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・八時間近の駆け足

・八時間近の駆け足


 おかしい。明らかにおかしい。俺の足が遅いとか、思ったよりも校門まで遠いなとか、色々あるけど何が一番おかしいかというと、追いかけてきてる波が、振り返る度に高さと勢いを、どんどん増していることだ。


 車庫から地下の水が溢れているにしても、放射状に広がっていくはずだ。そのはずなんだけど、あたかも何か仕切りでもあって、方向を限定されてるんじゃないかってくらい、真っ直ぐにこっちへ来てる。


 校庭の水溜りも吸い込んで、今や怒涛の勢いである。隣にある旧校舎は、下駄箱以外に出入り口がないので、波がぶつかって防波堤のようになっている。


 まるでこの時のために用意されたかのような頼もしさ。


「もっと急いで! 頭を庇って!」

「え、頭!?」


 ミトラスの警告の意味が理解できたのは、後ろから窓硝子の割れる音が、段々と近付いてきたからだった。


 振り向けば窓に、無数の手形が張り付いている。執拗に窓を叩いて、割っているのだ。


「ずぶ濡れの学校に手が這い回っています。割った窓から雨が中に入れば、そこからあの波のほうの霊たちも侵入することでしょう」


「なんかもう幽霊っていうよりそういうモンスターだな!」

「これが人間の怖いところです」


 眉間に皺を寄せて頷く魔王の息子。今そんなことは聞きたくない。


 腕を頭上に持ち上げて、降り注ぐ硝子を防ぐけど、すごい走り難い。


 降ってくる破片が細かいから、まだ助かってるけど、これ相手に『破片を大き目の塊にして落とそう』という知恵があったら、かなり危なかったんじゃないかな。脳天に突き刺さってもおかしくない。


 粉々にしてる力も脅威だけど、もう校舎の端に差し掛かってるから、そこまで怖くはない。このまま一気に逃げ切るぞ!


「頑張って! もう少しだよ!」


 夏なのに寒い。息が苦しい。足も痛い。正直なところ、今日一日を振り返って、ほとほとうんざりしてる。前を向けば既に校門の外へ脱出して、こちらに手を振っている皆がいる。


 閉じてたはずの校門が何故か開いている。何故ってきっと、部長が合鍵でも作っておいたんだろう。


 そして西と恭介は、小学生特有の足の速さで脱出済みだ。後は俺たちだけ。ああ、なんだろう、怪奇現象から逃げてるはずなのに、併走してくれてるミトラスのおかげで、マラソンのどべにでもなったような気持ちだ。


 気持ちを切り替えよう。今の俺は主人公だ。映画の最後の一シーンで、皆がハリーハリー言ってくれてる状況なんだこれは。


「サチコ! 頑張って!」

『頑張れ! 頑張れ!』

「急げって言えよおおおおーーー!」


 どこからか込み上げる悲しみが、力となって俺の足を前へと衝き動かす。ずぶ濡れの体が重い。足元の水は波のように後ろへと引き、硝子を割り終えた手に追いつかれて、文字通り足を引っ張られるが、そのときにはもう俺は、校門の外へと逃げ切っていた。


「よし、閉めるよ!」

「はい!」


 先輩の号令の下、背後で校門が閉まる鈍い音が聞こえた。息が完全に上がっていたが、これで一安心だ。ゆっくりと身を起こして振り向けば……。


『うわあ!』


 門や柵の格子の隙間から飛び出して来た水を、思い切り引っかぶることになってしまった。


 全身が泥水塗れである。そうだね、別に面を形成してる訳じゃないからね。


「くっそ、最後の最後で」

「どうやら第二波はないみたいだね」

「これで終わりってことかしら、ちょっと物足りないわね」


 南と先輩はそりゃ余裕があるだろうよ。だけどこれ以上はいい加減うんざりだぞ。


 そう思った矢先、今度は変な音がし始めた。何か、遠くでごりごりと物が削れるような、或いは植物を丸ごと引き抜いて、根が土を引っ掻くような、そんなぼそぼそとした音、それらが混ざった感じの音。


