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・幻滅

・幻滅


「なあ、止めとかないか」


「どうして。ここに来たってことは、そんなに家は遠くないはずだよ」


 外は暗く息は白い。


 ともすれば自分の吐く息が、ささやかな灯りにさえ、見えそうなほどだ。


 今日もあの人は来た。何故かと既に尋ねたものの、答えは未だに無い。日を跨いだことで、質問自体を、無かったことにしたようだ。


 もう一度聞いてみようかと思ったが、止めた。何故止めたかといえば、あの人が家に来たときに、菓子折りを持ってきたからだ。


 料理でも玩具でも雑誌でも服でもなく。


 話してみれば、当たり障りのない話に終始する。俺のことを聞きたがるくせに、俺が聞くとはぐらかす。


 距離があった。

 俺は元より、向こうも埋める気のない溝が。


 そんな訳で縒りを戻す、或いは俺を招くというお誘いを蹴って、話は終了する。


 学校のことは聞かれない。だって小学校の頃から、ろくなものでは無かったから。


 だから上手く行ってるはずがない、というのがまあ、常識的な判断だ。


 仮に上手く行ってなかったとしても、それを如何にかしようと迄は、考えていないってことでもある。


 家のことも聞かない。祖母が死んだ話もして、その上で祖母の家に住んでる俺の、現状を見れば、希望的な観測はできない。


 というのも一般論だろう。仮にそうだとしても、やはり何かを如何こうしようと言う、心算もないってことである。


 だから『最近どうですか』という、介護老人の往診に来た、医者みたいな問いかけに、おかげさまでと返して気温の話をして、短い間の、不本意な立ち話をして終わる。


 たったそれだけのやりとり。


 家族の絆を取り戻す、なんて上手い話じゃなくて、何かのために、俺を取り込もうという話だ。


 あの人とのやり取りに、納得の行ってなかったミトラスに、そのように話した結果、こうなった。


 本心を確かめたいのだ。

 現実を受け容れられないのに。


「なんで家を突きとめようなんて思ったんだ」


「自分の子に住処を問われて、濁すのはおかしいし、触り程度でも良いから、分かるべきじゃないかな」


 こんな言い分で、人妻の後追いをやらせようってんだから、子どもの駄々って面倒臭くて敵わん。


 何度こいつとしても、子どもを欲しいと思ったことは、ただの一度も無い。


「魔物の家庭は獣の延長です。群れや一族の上下を争うことや、巣立ちのときもありますが、同族の中で憎しみや、断絶を抱かないように出来ています」


 家を出たあの人が、住宅街を出て、駅へと向かう交差点に差し掛かる。その後ろに、人間に化けたミトラスと、いつもの私服の俺が続く。


「だから」


「人間だって動物だから、魔物のように、やり直せると思うんです」


 ああ、優しい奴め。

 馬鹿な奴、今だけはお前が嫌いだよ。


 要するに、俺とあの人がやり直さないのが、おかしいから、その原因を突き止めようというんだな。


 居場所を突き止めれば、多少なりともそれが分かると、思ってるんだな。


 今はお前が嫌いだよ。だって、俺が俺のことを教える度に、きっとお前は傷つくから。


 やり直せると思ってる、お前の優しさが、やり直させようと躍起になってる、お前の誠実さが、裏切られるとも知らず。


 可哀想だな、ミトラス。


「電車に乗るみたい」

「そういやお前電車乗るの初めてだっけ」

「え、猫になって何度か乗ってるけど」


 ちゃっかりしてるなあ。


 俺たちはあの人を追い、小銭で切符を買うと、小田急は普通電車に乗って、隣る足柄駅へと足を伸ばした。


 どの時間でも、必ず誰かが乗っているけど、満員になることは、そうない。


 電車の中には、身内のノリから外へ目を向けることが、怖くて出来ない学生や、自分がないから賽の目のように、主張が転がる社会人の姿はない。


 今の時間帯にいるのは、生活の時間のズレや、会社のグループから零れたような、単品ばかり。


 昔は何も考えなくても良かったのにと、顔に書いてある人々を尻目に、俺たちは早川駅へと降りた。


 暗いのもそうだが、過疎化が進んで鄙びた地域が、一気に危機感を煽る。


 ぽつぽつと点在する団地や、マンションが見えるものの、基本的に周囲一帯が開けているので、逃げ隠れする場所は無い。


 人も少ないので、犯罪者がその辺の誰かを誘拐して、団地に引き上げでもすれば、誰にも分からない。


