・今昔祥子2
・今昔祥子2
ママの機嫌が良くなる方法が分かった。
あの駄目な人がママをいじめるときに、ママを庇うのだ。するとママは自分が守られてる、庇ってもらえてると思って、私に良くしてくれる。
順番が逆だと思うんだけど、うちの親にそれを期待しても意味が無いから、現実的にできることをしよう。こんな親を持った、私の運が悪かったんだと諦めよう。
私ももう小学二年生だ。自分が悪いことをしたら、人に謝らないといけないし、人の話はちゃんと聞いて考えて、分からなかったら質問して、自分の言ったことややったことを、覚えておかないといけない。人の嫌がることもしないし、ちゃんと言い返さなきゃ。
出だしは良かった。
あの人はお酒を飲んで、毎日大声で怒鳴るけど、言ってることは滅茶苦茶で、自分に都合の悪いことは全部忘れる。でも逆恨みするときは全部覚えてる。
あの人の卑怯なところは、やり返されると言い訳を怒鳴ることだけど、もう慣れた。頭もそんなに良くないから、直ぐには別の言い訳を思いつかないし、同じ理由では、一週間くらいは言ってこなくなる。
あの人がママに言いがかりをつける。ママがうんざりすると、態度が気に入らない。誠意がない。俺を馬鹿にしてる。そんなことばっかり。本当に馬鹿の癖に何言ってんのよ。
私が違うよって言う。怒鳴り声が振ってくる。黙ってろ。どっかへ行け。生意気を言うな。ほら何も言い返せない。
あの人がズルして、忘れたふりしてることを、私が全部言って、今のこの人のやってることを言って、私にあーしろこーしろと、偉そうに言ったことを言って、最後にこの人が間違ってることを言う。
この人は直ぐに顔を真っ赤にした。お酒に頼って怒ってるって分かってるから、全然怖くない。私から逃げてママに向かおうとするから、足を引っ張ると思いっきり蹴られた。俺が悪いのか、だって。悪いに決まってるじゃない。
でもすぐにママが来てくれた。やった。こうしてママの先生になれば、ママだけはもうちょっと、ちゃんとした大人になる。私も辛いけど、でもママが良くなるならいいんだ。
そう思ったけどそれも上手く行かなかった。
アレが私を蹴った日から、アレは私とママを殴るようになった。ママは『もう余計なことしないで』としか言わなくなった。
ああ、これはもう駄目だ。このままだとママも敵になってしまう。こうなったらもうどうしようもない。二人同時には戦えない。どうにかして一対一にしないと無理だ。だから。
もうママを、家から追い出すしかない。
嫌々だけど、家に上げた彼女は、物珍しそうに中を見回した。さして広くもない平屋一階建て。
仮にも自分の義理の母親の家だが、この人がここに来たことは、たぶん一度もない。俺と一緒に来たことがないのは確かだ。
たぶん婆ちゃんの顔も覚えてないんじゃないかな。
「ここが、あなたのお家」
「お婆ちゃんのです」
来客用の物なんか一つも無いから、冷蔵庫のほうじ茶を出す。茶菓子はない。
コート掛けなんか無いから、彼女は脱いだそれを、そのまま持っている。リビングの椅子は二つしかないし、部屋干し用のハンガーも無いから、椅子の背に掛けないのであれば、そうするしかない。
改めて見ると、やっぱり寂しい家だな。
「一人で住んでる、のね」
「はい。一応猫もいますが」
ミトラスは猫状態で顔見せだけして、婆ちゃんの部屋に引っ込んだ。ママは良い顔をしなかった。
昔は家に来ていた野良猫で、気を紛らわせていたが、今はそうでもないようだ。まあこの辺は普通の女の人だよ。
「今はどちらにお住まいに」
「え、ああ、○○だけど、来月末に引っ越すのよ」
「そうなんですか。引っ越すってどちらに」
婆ちゃんが死んだとき、彼女は既に離婚していて、葬式には出なかった。婆ちゃんの息子もそれを無視したから、俺が役所に相談した。
結果俺が届出を書いて遺体を焼却した。骨壷持って、墓まで入れに行った。婆ちゃんの知り合いなんか知らないから、もう頼れる人はいなかった。香典なんか有ろうはずもない。