「っ地震です!」

「今度は魔人でも蘇るのかしら」


 恭介の言葉に西が呆然と呟く。


 ここは東京じゃないし、地下だって九十九階もないし、妖怪だって住んでなかっただろ。でも先輩が三年になったらそんな事態にも、巻き込まれそうな気がしてならない。


「見て、校舎が!」

「沈んでいく……」


 そう、校舎は沈んでいった。地盤沈下が起きたのか、左側からゆっくりと、途中で校舎の中央に亀裂が入って裂けて、右側、真ん中と沈む。


 地表に僅かな部分を残して、旧校舎は俺たちが見ている前で崩壊し、その姿を消した。


「俺たちが行った場所以外にも、地下があったってことなのかな」

「たぶんそうなんだろうね」


 しばらくの間、俺たちはその光景をじっと見ていた。今や大きく広がった穴。その穴の淵に、白いものがこびり付いているのが見える。


 手だ。


 それに黒い影のようなものが染みていき、力尽きるように、穴の中へ吸い込まれていった。


「ああやって地獄に落ちていくのね」

「なんだか遣る瀬無いね」


 不思議なことに西と恭介にも、あの霊たちは見えているみたいだった。俺はミトラスに預けた頭骨のことがふと気になった。


 見れば彼は、しっかりとそれを手放さずに持っている。よしよし、無くなってないな。


「帰るか。いや、その前に警察に連絡だな」

「みなみんは先に帰らせたほうがいいと思う」

「そうね、悪いけどそうさせて貰うわ」


 ああ、そういや未来人設定だったなお前。南はバイクのハンドル下に、取り付けられている小物入れから、携帯電話を取りだした。


 実際は携帯電話の機能も付いた、未来的なアイテムであり、どこかにワープしたり、時間を移動できたりする。失くすと一大事。


「それまだ使えんのか」

「ええ、言わば私の戦利品ね。それじゃお先に」


 そう言うと彼女の周囲が、淡く輝き始め、次の瞬間にはバイクごと、何処かへと消えてしまっていた。


 南の性格を考えると、先ずうちの学校にバイクを置きに行くだろうな。


「羨ましいなあいつ」

「やっぱり移動が省けるって凄いね」


 ともあれこれで残すところはあと一つ。警察なり消防なり救急車なりに迎えに来て貰えば、一件落着だろう。


「あ、はい、分かりました。すいません……」


 そう思った横で恭介の元気のない声が聞こえた。雨合羽の下で、もぞもぞと手が動いている。


「なんだって」


「この台風の中出動できないから、どこか雨風を凌げる場所で、待つか避難してくれって」


「いかにも日本の警察」


 繁華街に殺人鬼でも現れない限り、あいつら基本的に雨天中止だからな。


「消防は」


「出動はするけど、この台風の中じゃ到着が遅れるから、どこか雨風を凌げる場所にいてって」


 西ががっかりした様子で告げる。こっちが言うまでもなく対応したのは偉い。西から西ちゃんに評価を戻そう。


「道路がらがらのこの状況で、なんで到着が遅れるんですかね」


「後で出動するからでしょ」

「こうなったら怪我をでっち上げて救急車呼ぶか」

「お金取られるからそれならタクシー呼ぶよ」


 それだとびしょ濡れの俺とミトラスは、間違いなく乗車拒否されるんだよなあ。


「でもその前に」

「ん、まだ何処かに連絡するとこあるんですか」


 先輩は自分の携帯電話(ちゃっかり防水ケースに入っている)を操作して、どこかに電話をかけ始めた。


「折角警察が来ないってお墨付きを頂いたんだから、もっと仕事熱心なところに電話しなくっちゃ」


「仕事熱心って、こんなときにこんな場所へ駆けつけてくれる人なんかいるんですか」


 雷と共に世界が白く瞬く。空には未だ黒雲が厚く垂れ込めている。今しがたそれを振り切ってきたばかりなのに、目の前にもう不吉な輩がいる。


 防具に包まれた頭がゆっくりとこちらを向くと、先輩の声は、確かにそう言ったように聞こえた。


 ――新聞社。


 今度は近くに落ちた雷が、一瞬だけヘルメットの奥の先輩の顔を浮かび上がらせた。


 その顔は奇怪に歪み、あたかも笑っているかのように見えた。

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