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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
平和な日々編
82/518

・ある教師から見た生徒

今回長いです。

・ある教師から見た生徒


 その男はとある高校の教師であった。他にどんな言い方もあったが、これが一番的確な表現だった。


 言い換えれば、他に相応しい言い様も無かった、とも言える。


 彼は憂鬱だった。


 歴史書だけ見ればそれなりに華々しく、現実にはいつの間にか落ちぶれており、敵がいないことだけが唯一の救いというこの国の、未来を担うとされる職務に携わる者共。その内の一人であった。


 特に望みもなく、ただ暮らしていければいいと、選んだこの仕事だった。


 彼は普通の人だった。それなりに賢く、それなりに邪悪で、それなりに愚鈍だった。


 世間的には聖職であり、指導者であることを要求される立場であったが、悩みは良くある普通の人々同士の、責任の擦り付け合いであった。


 そして高潔な資質も、教員免許以外の資格も持ち合わせておらず、情熱も野心もない彼は、普通に惚け、普通に見て見ぬふりをし、自己保身のためだけには、不言実行を積極的に行う。


 そんな普通の人だった。


 彼は十年教師をやっている。いじめを初めとした、若人の非行の数々など、彼が担任としてクラスを受け持つようになる前から、それこそ自分が彼らと同じ年頃から、見知っていたことだ。


 だから対処法も知っている。弱いほうを黙殺し、追放する。これだけでいい。


 弱い奴が悪い。


 理屈は後で聞かれたときにでも、どこかから持ち出せば言い。頑張って相手のほうから、自主的に辞めさせさえすれば、自分の勝ちなのだ。


 周りの自分と大差無い餓鬼を見下し、日々の生活に倦みつつも、己の正しさを確認する。


 そんな日常を掻き乱す存在が彼女であった。


「おい」


 それは女生徒だった。今年の彼のクラスに在籍している『問題児』だった。嫌な奴に出くわした、と彼は思った。


 髪が長く背も高い。豊満な体をしているものの、今一つそそられない。


 胴体の上と下の長さの配分が半々に近く、顔もそばかすが少しある。腕は少し長めで目つきが悪い。眼鏡をかけても視線が和らぐどころか、却って敵への嫌悪感が際立つ始末だった。


 女生徒にとって彼は、味方とは到底呼べないものであり、それが分かっているので、彼も彼女が嫌いだった。


「うん?」

「おはようございますだろ」


 彼は教師として生徒が自分に挨拶し、特に理由がなくとも、頭を下げるのが常識と思っている”ふし”があった。


 自分の学生時代には、そんなふうに考えたことは一度もなかったし、挨拶をしないことのほうが多かったが。


「ああはいおはようございます」


 それだけ言って女生徒は去っていこうとした。しかし彼は呼び止めた。理由は無い。強いて言うなら全く意に介さない態度が、生意気で気に入らないといった様子であった。およそ根拠の無い苛立ちであった。


 もう慣れたとばかりに彼を見る女生徒は、非常に面倒臭そうに、それ以外の一切の感情がないとばかりに冷たく、どこか生臭さのある目を向けてきた。


 女生徒の反応はだいたいこれだ。ぱっとしない人相が一瞬で悪くなる。反抗的に見えた。だから気に入らない。


「なんだ」


 しかし何も言うことがない。言える立場に無い。彼女の家庭は複雑だ。否、人よりも簡単である。『崩壊している』。この一言に尽きた。


 だから親を呼び出すことも出来ないし、携帯電話を持っていないから、難癖をつけて没収することもできない。成績も平均を下回ったことはないし、出席日数も足りている。部活動での評価も悪くない。


 あくまでも彼女に対し、悪評を抱いているのは彼と、彼のクラスの生徒のみである。彼はこの女生徒が、兎に角気に食わなかった。


「なんですかだろう」


 理由は無いので、話しかけて引き出した反応に、食って掛かることにする。彼は自分の機転に内心で鼻を高くしたが、彼女が敬語で応対したら、この時点でもう話が終わっていたことには、気が付かない。


