自身の醜悪さから目を逸らしたのだ。
それでも、彼はまだ、ウィザーズ公爵家の一員であろうとした。
名誉を重んじ、恥をかくことを恐れ、『優秀でかつ善良』 であろうと努力を重ねた。
……この家には、実の母が居たから。
声を聞いたことも、姿を見たこともないが、母はしばしば、手紙やささやかな贈り物を寄越してくれた。
やや拙い文字で書かれるその手紙はいつも優しい言葉であふれ、贈り物の1つ1つには心遣いが感じられ…… 家族の温もりを思い出させるそれらは、他のどのような賞賛よりも少年の心を満たした。
――― 彼が事実を知る、その時までは。