 道も広い。車でやってきて、というのが容易い。かつて宿場で栄えた小田原が、来訪者に脅える日が来るというんだから、悪いことはできないな。


 昔は白タクならぬ白駕籠や、普通に泊めるより騙して追剥するほうが儲かると、やんごとない身分の人を襲う宿場も、あったらしい。


 だからきっと、小田原でも沢山あったに違いない。だから発展したんだな※。


※偏見。


「あっち」


 ミトラスの声に振り向くと、彼の視線の先には、彩度の低い冬物の衣類で、身を包んだあの人の姿。


 野暮ったい足音が、こちらまで届きそうな、野暮ったい冬物のブーツ。人ごみに紛れたら、見失いそうな醤油顔。誰と話すでもない無表情。


 何時見ても日本人の無表情って汚えなあ。


「なあミトラス。やり直せるかってことと、やり直したいかってことは、別のことだぞ」


「え、なにいきなり」

「いやいい」


 あの人を追って、今度はバスに乗る。先払い式で、目的地を告げて運賃を払う。あの人が言ったのと同じ場所を聞いて、ミトラスが先に乗り、俺が一つ送って次のバスに乗る。


 この辺のことを、示し合わさずに出来る辺り、お互いに慣れているって感じがする。


「じゃまた後で」


 次のバスが来るまで十五分、目的地までまた十五分。降りた先には、目的地まで行って、戻ってきているはずのミトラスが、いない。


 また待つ。寒い。


 改めて周囲を見回せば、閑静な住宅街の、名残のような街角。櫛の歯が抜けるというような表現が似合う。


 まばら、虫食い、人の多い区画のはずなのに、密集していない。隙間の空いた街並みで、灯りの点いてる家も少ないと来れば、そんな中一人で突っ立ってる自分が、いよいよ馬鹿らしくなってくる。


 どれくらい経ったか、長かったような、短かったような。とにかくしばらくして彼は、バス停に戻ってきた。顔色が良くない。人間よりも、遥かに強力な生物のはずなのに、精神面でやたらと打たれ弱いな。


「あ、サチウス」

「どうだった」

「あ、あの、日を改めたほうが、いいと思うな」


 とてもがっかりしていた。

 目を合わせようともしない。


 大方この世界の、人間のご家庭というものを、或いは俺の素二分の一が、どういう人間かを見たのだろう。


 どう言って良いのか、分からないといった顔だ。どう言い繕ったら良いか、困っているときの顔だ。


「それは、お前の言ってたことが、当て嵌まらなかったからか」


 言葉を選んで問いかける。もう少し辛く当たる言い方もあったけど、そんなことしても意味が無いし、俺はミトラスを責めてないから、そんなことは言わない。


「それは、うん、そう、ごめん」


「謝るな。お前は悪くないんだから、むしろ俺のほうこそごめんな。あんなのから生まれて」


 ミトラスは泣きそうだった。


 たぶん、刺激の強い何かを見たんだろう。近くまで来たけど、隣までは寄って来ない。戸惑っているんだろう。名前を呼ぶと、彼はびくりと震えた。


「俺を連れて行くか、俺を連れて帰るか、俺を置いていくか。待ってるから、決めてくれ」


 はっと顔を上げると、ミトラスはもう一度だけ俯いた。意を決したのか、こっちまで歩いて来る。


「行こう。こっちです」

「分かった」


 ポケットで温めていた手を握ると、彼は俺を連れて歩いた。行くことにしたらしい。普段は温かいその手は、汗にじっとりと濡れて、冷え切っていた。


「ミトラス」

「何」

「怖いか」


 前を歩くミトラスの頭が小さく頷いた。誰もいない道、街灯もろくにない道を、静かに歩きながら。


「僕には母親がいなかったんだ。父親はろくでもなくて、だからちょっとだけ、そういうのに憧れてた。だけど、それがあんな」


 不安を堪えきれず、零した彼の声には、自分の信仰を打ち砕かれた恐れや、それを齎した者への失望が、滲んでいた。


「皆いつか、あんなふうになってしまうんだろうか」

「いっそうちのが特別駄目だと、思いたいけどな」


「でも人間だから、やっぱり幾らでも、いるんだろうな」


 それきり沈黙したまま、歩き続けた。今度は早い内に目的地に着いた。


 目の前には他と比較して、真新しい綺麗な新築の家が一軒建っていた。二階建ての、白い庭も車庫もある、裕福そうな家。


 郵便受けに掛かる表札を確認すると、知らない苗字が書いてあった。


 家の明かりはまだ点いていて、中からはテレビの音が漏れ出している。


 そして、その音に紛れて、人の声も聞こえてきた。

 男の声も混じってた。

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