離婚時にこの人から、緊急連絡先として渡された番号は、最初から使えなかったことが、後になって判明した。年末に引越しねえ。嘘か真か。
「ええと、その、今の夫の実家に」
「ああ再婚なさったんで、おめでとうございます」
一応頭を下げる。そうか。再婚したのか。
「ありがとう。それでね、その、懐かしくなって、もしかしてと思って寄ってみたらその、あなたがいた訳なんだけど」
急に説明し出したな。たぶん実家のほうにも行ったな、この人。
「その、いきなりこんなこと言われても、困ると思うんだけど、その、あのね」
「何でしょう」
位置取りのおかげか、向かいに座る女性は、ちらちらとこちらの顔色を窺っている。隣り合っていたら、たぶんほとんどこっちを、見なかっただろうな。
「また、一緒に暮らせないかと思って」
「引っ越すんですよね」
「ええ、それはそうなんだけど、今すぐでなくてもいいの。学校のこともあるし、転校が決まってから、後から合流してもいいし」
急だな。そして話がおかしい。
一緒に暮らそうと言いつつ、来月には引っ越す。転校を決めた後から、家に来てもいい。俺が言うのも難だけど、非常識だ。
俺と一緒に暮らしたいって感じが一つもしないな。
「申し訳ありませんが。今はこの暮らしが性に合ってますので」
「あ、そ、そうね。流石に急過ぎたわよね、ごめんなさい。でも気が向いたら連絡して頂戴」
(本当に同じ人なのかしら。昔はあんなにママ、ママって言ってたのに)
彼女はそう言って出て行った。外は真っ暗なので一応見送る。その間も口は利かず、隣を歩く女性の心中からは、責めるような不満が湧き上がるだけだった。
住宅街の外れから、街中を通って駅近くに着いた辺りで、俺たちは分かれることにした。
「態々ありがとうございました、それじゃまた今度」
「あの」
立ち去ろうとしたところを、呼び止められた元ママは、何かを期待するような目で、こちらを見た。
「一つお聞きしたいことがあるんですが」
「何かしら」
「どうして、一緒に暮らしたいと思ったんですか」
え、という声がした。
しただけだった。
何もない『間』。
それから彼女は、慌てて何かを言おうとしたけど、最後まで言わせないほうが良いと思った。
「どうしてって、それはなんで」
「いえ、いいんです。それじゃ」
俺はもうこの人の顔を、見ていたくなかったから、会釈をして来た道をまた戻る。
街の音から遠ざかるに連れて、自分の内心が濁った熱を、持ち始めているのを感じた。
顔が歪みそうだ。もう歪んでるかもしれない。別れ際のあの人の焦った顔に、反吐が出そうだった。一緒に暮らしたい以外の理由が無いんじゃない。
あれは『どうして縒りを戻す理由を探るんだ』って顔だ。疑われて傷付いたんじゃなく、心当たりを覚られまいというする顔だ。いっそ、もう一度心の声を、聞いてしまえば良かった。
自分で聞いておきながら、咄嗟にそれを封じてしまった。もしも彼女の答えと、内心での答えが違っていたら、それが意味することを考えたくなかった。
とっくに縁も切れたと思ってたのに、俺はまだ怖がってるんだ。まだ亡くしてないつもり、だったのかも知れない。
――にゃあ。
不意に足元から鳴き声がした。白黒の猫だ。ミトラスだった。いつからいたのだろう。いや、きっと最初から、いてくれたはずだ。
俺が気付いてなかっただけで。
「ごめんな。幻滅したろ。これが俺んちなんだ」
ミトラスは何も言わなかったが、帰ろうと言うと、もう一度だけ『にゃあ』と鳴いた。
そして彼は、俺の胸へと飛び込んで来た。コートの下にセーターを着込んでも、寒さが厳しいこの頃、彼の体温はとても暖かかった。
「帰ろう」
後はもう何も言わず、俺たちは家へと帰った。
吐く息は白く、とても冷たくなっていた。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




