92 顔の見えない上司
「漆原課長、お電話です」
「なに、電話?」
その時、玩具会社の会社員で商品管理課課長、漆原シゲルはいつものように事務机の上に脚を投げ出して煙草を吸っていた。
「俺にか? それ、一般回線からだよな?」
「はい、課長にと」
事務の女性が受けたのは社外からの電話だという。
普通、知人から自分に用事がある場合は携帯からかかってくるし、名刺は一応与えられているが、漆原はほとんど使っていない。誰かと名刺の交換などロクにしたことがない。
要するに、外からの電話などあるはずがないのだ。
となるとその電話は問い合わせの類。いや、課長を出せと言ってるぐらいだしクレームの類だ。
漆原はそんな電話に出るつもりは毛頭ない。
「なんだ、それなら営業かクレーム処理に回してくれ。そいつは俺の仕事じゃない」
漆原は社長のコネで入社した社員ということになってはいるが実際、社内でやる仕事などない。窓際の部署で、日が暮れるまで煙草をふかして過ごす。それが彼の日々の「仕事」であり日常だった。
そうして彼は本日12本目となる煙草に火をつけようとしていたのだが、事務の女性の言葉に漆原の煙草を持つ手がピクリと止まった。
「ですが課長を名指しで……『漆原に繋いでくれ』と」
「……名指し? なんて奴だ」
「竜胆という男性です」
「……こっちに回せ」
漆原はため息交じりに机に置かれた電話の受話器を取ると、低い声で話し始めた。
「どういうことだ、石灯籠。こっちでは連絡は取り合わないことになってたはずだが」
『その名前を出すのはよせ。緊急の用件だ』
初めて聞くハンドルネーム【石灯籠】の声は思ったより若かった。
偉そうに頭の固いことばかり言うので、4、50代の厳ついおっさんだとばかり思っていたのだが。
漆原は30代も後半。漆原の方が年上かもしれない。
その思ったより若い声は、いつも通りのイメージで小言を言い始めた。
『それに、どういうことだはこっちのセリフだ。なぜ携帯に出ない? 常に出られるようにしておけと言ったろう』
「ん?」
見れば、ガラケーと呼ばれるのも死語に近い通話専用の携帯端末のランプがチカチカ点滅していた。着信を見ると受信が5件。電話帳には登録されていない番号からだった。
もっとも、漆原はこの携帯に連絡先を登録したことなどないのだが。
「ああ、見てなかった。マナーモードにして振動も切ってたしな」
『最低でも連絡がつくようにはしておけ。なんのための携帯だ』
「上司みたいなこと言うんじゃねえよ。で、その用件ってのは」
『奴らの状況が動いた』
「……というと?」
12本目の煙草に火を点けた漆原は、ゆっくりと煙を吐き出しつつ聞き返した。
『「彼女」と奴が別行動を始めたということだ。早速こちらも行動を開始する』
「もうか。その話題が出たのは昨日の今日だと思ったが」
『予想より早くその時が来たというだけだ。異例なことだが、指導者からの指示も出た』
「オリジナル」。その言葉に、漆原はもたれかかっていた椅子の背もたれから少し体を起こす。
「……まさか、連絡がついたのか……!?」
『いや、一方的な指示だけだ。所在も行方も知らされていない。まだその時ではないということだろう』
「そうか」
長らく行方不明になっていた「原典」、八葉リュウイチ。
あちらから連絡してくるとは、彼にとってもよほど重要な案件ということらしい。
六年もの間、不在だった「原典」。
部下の誰にも決して顔を見せない、上司。
どうしてこのタイミングで?
『間も無くいつもの場所に迎えがいく。急いで準備をしておけ』
「ああ、わかった」
漆原は受話器を置き、事務机の上に投げ出していた足をゆっくりと地面に下ろすと、つかつかと窓際の席にいる中年男性の前に歩いて行った。
「部長。俺の有休残ってましたよね」
「ああ、漆原くん。なんだい突然……?」
生え際の後退し始めた男はひたいの汗をぬぐいながら、机の前に立った部下を見上げた。
「休暇申請。俺、午後から休みますから」
漆原はそれだけ言うと事務所の出口に向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待って!? 今申請書類を出すから、記入してって……!」
「ああ、代わりに書いといてくださいよ」
漆原は首だけ振り返ってそう言い、また歩きはじめた。
それを聞き、あせあせと書類を取り出して、素直に机の上に置いて書き始める部長。
「う、漆原くん! せ、せめて理由だけでも教えてくれんかねッ?」
「理由……? まあ、ちょっとした旅行ですよ。あとついでに2、3日休むかもしれませんから、よろしく」
そう言ってくたびれたダークスーツの上着に腕を通しながら、漆原シゲルはオフィスビルの外、待ち合わせ場所となっている公園へと向かった。
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