「ああはいなんですか」


 そしてそのささやかな自尊心は、真っ直ぐな返しによってすぐに腐った。ここで反抗的な答えがあれば、それを捕まえてものを言えたのに、もう話すことがない。それくらい彼にとって、女生徒は考えたくない存在だった。


 彼のクラスにはいじめがあった。五月の頭頃だろうか。犯罪をやり慣れた人間が、また始めたという程度のものだ。


 犯罪が癖になっている人間が再犯に走る。そのようなものでも、相手は人生で一番体力が有る時期。関わり合いにならないのが、処世術というものだ。


 どうということはない。やられたほうの生徒を追い出せばいい。そう思っていた。但しそれは相手が、この女生徒でなければという、前提が必要であった。


 最初は机の落書きだった。彼女の机だけが真っ黒になっていた。一面。文字などなく。教師は汚れを落として置くようにと言った。他のことは聞かないし、言わせなかった。


 女生徒は手伝って下さいと言った。自分がやったものではないからと。このときはまだ敬語だった。立場上断れなかったが、これが失敗だった。


 真っ黒な机を洗うと、水性の部分が先に落ち、油性の部分が残る。目に飛び込んでくる幼稚な罵声の数々。


 教師はこれを無視して机を拭き続けた。途中で疲れたから、後は女生徒に任せて止めた。彼女の机はそのままだった。


 次は靴の類だった。上履きを履いていなかったので注意をした。靴が下駄箱から無くなっていることを告げられた。


 誰かが間違えて履いて行ったのだろう、ということにして、そのままにした。どうして返さないのか、ということについては、自分は当人でないので知らなくていいと思った。


 以来女生徒は荷物を部室以外では、肌身離さず持ち歩くようになった。体育のときでさえ。


 次は机の上にゴミが置かれるようになった。女生徒は再び片付けを手伝うよう言ったが、彼はこれを『お前の机だろう』と拒否した。これが失敗だった。


 落書きをされゴミを置かれた机が、生徒の机であると認めたことで、一層追い詰められると期待したが、あまり効果はなかった。


 女生徒は机を掃除せず授業を受けた。他の教師の目に留まったが、とくに誰も何も言わなかった。一応他の教師から、生徒の机が汚れているという報告があったが、聞き流した。


 机のごみはそのままだった。

 彼女から敬語が消えた。


 態度が悪くなってきたと思った教師は、そろそろかと思った。六月に事件が起きた。やることがなくなった加害者側が、直接的な行動を起こした。


 相手は貧しく社会的な味方が誰もいない。しかしながら机やロッカー、下駄箱を汚し、壊しても、そこから先はできることが無かったのだ。


 荷物は盗めない。SNSで嬲ろうにも、相手は計帯電話を持っていない。そもそもあれは一度身内に迎えてから、追い出すという手間が必要だ。最初から除け者にしている時点で出来ない。


 淡々と対処をして日々を過ごした女生徒の、反応の薄さは面白くなかった。耐えている、我慢している、強がっている、そのどれでもない。


 ただただ過ぎていく日々と、得られないカタルシスに、禁断症状を起こした彼ら。正確には彼女らは行動を起こした。


 何気に女子にしては上背のある相手に、向かっていく度胸はなかったのだ。しかし机と椅子が無くなってから、立ったまま授業を受ける彼女の姿勢に、段々と教室の空気は硬化していった。


 いつからか猫が教室に入り込むようになり、楽しげな様子さえ、見せるようになった。


 所在や帰属の無さに平然としている、異常な耐久力を見せる彼女に、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。教師は只管この状況を放置、黙認していたが、それも失敗だった。


 彼女を含めた数人が怪我をした。喧嘩だった。あくまでも、処理の上では。


 内容は至って簡潔で、便所で用を足していたところ、個室の上から水をかけられた上に、中を携帯電話に備え付けられたカメラで撮影され、出たところ金品を要求されたので、抵抗したとのことだった。


