・独白(後編)
・独白(後編)
外から大分離れたはずなのに雨の音が聞こえる。この場にまで降っているかのように思えるほど、その音は近付いている。足元から立ち上る湿った土の匂いに紛れて、おぞましい臭気が鼻を突く。
「あの帳簿にあった数字の山、毎日人を連れて来てここにせっせと落としたみたいだけど、なんでだ」
「気付かれたからの」
影の輪郭がぞわり、と蠢く。映像が乱れるというが今正に影の背中が陽炎のように揺らめき波打っている。燃え上がる炎に似て忙しなくその部分の像が乱れていく。
「聡いが馬鹿な餓鬼共よ。一応はよく勉強していたよ。だがそんな中村の、いや、そのときはもう街だったか、とにかくそんなものに貢献したいとか言っていた一人が気付いた。この土地の歴史、自分の故郷、親たちが何をして来たのかを」
「そいつはすぐに仲間を集めた。このことを問い質そうという者、自分たちだけで調べようという者、止せばいいのにここに暴き出して、こともあろうに警察を呼んで明るみに出そうとした」
「だからここに投げたのか」
「そうじゃ。毎日毎日少しずつ呼び出した。だが今度は親共が騒ぎ出した。勝手知ったる地元の者じゃ。心当たりはあったからすぐにここに来た。図々しく、おこがましい」
懐中電灯の明かりに照らされた穴の中を流れる水は、膨れ上がるように水面を高くしていた。そのうち溢れかえるかも知れない。
「儂は今更どうでもよかったが、役所から儂の監視で何処からか来ていた職員数名が手を出した。人間は恐ろしいものだな。一度悪事に手を染めれば、その悪事を使った欲が出てくる。投げ込まれた小僧共とその家系のみならず、街の人間を夜な夜な集めては」
「狂ったのか」
「最初から。村を守るという訳でもなく、ただただその時々の事情に衝き動かされ、死が死を呼び続けた。ただ不思議なのはこの穴に人間を棄てた者は、後で必ず自分もここに投げ込まれるということじゃな」
要らないものを投げ込まれ続けたこの穴が、それを望んだのだろうか。それとも投げ込まれたものが同族を欲したのか。水の底は見えない。
「止めなかったのか」
「ああ」
「途中で数が増えたのは、生徒の家族だけじゃなかったってことか」
「そうよ。生徒の身内まで片付いたら、また浮浪者、外国人、やくざ者、そして」
そこで影は一度口を閉ざした。
「そして後には、何も残らなかった・・・・・・」
消え入るようなか細い呟きは精根尽きたことの現れか。老人の顔が崩れ、影に覆われてはまた戻る。この顔を、いったい誰が覚えているのか。何がこの人を繋ぎとめているのか。
「一つ言えるのは、ここに棄てられた者たちは皆平等に要らない人間だったということ」
「なんだと」
「老いも若きも男も女も、出稼ぎ、外国人、犯罪者、一般人。どんな素性も、どんな未来も、誰に何があっても、その場の事情に照らして不都合なら皆殺されておしまいじゃった」
その時々の多様な価値観というものがあったはずなのに、帰結は一つだけだった。そういうことだろうか。だが、それでおしまいということもない。現に小田原には人がいて、街がある。なら、こんなところでそんなことに明け暮れていた彼らはいったい何だったのだろう。
その答えは、きっと俺よりも彼らのほうが求めて止まないはずだった。
「だから、何も残らなかった・・・・・・」
「どうして俺たちを呼んだ」
「ここを暴いて欲しかった。それだけよ」
罪滅ぼしか。そう尋ねたが爺さんは答えなかった。泣きそうな目に瞼を下ろして隠すと、もう何も言わなかった。
不意に肘を誰かが引っ張るのを感じたので振り返ると、西ちゃんと恭介が必死の形相で俺に何かを呼びかけていた。
「お姉さん! しっかり! しっかりして!」
「こっち見て! あ、気付いた!」
腕の袖が捲られて所々赤くなっている。何時の間にこんな。
「どうやら戻ってこれたみたいですね」
ミトラスの声がする。なんだろう。とても懐かしい、どうも心配してくれてたみたいだ。なんだ。どうして皆そんな顔をしてるんだ。
「何かあったのか」
「何って、急に独り言喋り始めるからこっちが何事かと思いましたよ!」
「独り言って、いったい何のことだ」
「そこの、それを見てからですよ! 覚えてないんですか!?」
西ちゃんが色を失って怒鳴る。そこの、それ。それってなんだ?
