第一夜:魔女と鶏ガラ
朝起きて、すぐに男の体調を確認する。
「調子はどう?」
ヘンゼルとグレーテル、に出てくる
老婆のように
太ったら食おうとでも言うのか。
あり得ない話ではない。
現に鶏ガラのようにやせ細った男がそこにいるではないか。
たくさんスープの出汁になったのだろう。
調理をしたのは間違いなく私だ。
台所に立ち、
冷蔵庫から新鮮な野菜と肉を取り出して
まな板に並べていく
今日は日曜日。
野菜を剥いて、切って、なべに落としてゆく
固形スープの素を入れて煮立たせ
酒に浸した肉を切ってなべに落とす
テキパキと
あくをすくい取ってゆく
割り切れない何かを消化するように
私は料理をしていく。
獣の肉の断末魔
溶けてゆく植物細胞の悲鳴
そんな物から構成される私の料理は
ひどく不味いが
ひとたび笑顔でコーティングすれば、
とりあえずは粗末な食事の出来上がりである。
器によそい
スプーンを添えて食卓へ。
「熱いから気をつけてね」
という言葉も忘れずに。
私は男が猫舌であることを知っているが
自分がアツアツのスープが大好きであるがために
冷ましてから出す、という労力を怠っている。
食べる速度のゆっくりな男のことだ。
きっと、そのうちいい具合に冷めてくるであろう。
「ありがとう」
と、返してくる男の顔は生気に欠けていて
作った笑顔にも力がない。
相変わらず、こちらを見ない目は
こちらとは反対側にある、窓際の植物の群れを見ていて
ガラスから入る光を受けて茶色く透き通っている。
もし、男がひとたびこちらを見やれば
逆光になり、瞳に透明感を与える光は失われてしまうであろう。
こちらを見ないからこそ美しく見えるのかもしれない。
例えば、理屈上の時計のアナログの針で一番美しい姿は
0時00分00秒だが
商品写真にする場合は、そうではないように。
立方体を描くときは、斜めからでないと二次元的なものになりやすいように。
正面から捉えた対象というのはわかりづらく
誤解を招くものなので
美しいとは認識しづらい。
理詰めで考えれば、
真正面から捉えた姿も、その物の持つ特性の一部であり
平等に美しいと認識されてもよいはずなのだが。
分かりづらい、
という言葉で排除されやすいものなのだ。
分かりづらいものはいらだちを呼びやすい。
しかし、いらだちをよぶものがすべて
本当は美しいと認識されているべきなのに分かりづらいものである
とは限らない。
どちらかといえば、いらだちを呼ぶものは
最初から醜いものである場合のほうが圧倒的に多い。
例えば、私がいい例だ。
男がついにこちらを見た。
まだ眠気が残っているのか焦点が合っていない。
はっきりしない表情と、態度を見ながら
私はこの目の前にいる男を見たことがないような気がして
思わず「どちら様ですか」と問いかけたくなってきた。
この男は本当に誰なんだろう。
何を考えているのだろう。
何を見ているのだろう。
なぜ私とここにいるのだろう。
さっぱり分からない。
初めて見る気がする。
「美味しい」
ちっとも美味しくなさそうな声で男は言う。
器とスプーンを持つ手を見れば
血管が浮き出して透けて見えているのである。
せめてもっと太ってください。
そうでなければ食べることすらできない。
男が美味しく肥え太るまで
料理を作り続ける、私は魔女なのだ。