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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
平和な日々編
89/518

・サチコと運動部

今回長いです。

・サチコと運動部


「では、はじめ!」


 部員の声と共に、両者全くの同時に動き出し、合わせ鏡のように、数歩下がる。


 互いにそれが、最も強い一撃を放てる距離であることを、知っている。


 知った上での見逃し、通し、許可。女生徒が相手に向かってジェスチャーを取る。


 拳で口と頭と首を軽く叩くと、相手の運動部部長が頷いて、今の三点を確認する。即ち、防具がちゃんと装備されているか。


 ヘッドギア、マウスピース、ネックガード。およそ柔道着に組み合わせて、使う物ではない。


 そして今度は運動部部長が、相手に向かってジェスチャーをとる。口と頭と首。女生徒も同様に確認をして返す。


 お互いに構えて呼吸を合わせる。弾むように、一二の三。正に子どもの遊び。頷き合い再び中央へと戻るとき、二人は何も考えず、ただ真っ直ぐに全力の拳を、前へと繰り出した。


 ここは米神高校柔道場。OBたちが汚し続けたマットと、床下は腐り白蟻が湧き、改装工事がつい先日完了した、新品ピカピカの空間だった。


 主な使用者である柔道部は、自らの不始末でこうなったことから、無期限の活動停止に追い込まれており、現状運動部が使いたい放題である。


 そんな場所に搬入された、新品のマットに沈みこむ女生徒。遠くで聞こえる、部員の勝敗を言い渡す声。続けて誰かの倒れる感触が、伝わってくる。


 両者渾身の相打ち。何故こんなことになったのか。それは少し前まで遡る。



『求む対戦者』



 そのような依頼が、愛研同総合部の、掲示板に張られていた。場所は柔道場。


 依頼主は元運動部現運動愛好会部長、と書くと何が何だか分からないが、所属している人々にはそれで通る、不思議な肩書きの女。通称運動部。


 やれ西暦が何年だの、文明が宇宙時代に到達しただの、言った所で自分の体を動かすことが、至上の喜びであり、楽しみである彼女らに、時世は関係無い。


 基礎体力を向上させる訓練をやった後は、その時々で興味ある運動に取り組むのが、彼女らである。


 あるときは大道芸、あるときは民族舞踊、あるときは体操、そして今は格闘技。


 内容は女子との組み手。彼女らは部内でも、統一して何かに取り組むということは、滅多にない。


 四人しかいないので、何か芸を身に付けても、そこまで盛り上がらないからだ。少人数なのでお披露目の場所や、機会を得られないということもあった。


 そんな背景もあってか、彼らはのびのびと、自分の好きな運動に取り組める。


 だが複数人を要することに挑戦をする場合、人数不足に陥ることが、何度もあった。何せ複数ということは、自分以外の人間たちの、同意が必要だからである。


 全員が自分優先なので、折り合いが中々つかない。そうなるとどうなるのか。外部に頼るのである。


 つまり、掲示板に依頼を貼って、都合の良い人が来るのを、待つということ。


 そんなことは知らない女生徒が、運動部の依頼に目を留めたのは、報酬の部分だった。そこにはこう書いてあった。


『報酬:人と殴り合う経験』


 彼女は料理部に手製の梅シロップを納品してから、柔道場へと向かった。学校内ではいつも、全ての荷物を持って移動しているので、体操着と柔道着、両方とも用意が出来ていた。