 いじめを行った生徒たちは、案の定口裏を合わせたが、肝心の携帯電話は抵抗を示した相手に奪われていた。


 彼女らが職員室に駆け込んで来たときには、既に女生徒は近場の交番に、被害と証拠を届け出た後だった。モップで殴られたり、文房具を刺された跡もあり、傷跡も撮影された。


 学校に確認の電話が入り、彼は窮地に陥った。彼には幾つかの選択肢があった。あくまでも女生徒を追いやり罰すること、互いの親を呼んで話し合うこと、そしてどちらも選ばず、有耶無耶にすること。


 一つ目の手段を取りたかったが、第三者に証拠物が渡り、職場にこの件が知られている以上、それを強行することは彼の度胸では出来なかった。


 二つ目は彼女らが最も恐れる行為であり、過去に渡ってのいじめが、女生徒の口から語られ保護者や、上の教員に知られることは、彼の身を危うくすることであった。


 故に三つ目を選んだ。やはり失敗だった。


 行き過ぎはあったとしても、喧嘩両成敗ということにして、口頭で厳重注意ということで、話を済ませた。誰からも不満は出なかった。


『誰も助けてくれない』という文章の主体が入れ替わった瞬間であり、彼の価値観の中に、彼自身が引きずり込まれた瞬間であった。


 この日から全てが変わった。与えられた猶予を全て、ドブに捨てたことで彼の日常は、変わった。


 特定の法則に従って教室から机が消える。女生徒の生傷が目立つ日から翌日以降、必ず誰かが休む。休んだ生徒の下駄箱とロッカーが、いつの間にか石斧でも振るったかのように破壊されている。中にゴミをみっしりと詰められて。


 転んで怪我をする生徒が増え、転ぶ前の生徒の机には、必ず猫が据わっている等々、教師の元に様々な『相談』が持ち込まれることも増えた。


 が、彼は今までと同じようにそれを無視した。


 今や教室内の強弱は、完全に逆転していたからだ。貝の如く黙るより、他にできることは何もなかった。女生徒は日に日に逞しくなっていたのだ。


 教室内の人数は、三分の一ほどに減った。未だに減り続けている。今のところ退学者、進学ができなくなった者はいないが、遅刻と早退と保健室利用者が増えた。


 こればかりは隠しきれず、上の教員からも改善するよう勧告を受けた。要するに問題を解決しろということだが、不可能だった。


 それは問題と向き合うということであり、自分の責任と向き合わなければ、いけないからだ。誰も何も向き合わないまま夏休みが明けた。教室は沈黙に包まれたまま。


『弱い奴が強くなるのはずるい』と、彼の心は最近そればかりだった。


 女生徒を見ていると、そんなこれまでのことが、滾々と思い出されてくるのだが。


「早くしろ」


 あ、という間の抜けた声が口から漏れた。言うことが思い浮かばないうちに、それなりに時間が経っていたようだ。生徒に無礼な口の利き方をされて、彼は内心で怒った。


 自分が教師であり彼女より立場が上で、偉いのだということを分からせたかったが、無表情のまま顔の横まで持ち上げた拳を、血管が浮き出るほど強く握りしめられているのを見て、彼は咄嗟にこう答えていた。


「いや、もう行っていいぞ」


 上擦った音が出ると、握られた拳が開かれ二、三度前後に振られた。女生徒が『向こうへ行け』という動作をしたのだ。彼は踵を返すと、職員室への道を歩き始めた。さっき来た道である。


 彼は一度だけ振り返った。そこには猫と楽しげに歩く女生徒の姿があった。屈辱感から気持ちの治まりが付かなかったので、後になって彼女のことを調べた。


 地元の悪い意味で有名な中学の、卒業生だったことが判明した。それだけで得心が行った。というより満足した。


 魔女のようなものだったのだ。関わり合いにならないのが一番だ。危ない所だった、と。そこからは何も考えず、ただ遠くへ逃れるためだけに、教師は生徒から足早に離れていった。


 女生徒の担任とクラスメートからの評価は、良くない。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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