・サチコの休日
・サチコの休日
十月某日。平屋一階建てのさして大きくもない湯船に二つの影があった。一組の男女は久しぶりに仲良く入浴していた。異世界の住処に比べて慎ましいためその機会が減っていたが、二人ともしたいときにはやはりするのだ。
かれこれ同棲生活も四年を迎えこうした触れ合いにも抵抗が無くなった男女は、お互いの体を洗い合った後に肌を重ねて湯船に沈む。
浴室内に満ちた石鹸とシャンプーの香りの中に、女と少女と子どもの匂いが入り混じる。汗と肉のから発せられる生の臭気である。
女はどこか陶然としながらも胎の上に少年を、自分の男を大事そうに抱えて目を瞑っている。彼はといえば、女の豊かな乳房に後頭部を埋めてながら借りてきた猫のようにじっとしていた。
少年は彼女を起こさないようにそっと体の向きを変えた。厳密には彼女は起きている。意識はあるにはあるのだ。今はただ、この瞬間に日頃の様々なことを頭から追い出して彼との時間に耽っている。
それを邪魔しないためには、体から体が離れないようにしながら、あたかも寝返りを打つかのように変えなければいけなかった。
とはいえ限度がある。密着したことで汗をかいた二人の肌が僅かに離れれば、隙間に湯が流れもう一度その膠が出来るまでまた時間がかかる。初めの頃の女生徒はそれに不安を感じては、身動ぎの度に目を覚ましてしまった。
今は彼が自分の上で寝返りを打つことに、違和感を覚えなくなった。人に生らざる少年は、力が抜けた彼女の顔を覗き込んだ。
安らかな顔をしている。このときだけは死んでしまっているのかも知れない。そんなふうに思えるほど、そこには何もなかった。
彼は心配だった。最近は部活の話もするようになって、幾らかは楽しそうになった。それでもやはり、彼女は無理をしているのだ。
元から誰かと接すること自体、あまり好きではない人なのに、相手が嫌いではないからと、誤魔化しているだけ。
疲れ、憂さ、虚しさ、そういったものが全て吐き出されて空っぽになる。それなのに無理を重ねるのは何故か。それこそ相手が嫌いではないからだろう。
相手を嫌っていない自分を、同じく嫌わない、或いは好ましく思ってくれる友人と、基本的に一人でいる少年への気遣いからやせ我慢をする。何とかして明るい話と人生を心掛けようとする。
それでも態度までは変えられないなから、自然な彼女に近い形で無理をする。自然に近いせいで、逆に深く磨り減る。かつて砕けた普通の仮面を無理して被る。
結果として、好意を返そうという背伸びが、少女の今を形作り、その苦痛を微温湯の中へと溶かして、自分へと漏らしてくる。
その醜さといじらしさが、彼には堪らなく愛しかった。
ここでなら、彼にならそういった全てを吐き出してもいいと感じている。そのくせ心の中にはもしもそうでなかったとしても、そこに裏切りを感じず失望もしないであろう冷めた部分がある。
時に姉のようであり、時に娘のようでもあり、時に他人のようでもある人。今は誰でもなく一人の女性として、この小さな湯船に揺蕩う。
彼は待った。彼女が起きるまで。
こういう日は後には何もせずただ時が流れるのを待って、風呂を上がって寝るだけだ。静かで短い一日がたまにある。
少女は、誰かがいない場所から来た。誰にもならないまま今に至る。彼女が誰かは多くの人が知っている。少女自身は自分が誰なのか、誰でもないのに分かっている。ただそこに、一人の人間が後も先も無く浮き上がっている。
少年は自分の唇にかかる彼女の寝息に引き寄せられた。
――疲れた。台風一過でしばらくは静かになると思ったけど、逆だった。あいつら何であんなに元気なんだ。馬鹿じゃないのかと聞けば、全員が全員別々の方を向いた馬鹿なんだろうな。
あいつらと関わり合いになるのを悪くないと思ってる自分がいる。けど疲れる。とても。遊び疲れとは違う苦しみの疲れ。人と話すのは、接するのは疲れる。
大分慣れてはきたけれどそれだけだ。人が嫌いとか苦手になった以上それはたぶん、一生消えない感覚だと思う。紛らわせないとやってられない。
もうじき一年が経つ。やっと一年だ。思いつきと義理で学校生活なんてやるものじゃない。気にもせず惰性で入れることの気安さが羨ましい。こんなもの、自分の意思でやるものじゃない。割りに合わない。
最近は異世界の街と魔物たちの姿が薄れるどころか前よりも思い出すようになった。ホームシックになってるんだな。十五年間いたこの世界よりも、三年過ごした向こうのほうが、俺はずっと好きなんだ。
湯船の中は、バラバラに散った俺の髪の毛で真っ黒だ。これが髪に良くないことは知ってるけど、たまに無性にやりたくなる。湯船に横たえた体が、水を吸った髪の重さで沈み込んでいく。浮き上がらないことに安らぎを感じる。
胎の上でミトラスが寝返りを打った。自分の裸の上を異性の裸が滑る。息が漏れた。はしたない声が出そうになる。視界に移る緑髪の子どもが、俺を見ている。
俺に全てをくれた子どもだ。本当に全部って訳じゃないけど、それくらい大切で。結構厳しいところもあるけど、厳し過ぎない。どんなことも言わせようとするけど、今みたいに疲れきってると、何も言わずにしてくれる。
猫が頭を摺り寄せるようにして唇が触れた。もう何度目だろう。初めては俺のほうからしたのに、最近はめっきり彼からしてもらっている。
体勢がつらくならないように彼を抱きかかえる。口の中に彼の空気が入ってくる。肺の中を洗われているような錯覚に陥る。何度も体を重ねるたびに、夢じゃないかと怖くなる。