「すいませーん。依頼見て来たんですけどー」


 電灯の光に照らし出された空間には、木の壁、鉄骨の天井、畳の緑と白やオレンジのマット。それと何故かサンドバッグ。


「あ、部長の奴ですね。ちょっと待っててください」


 入り口のほうで柔軟運動をしていた、一年生の小柄で可愛いらしい男子が、奥へと小走りで去っていく。


 彼がいた場所には『身長と跳躍力の両立』と書かれたノートが置かれていた。


 端のほうでは二人の男子が、何やらジャグリングの練習をしている。


 片方がムーンウォークの要領で、前を向きながら後ろへ走り、もう片方がそれを追いかけるという構図だ。二人してコースを周回しながら、複数のボールを投げ合っている。


 程なくして小柄なほうの男子が、柔道場の隅にいた一人の女子を連れてやって来た。


「お、部長の番犬じゃん」


 そう言って現れたのは運動部部長。あまり長くない髪を、頭頂部で結んだ彼女は、スポーツ用のタンクトップとショーツに身を包んでいる。


 手にはバンテージが巻かれており、パイナップルの房のような髪型と切れ長の眉、爛々と輝く動物めいた瞳が特徴的だった。


「何すかそれ」

「だっていっつも一緒じゃん」


 愛嬌のある顔とは対照的に、服の上下の間から覗く腹筋は割れ、程よく伸びた手足の筋肉は引き締まっていた。


 少なくとも、生半可な鍛え方をしていないことは、素人目にも良く分かるものだった。ちなみ運動部部長の言う『部長』とは、愛同研の北斎のことを指す。


「別にあの人守ってる訳じゃないんだけどな、傍にいると落ち着くから一緒にいるだけで」


「そういうことにしとこうか」


 煽りとなって吐き出された、運動部の部長の言葉には、微かな軽蔑の色が滲んでいた。


 これが相手をその気にさせるための挑発ではなく、元からこういう態度であろうことを、女生徒は察した。そしてそれは正しい。


 自信のある者は、自信のあること以外は、ほぼ意識の外に追いやるものである。


 また自信の根拠となるものから、傲慢さを下賜されて、他の者を下に見る悪癖がある。それがどれだけ不確かで、根拠の薄い、不安定なものでも。


「で、今回は型稽古の合わせじゃないんすか」


 女生徒はこれまでに受けていた、部内の依頼を通して、運動部部長と面識があった。それらのときは格闘技の型を覚えて、擬似的に打ち合うというものだった。


「単なる組み手だよ。とは言っても要は喧嘩だけど、まあ先に着替えてきな」


 促されて女生徒は廊下に出ると、更衣室の手前の女子トイレに入って、柔道着に着替えた。部員でないことを気にした律儀さ故である。


 柔道着は体操着の上から着込むと、着膨れてしまうので、着心地は良くない。戻ると相手は柔軟運動を始めているところだった。


「悪いね。ちょっとムラムラしちゃってさ、どうしても体、動かしたくって」


 極めて雑で単純な頼みであった。顧問は何をしているのか。非常勤なので今日はいない。そもそも愛研同は、顧問不在のまま活動はしていたので、いても邪魔なだけの場合も多い。


