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エンゼリカ物語  作者: 豆の闘士
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序章 3


直属軍が行使した新兵器による攻撃は、アリアの侵攻軍の戦意を奪うには充分すぎるものだった。指揮官の頼りない「撤退せよ!!」の号令が掛かるよりも前に、侵攻軍は来た道を皆我先にと一目散に引き返した。動けぬものは抱きかかえられ、あるいはその場に見捨てられ、侵攻軍のしんがりが小さく見える頃には、そこにはただひたすらに重苦しい静寂が広がっていた。


「追撃は」


青き鎧を纏った騎士のうちの一人が、指揮官らしき人物に近づき一言聞いた。高揚の欠片もない、抑揚の一つも感じられない恐ろしいほどに落ち着き払った声だった。


「・・・いや、その必要は無い。不確定な要素があったとはいえ、たった100の部隊に数千もの軍を引かせなければならなくなったのだ。これほどの愚を晒した後で、またここに攻めるような手を考える者は、軍から身を引くべきだ」


クラディウスの前線兵に後退命令を下したあの若い声が聞こえた。あれほどの壮絶な戦いを繰り広げた直後だと言うのに、その息には一切の乱れが無い。躊躇いや後悔や悲しみといった感情も、特に感じ取る事はできない。しかしその声にはどこか諦めというか、憔悴しきったような響をわずかに感じ取ったような気がした。




「いやぁ!本当になんと礼を申し上げたらよいか!まさか直属軍の方々が直接救援に駆けつけて下さったとは・・・我々としても身に余る光栄でございます!」


拠点の基地から今更救援に到着した増援部隊の千人長が直属軍の指揮官に深く頭を下げている。とっくに収束した現場に駆け付けた彼らは予想外の静けさと不気味に抉れた地表を見て驚いていたが、本当に何もかもが今更過ぎる対応に、こんな支部の下っ端の下っ端にいる自分が急に恥ずかしくなった。


「礼には及ばない。我々は元々別の任務を終え帰還する最中だった。ここの野営地の復興にも人手が必要だろう。しばらくこちらの拠点に世話になる。本営にはこちらから伝令をよこしておくから気にしないでくれ」


そう言うと指揮官は兜をおもむろに外し、右の脇に抱きかかえた。すると国境警備軍から再びどよめきが走った。無理も無い。兜を脱ぎ去った指揮官のその容貌は、若者のそれとなんら変わりが無かったからである。それこそクラディウスの中心街で帰りを待つ自分の息子とそう大差なかった。薄紅色の短く、しかししなやかさを感じされる頭髪。その顔立ちは至るところに軽い切り傷や擦り傷が見えるものの、それでも端麗だと充分言い切ることができた。少なくともこんな血なまぐさい戦場には不釣合いなほどに。とにかく若い、若すぎる。しかしその目はとても、とても遠い所を見ていた。黒々とした瞳は深淵をそのまま映し出したかのような、限りない業を感じさせるものだった。一体どれほどの屍を積み上げたことだろう、一体どれほどの戦場を渡り歩いたのだろう。そう想起せずにはいられないほどの、異常な冷たさを感じさせる目をしていた。


「千人長殿、我々はまず現場の物資の回収に移りたい。あなたたちは野営地の修復をお願いしたいが、構わないだろうか」


「も、もちろんでございます。なんでしたら我々の方からも人員をよこせますが」


「それには及ばない。ここを荒らしたのは主に我々だ。我々の手で後始末をしておくのが筋だ。収束が済んだ後、野営地の修復に我々もすぐに向かう」


直属軍の指揮官の予想外の若さに千人長も面食らっていたが、直属側の要求をほぼ受け入れる形で現場の修復、復旧作業が始まった。


今日の戦は思えばあまりにも早すぎる決着だった。まだ日すら落ちきっておらず、寂れた夕日が辺りを包んでいた。北部戦線付近の至る所で警備軍が忙しなく修復に従事している。各分隊長達が大声で指示を飛ばし、動けるものは皆すべからず己の任務を粛々とこなしていた。傷つき動けない兵士達のために、軍医達も忙しそうに右へ左へと駆け回る。劇的な逆転勝利を納めたにも関わらず、目にした光景があまりにも壮絶なものだったためか、クラディウスの陣営はどこかなんともいえない独特の重苦しい空気が漂っていた。










「残存兵士の報告は現時点では皆無です。残っているものはほぼ全て死体です」 


静かな、しかしそれでいて力強さを感じる声の響きによって、思索に沈んでいた頭が現実に引き戻される。金色の長い髪を後ろに束ね、凛としたその瞳を真っ直ぐ自分に向けながら、彼女はそう手短に報告を終えた。



「ご苦労。抉れた大地をある程度ならし終えたら、報告も兼ねて我々も防衛軍側の修復に向かう」


「御意。その作業もあと数十分程で収束するかと思われます」


「あぁ、よくやってくれた。思えば今回の加勢は俺の独断だったと言うのに、お前たちはよくぞついてきてくれた」



己の眼前には、爆弾の投下によってひどく抉れた大地を平坦にならしている隊員たちが見える。その大地の下には、今の今まで自分達直属隊が殺していった命がいくつも埋められているのだろう。刀剣で首を切りつける寸前、馬で彼らを轢き殺す寸前、放物線を描いて地に放たれた爆弾を呆気に取られて見ていた顔、その全てをはっきりと思い出す事ができた。