彼と一緒にいるときは、俺は一番幸せなのだ。それなのに。どうしてそれに執着できないんだろう。手放したくないと思えないなんだろう。
理由は分かってるんだ。俺には分不相応な幸せだから、いっそ夢くらいが丁度いいと、どこかでこの生活が嘘になってもおかしくないと思ってるんだ。失くしたときのことをが怖いから、予防線を張っておきたいだけなんだ。
そんな考えが浮き上がる度に、いつも俺をあやすように抱いてくれるこの子への罪悪感が募る。だから無理をして普通とか、元気とか、大丈夫そうな日常を心掛ける。
でも、それもやっぱりお見通しなんだな。
毎日顔を合わせていると、自分のことを分かってくれていることが分かる。自分の背伸びも強がりも、全部見透かされている。安心する半面、申し訳なく思う。
つき合ってくれてありがとう。
つき合わせてごめん。
ずっと、お前の掌の上でいたい。それだけで善いはずなのに素面になれば、大事にしてくれるお前の気持ちに、俺が見合わないことが何だか少しだけ、寂しいんだよ。
本当は、肩なんか並べられるはずはないのに。今だってそうだ。俺が抱きしめてるんじゃない。あの日は確かに俺からだった。でも今は彼に抱かれるようになった。
この子を受け止めていたはずが、すっかり俺のほうが受け止められるようになった。嬉しいけれど、俺はもうお前を守れるような人間じゃないんだなって、最初からそうだったんだって実感するようになった。
お前に守られていることが、今は。
「なあ」
「なあに」
唇を離して声を出せばお互いの息が顔にかかる。自分のものが移った息の匂い。どこか甘ったるいのはどちらのせいだろう。
「今度、何でもいいから、俺からしたいんだ」
「何でもって、何を」
「だから、何でもいいんだ」
彼は不思議そうに俺を見た。金色の瞳は捉えたものを全て取り込んで全て飲み込んでしまいそうに思える。そうなってもおかしくないのに、瞳を覗けばいつも俺がいる。
「最近さ、大事にされてると思って」
「そうかな」
「うん。だけど、俺のほうはあんまりお前を大事にしてないなって思って」
そんなことないと思うけど、と彼は咎めるように目を細めた。俺は彼の体を抱え直した。女の子がぬいぐるみを抱くような形になった。
「好きでいてくれるのは嬉しいけど、あんまり大事にはしないでくれ」
「どうして」
言葉に詰る。俺が勝手に気後れしてるだけだ。怖気づいてるだけだ。それなのに止めてくれなんて、言っていいはずがない。
『お前に悪いから』なんて言ったら、そっちのほうが絶対にこの子に悪い。どうしよう。
「いいよ」
首筋にぴたりと触れていた口が動いた。囁くような小さな音。でもそれは挑発的で、からかうような響きがあった。
「この後、君からして欲しい。そしたら今日だけ、大事にしないであげる」
直後に口が触れていた辺りにじくりと熱と奇妙な熱を感じた。きっぱりと『NO』と言われてしまった。
「明日は日曜日でしょ」
「バイトはあるよ」
「大変だ」
彼は無邪気に笑うと、浴槽に漂っていた俺の髪を引っ張った。もう出ようということらしい。思えば久しぶりに長湯をしたような気がする。
魔法で髪を乾かしてから脱衣所に戻る。体を拭いて下着、シャツ、パジャマの順で着込む。それで俺の部屋に戻ると、そこにはもう着替え終わったミトラスが待っていた。
「今日もよろしくお願いします!」
「こら、髪ちゃんと拭けよ。禿げるぞ」
風呂上り用のバスタオルを彼の頭にかけて水分を多く含んだ髪をごしごしと拭いていく。なすがままだった子どもの体がこちらへと倒れこんでくる。顔は見えない。
「何回だって言うよ。僕は、サチウスに嫌われない限りは絶対止めないし離さないから」
「そっか。そりゃあ敵わないなあ」
俺の意思は関係ないなんて、普段のこいつなら考えないことだ。態々こんなことを言ってくれるってことは、やっぱりお見通しなんだな。
本当、敵わないな。
「ミトラス」
「何」
「やっぱまた今度な!」
「え!?」
心の底から驚いているミトラスの顔を見て少しだけ気が晴れる。どうにもならないんだから、どうもしなくていい。俺とこいつのことなんだ。俺だけで決めることじゃない。
ミトラスのことを考えれば気にするなってのも正しいんだろう。それで良いことにしよう。第一こいつと対等になったり並び立ったから何だってんだ。そこから先のことなんか何も考えてねえや。
「すっきりしたからまた今度。ほらもう出てった出てった」
「こ、ここまで来てそれはちょっと」
「駄目なもんは駄目だ! じゃーなおやすみ!」
俺に追い出されたミトラスは、渋々部屋を出て行った。
「ミトラス」
「なあに」
振り返った奴は恨めしげな目をこっちに向けた。ああ、いつもの俺たちだって感じがする。
「ありがと」
「ん。おやすみサチウス」
そうして俺たちは一つの休みを迎えようとしていた。変わってないのに変わったような気になる。そして変わってないことに気がつく。
何も無かったといえばそれまでだけど、それで済んだから今日の所は良しとしよう。たぶんこの先も、まだまだ色々と面倒臭い気持ちになることもあるだろうから。寝てしまおう、気が変わらないうちに。
隣の部屋にミトラスが入った気配を感じて、俺は部屋の明かりを消した。
―了―
この章はこれで終了となります。
ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。
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