 概ね責任を取らせるためだけのポストである。


「彼氏とかいらっしゃらないんで」


「色んな人と試したけど、私の場合こっちのほうが気持ちいいんだよね」


 そう言って運動部部長は、己の拳を突き合わせた。年頃の健全な青少年が、興味本位で地元の盆踊りに参加して、ざこ寝をしても別段不思議はないのである。


 この世界の日本は戦勝国なので、何をしてもいいのである。自国のあんな文化やこんな風習が、残っていてもおかしくないのである。


「一応確認しますけど、殴り返していんですよね」

「当然でしょ。いじめ嫌いなの」


 入念な柔軟運動で強調される、豊かな二対の丘。その後審判役の部員から、渡された防具を装着し、二人は試合用の枠内へ移動。


 女生徒は彼に眼鏡を預けて、運動部部長と向かい合う。


「それでは二人とも、礼をお願いします」

『よろしくお願いします』


「それでは、始め!」


 開始の合図とともに、運動部部長が躍り出る。構えもなく、只管前へと、ムキになって前へと繰り出される乱暴に、女生徒もまた雑に殴りかかる。


 よくて幻滅、悪くて心的外傷を負いそうな形相で、襲い掛かる運動部部長。憂さを晴らすべく身体能力を、如何なく発揮する。


 掴みかかったり打ったり蹴ったり引っ掻いたり牙を向いたり、まるで怒り狂う猿か野犬の如し。


 対照的に女生徒のほうは、力を溜めては大振りの一撃で黙らせにかかる。身長差を活かして、上から振り下ろし、或いは振り抜き、ときに払う。


 およそ戯れとは程遠い、女性の諍いに、それまでジャグリングの練習をしていた二人も、立ち止まってその光景を眺めていた。


 いわば怒りの表現の差である。事に及ぶ際の激情の形である。片やけたたましく鳴り響く不協和音であり、片や無音で進行する濁流である。


「アアアアアアァァァァ!!」


 運動部部長が叫びながら蹴手繰れば、黙れとばかりに女生徒が投げて踏む。服の脱がし合いなどは起きてくれず、両者は顔を真っ赤にしながら、乱闘に明け暮れる。


「こいつっ!」


 運動部部長は、女生徒の弱点を分かっていた。それは足が長くないことと、防御が疎かなことだった。一方で警戒すべき点、長所にも気が付く。


 それは身長と耐久力。その他は鍛えた分だけ、技術面も含めて、自分のほうが勝っていると、確認ができた。


 しかし、質でも手数でも勝っているのに、彼女は崩れない。痛みに慣れがあるのか、反撃の間隔が全く落ちない。


 また女生徒は暴力を振るうことに、全く躊躇が無かった。人を殴るという行為そのものに、気に留めるところが、何もないのである。


 運動部部長でさえ、頭の片隅では最低限の理性を残し、少しは攻撃を選んでいるというのに。


 向こうはどこか事務的に危害を加えてくる。その恐ろしさに、運動部部長は精神的な優位を、得られないでいた。


 人の頭にバス停を振り下ろせる人種だと直感した。あくまでも相手によって、行為の可否があるに過ぎず、彼女自身は採用出来る暴力的手段に、枷を嵌めていない。


 またいやに喧嘩慣れしており、どうすれば相手を殴れるか、という動き方をよく気付いた。また距離を取ろうとすると、異常な速さで追い詰めて来る。


 拳も意外に重くて硬い。思い切り振り抜かれると、男子でも危ういと思わせるものがあった。


 当然だが受けた痛手で、発揮できる能力は落ちてくる。この点で先ほどの耐久力の差が、じわじわと活きてくるのであった。


 このまま自分が女生徒を打倒すか、それとも彼女が押し切るか。


「はな、せっえ!」


 運動部部長の首を握り締めつつ、その手ごと喉を殴りつけ、息の根を止めにかかる女生徒。


「がぐっぐぅ」


 だが逆に顎を、パンチングボールの要領で連打されたことで、堪らず拘束を解いてしまう。


 続けざまに拳が、頬に叩き込まれるも、戻る腕を逃がさず掴む。両者共に相手の腕を折るため、何度も打つ。攻めしかないやり取りが続いた。


 掴まれた腕に走る痛みの種類が変わった辺りで、運動部部長が前蹴りを、女生徒の腹に突き刺した。およそ人に向かってやってはいけない行為だが、とにかく必死だった。


 腕が痺れ出した辺りで、女生徒の鼻から胃液が逆流して、再び拘束が解かれる。汚い絵面だったが、少女は恍惚にも似た達成感を感じていた。


 同時にこれ以上の消耗戦は楽しくないとも。


 大仰に両手を挙げて、相手に聞くよう促す。何かアクシデントかと、怪訝な表情を浮かべる女生徒。自分と相手に下がって、大振りの一撃を打つようなジェスチャー。


 果たしてその意図は彼女に伝わり、この組み手を終わらせる一撃へと、繋がったのであった。


 そして。


「いやー。ひっさびさ気持ち良かった」

「そっすか」

「やっぱ運動ってイイわ」


 保健室のベッドの上で、二人は仲良く安静にすることとなった。部員の二人が運び込み、もう一人が後片付け。


「また機会があればお願いしたいな、なんて」

「都合が合えば」


「やった。ねえ、そういえばさ、なんで依頼受けてくれたの」


 体中湿布だらけにした、運動部部長が尋ねる。女生徒が柔道上に来た理由を、まだ聞いていなかったからだ。それまではどうでも良かったが、組み手を通して彼女に興味が湧いていた。


「俺、実はいじめられてんすわ」


 事も無げに彼女はそう言った。柔道着の一部は破れてしまい、引っ掻かれたことで、血が滲む以上の怪我をした部分には、消毒後に軟膏とガーゼの処置がなされた。


「そうは見えないけどなー」


「最近減ったけど、生理の日には必ず襲ってくるんで腹立ってたんすよね」


「陰湿だなー」


「なんで、一応もう少し人殴る練習しといたほうが、いいかなって思って」


「そうだね!」


 保健室のベッドには、カーテンが付いている。その薄幕の向こうで、保健医は時折笑い声が零れる彼女たちの話を聞いては、嫌な汗をかいた。そして聞かなかったことにした。


「俺も助かりました。ありがとうございます」

「少しは役に立ったかな」


「はい。何ていうか、いっぺん人を殴ったら、定期的に殴らないと、いけないのかも知れません」


「何それ」

「平和が一番なんですけどね」


 運動部部長は、この獣じみた後輩を、好ましく思うようになった。周りと毛色が違いすぎる癖に、平和でなければ縛れない。


 知らず一番難しいことを人に求めるのだ。

 それが面白い、と。


「ねえ、よかったうちに入らない。他に殴り合ってくれる子なんて、いなくてさ」


「そりゃそうでしょう。でも悪いですけど」

「そっかー」


 女生徒はそれきり黙って天井を見つめた。電灯以外は特に何もない天井。目を閉じれば、体中の痛みと疲労がやってきたが、それも心地よかった。


 スッキリしていた。


 彼女は帰ったら同居人に、体術の相談をしてみようかと思ったが首を振った。自分が限界まで鍛えたところで、無意味なほどに『彼』は強い。面白くはならないだろう。


 でもたまにはこういうのものいいかと思うと、彼女は下校までの短い時間、隣人と共に寝息を立て始めた。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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