「だって、俺は今、さっきの爺さんと話してたんだぞ。お前らも見ただろ」
「何を見たのか知らないけど僕たちが見てるのはお爺さんじゃなくて」
恭介が言葉を切った。さっきから小学生たちが濁して止まない『それ』。釣られてその視線を追う。どうということはなく、爺さんに向き直るだけのことだ。そのはずなのに。
そこには黄ばみ薄汚れた何かの、恐らくは人骨であろうものが大量に散乱していた。折り重なる骨は恐らく一人だけのものではないだろう。よく見ると骨の傍にボロボロの布切れがある。
「あれは」
「あ、ちょっと! 危ないですよ!」
西ちゃんの止める声も背に、穴を迂回して骨まで近づく。足元が濡れる。大分水かさがましているようだった。台風の大雨が増水させているのだろうか。
足が濡れる不快さに反吐が出そうだったがそれを堪えて襤褸切れを拾う。背広だった。ポケットを探るとくすんだ皮表紙の内に黄ばんだ紙束を擁するもの、手帳が入っていた。やや厚手で背も少し高い。
ふと水面を滑る骨と目が合った。穴の縁に屈みこむようにあった骨の中の一つで、それは人間の頭蓋骨だった。ぷかぷかと浮かんでいたものが穴の中へと漂い、沈みそうになる。慌ててそれを掴むと、俺はそれを何故だか小脇に抱えてしまった。
「え!? ちょ、ちょっと何やってるんですか!? 不味いですよ捨てて捨てて!」
西ちゃんがパニックに陥る。そりゃさっきまで譫言宣ってた奴が今度はこんなことすればいよいよ気が触れたと思われても仕方がない。
でも、俺にはこれが必要な気がしてならなかった。
「ごめん、でももう大丈夫だ。帰ろう!」
「後で精神科受診してお祓いも受けたほうがいいです絶対そうです」
皆の元まで戻ると水は既に脛の辺りまで登って来ており、ドアの間から通路へと流れ出ている。長居したくない気持ちも手伝って帰りは早足になる。
「棒で開けっ放しにしておいて正解だったな」
「閉めてたら水圧でドアが開かなくなってたかもしれません」
小学生二人が先に出て、次に俺とミトラスが続く。
「ありがとう。助かったよ」
「本当、冷や冷やしました」
二人並んで宿直室を出るとドアは閉じていった。
石の棒は流れてズレてしまったのだろうか。いや、ドアと壁に挟まれていたのだから、そう簡単には外れないはずだ。だとすれば。
「なあ」
「なんですか」
「ひょっとして、折れてた?」
「はい、お話し中に」
じゃあミトラスはずっとドアが閉じないようにしておいてくれたってことか。寸での所で命拾いしてたんだなあ。
そう思って振り返った時、俺は見た。
閉じるはずだったドアが逆にゆっくりと開かれていき、穴の奥から水が這い出してこちらへと逆流してくる様を。
「なあ、あれどう思う」
「その人を追って来たんじゃないかな。戻す?」
ミトラスの言葉を受けて、小脇に抱えた頭骨を見る。まるで作り物のように軽く、触ったところで何の忌避感もない。あまりにも小さな者。善悪で言えば間違いなく悪だろう。だがこの爺さんは言い続けていた。
この場所を暴いてくれと。そして生徒を手にかけたことも可哀想なことをしたと。もしも最初から、誰にも言わないでくれと頼まれていたら間違いなく断っていただろう。けど実際は違う。この人は大昔の風化した悪事を、いい加減吐き出したかったのだ。
だったら。
「嫌だね」
だったらそうさせてあげても、ばちは当たらないんじゃないかな。
最後だけ変えました。