以前の自分であれば、嫌悪のあまり胃にあるものを全て吐き出す事もあっただろう。罪悪の証明を少しでも紛らわす為に、奪い取った命の墓も建てただろう。



悲しみや怒りを覚え難くなっている自分が、何よりも恐ろしく感じた。命を奪うという事に対して、もはや一片も躊躇わなくなった自分に、途方も無い不安を覚えた。


…全ては平和な世界の実現の早期実現の為に。今の自分に出来る事は、この言葉を頭蓋で幾度も幾度も反復させながら現実を受け止める。これで精一杯だった。


「友軍が危機に陥っていれば、救出に向かうのは当然の事です。ですのでその…差し出がましい言葉で大変恐縮ではございますが、フィリップ隊長、あまりご自分を責めないで下さい。内戦中の我が国では仕方のない事なのですから」


そう自分に言葉を掛けるエルマの顔は、とても不安に満ちていた。今の自分の顔は他者に不安を悟られてしまう程に、もしくは他者に負の感情を伝播させてしまう程に、暗く陰気な表情をしていたのだろう。せっかく自分達の陣営が勝利したというのに、隊長たる自分がこの有り様では今後の士気に影響してしまう。



「…すまない。どうも最近疲労が抜けなくてな」



大きく、それでいて短く息を吐き出し、残っている気力をある程度払ってなんとか気丈に振る舞おうとした。



「無理もありません。ここ最近、我々はずっと連戦でしたか…」



両者は言葉を切った。たった今現れた人物に頭より先に体が反応した。恐らくは大地に埋められていた“死体だと思われていた”ものの内の一つだろう。呻き声のような叫び声のような、掠れた断末魔の声を伴いながらアリアの兵士は土中より自分の丁度すぐ後ろに這い出した。


咄嗟にエルマは刀を抜こうとしたが、自分がそれを左手の合図で止めるように制した。なぜならこのアリアの兵士は…



足が無くなっていた。それも両の足が不揃いに、見るも無惨に痛々しく欠損している。先程の戦闘が収束してから今まで最低でも四時間は経過している。この怪我では想像するまでもなく、出血は夥しいものだっただろう。意識が残っている事自体が奇跡的だと言える。



「隊長」

「よせ、もう永くはない」



言葉にならない声を吐き続けながら、瀕死の兵士はそれでもゆっくりと、自分の足下に這いつくばってきた。



「言い残した事はあるか」


「隊長!」


咎めるように、指示を懇願するかのように、抜刀の構えを取りながらエルマは語気を強めた。自分でも何故そんなことを口走ったのか、今でもわからなかった。言葉が口を突いて飛び出して来たかのようだった。


兵士はやがて自分の足下から、月でさえ貫けるかのような鋭く猛々しい視線を向けながら、ありとあらゆる怨みと憎しみに顔を歪ませ、あらんかぎりの、最期の力を振り絞りながら言葉を紡いだ。小さく、それでいて酷く掠れた声だった。そして兵士は言葉を吐き出した後、糸が切れたように顔を大地に突っ伏し、それきり動かなくなった。


「…防衛軍の元に報告を頼む。俺はこの兵士を埋めてから行く」


「…御意。隊長、彼は今、なんと言っていたのですか?」


「それも後に話そう。とにかくすぐに向かってくれ」



エルマは戸惑いを隠せずにいたが、やがて短く敬礼の姿勢を取った後に近くに止めていた黒馬に跨がり、野営地に向かった。蹄の音が遠ざかると、後には久遠にも感じられる静寂が続くばかりだった。





人殺しめ、お前を幸せになどするものか。


俺を見ろ。この姿を目に焼き付けるがいい。


お前が幸せを感じる時、そのたびにこの無惨な姿を思い出せ。




先程の兵士の最期の言葉が、今も頭の中に鳴り響いていた。彼を地獄に堕した事に後悔はしていなかった。ただ踏みにじった者の責務として、これ以上誇り高い騎士の名誉を傷付けないために、手向けだけはしなければならないと、名も知らない仏を地に還す為に、スコップを用いて大地をひたすらに掘った。



「幸せか…随分と縁遠いものになってしまったな…」 



誰に伝えるともなく、心の内が言葉となり零れた。もう引けぬ処まで来た。確かに後悔は無いとは言えたかも知れない。…だが…




後何度傷付ければ、辿り着く事ができるのだろう…。



後何度愚かさを繰り返したら、戦は止むのだろう…。



後どれだけの犠牲を払わねばならないのだろう…。




答えの見えない問いが内なる心を巡る。いつの間にか辺りはもう、すっかり暗くなっていた。





優駿は猛る。己に課した使命の為に。


明日が見えずとも、今は先に進むしか無いと、


自らを奮い立たせるその瞳は、限りなく遠い場所に向けられていた。



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