・当事者だけが知っている
・当事者だけが知っている
雪が降って路面は凍結。自転車通学が出来ない日は、人々の流れを緩やかにする。俺たちも当然例外ではない。
「しかしアガタがうちに来るとは珍しいな」
「大事な話でしたからね」
放課後もすっかり過ぎた時間。俺は冬の夜道をアガタと歩いていた。また毎日のように顔を合わせているのに、何だか一か月ぶりに会ったような気がする。
「ごめんなあ、引継ぎ相手用意できなくて」
「そんな身代わりを寄越せなんてこと言いませんよ」
柔らかな笑みを浮かべて、こちらを振り向く。夜よりも綺麗な黒髪が、ふわりと靡いては輝く。
怒ると怖いがこの頃はよく笑う。以前の狂犬染みた凶暴さは、すっかり鳴りを潜めたようだ。
「月日が経つのは早いな」
「本当に……」
「もうじき二年だけど、まだ二年だよ」
「私もそう思います」
今日あったのは他でもない、俺の退職の話だった。
本来なら店ですることなんだけど、アガタは俺の家でしようと言った。そして放課後やって来て、ついさっきまとまった所だった。
「私、先輩だったら資格を取って、うちの店を継いでくれても良いかなと思ってるんですよ」
「そらお前の願望だろうが」
「ええ、私の願望ですよ」
そう言って、アガタは手を握って来る。手袋をしておらす、とても冷たかった。いつもはもっと温かいんだけど。
「お店は継ぎたくない。でも潰したくない。誰かにやって貰いたい。でも知らない人は嫌。全部、私の望みです」
「欲張るねえ」
「当然です。大事ですから」
「でも自分のほうが大事だろ」
「ええ、今はまだ」
含みのある言い方をして、アガタが微笑む。今度は少し艶のある、怪しい笑い方だった。悪女っぽい表情も身に着けるようになって。
先輩はお前の将来がちょっと心配だよ。
「いけないことでしょうか」
「今はまだそれでいい。今はまだ、お前だけの人生だ」
「ふふ、先輩ならそんな感じのこと言うと思ってました」
俺そんな風来坊とか荒くれみたいに思われてたの。いや事実そういう発言してるけども。
「母には少しだけ悪いと思ってるんです」
「そうなの」
「はい、あの人はきっと、家のこと私に任せて、父ともっと一緒の時間が欲しかったんだと思います」
アガタはファザコンだが、お袋さんも旦那さんが好きらしい。いや何を言ってるんだ俺は。そこは前提だろう。
「私がいて、自分だけの人生とか、自分だけのお父さんじゃなくなったし」
分かるなあ。ミトラスも異世界に帰れば、区長として皆のミトラスに戻ってしまう。
「女の敵は女っていうの、こういうことなんですかね」
「難しいねえ」
何処でそんな言葉を覚えて来たのか。そして君のおうちの、正確には君個人の事情が、些か特殊なだけだと思う。
「いつか私も誰かと一緒になったら、自分だけの人生じゃなくなるんでしょうか」
「所帯を持つなら、そういう意識を持てっていう、心構えの話じゃないの」
実際その通りにする人たちもいるんだし。
俺とミトラスの場合は、どうだろう。
「誰かと一緒に過ごすときは、自分の人生をそこに使ってるだけな気もするんだけど、子どもが出来てその配分が大きくなると、確かにもう、自分の人生とは呼べなくなって行くんだろうな」
そこに嫌気が差したり、或いは飽きたりすると、家族でいることに、いられなくなるんだろう。
上手く言えないけど、俺ん家みたいに。
「俺のほうはもう少しだけ、時間を使いたいけど」
「先輩は卒業したら、家を出るんですよね」
「ああ。お前たちの卒業にも、たぶん出られない」
「そう、ですか」
この春俺はアガタの店のバイトを辞めて、異世界に帰る。
「まさかこんだけ可愛い後輩が出来るとはな。世の中ままならねえもんだよ」
異世界に行く前は人生のどん底で、人間なんか嫌いだったのに、今じゃこんなに愛着が湧いてるんだから、皮肉な話。
「先輩、何処に行くんですか」
「何処だろうな。どの道あの家にはいられん」
俺の家は死んだ婆ちゃんの遺言で、遺族には売るなと言ってある。だがそれもそろそろ限界だ。遺言の売るなという言葉にも期限がある。期限が過ぎたら、金に困ってる奴が容赦なく売るだろう。
シンデレラの魔法にしちゃ長く保ったほうだ。代わりに随分みすぼらしかったが。
「予定が無いなら、せめてもう一年、いてくれませんか」
「ごめんな。こればっかりは」
温めようと思っても、アガタの手はずっと冷たいままで、それだけにこいつの気持ちに、申し訳なくなってくる。
横断歩道を渡って少し歩けば、アガタの家は直ぐそこだ。街灯の光を頼りに歩くと、良い匂いのするブラジルと中華料理の店が見えて来る。
「じゃあ、俺はここで。また明日な」
手を離して帰ろうとした。だけどアガタは俺の手を離さなかった。見るとそっぽを向いたまま、話し始める。
「先輩、今度のバレンタイン、私にチョコ作ってください」
「バレンタインって、そんなのあったのか」
「ありますよ。先輩が気にしてないだけで」
お菓子会社の陰謀は、この世界でも健在らしい。
「いいけど。また急だな」
「それを凍らせて、私の卒業式に食べます。それで先輩が来られないの、勘弁してあげます」
後ろ髪の向こうで、吐かれた息が白く棚引いている。
今どんな顔をしてるんだろう。
結構我儘を言う奴だったけど、きっとこれまでの、どれとも違う気がする。
「分かった。じゃあ愛同研でバレンタインやるか」
「いえ、先輩だけでいいんです」
「俺が恥ずかしいんだよ。お前もやれ」
「っとに肝心なときに決まらないんだから」
ここで恰好を付けたら、まるでプロポーズに応えたみたいになるだろ。
「アガタの気持ちって基本的に重いんだよな。俺は構わないけど、他の奴には控え目にしといたほうが良いぞ」
「え、何ですか急に。告白みたいな」
「そうは聞こえんだろ。寒いんだから早く帰ろうぜ」
いつまでも店の前で立ちっ放しというもの辛いし。
「子どもをあやすような態度は止めてください」
「悪かったよ。アガタ」
そう言って今度こそ手を解くと、アガタは代わりにドアの取っ手を握った。家へと帰る瞬間「先輩」という声と共に、振り返る。
「約束ですよ」
「ああ、約束するよ」
綺麗な黒髪が、家の光に照らされながら、中へと吸い込まれていく。次に話し声がして、何故かドアが開く。
「何ぼーっとしてるんですか、入ってください」
「え、いや、だって俺これから帰るし」
「送って貰ってそのまま返すなんて薄情しません」
アガタが拗ねたような目でこちらを睨んでくる。店内に目をやると、彼女の親御さんたちが手招きしたり、頷いたりしている。
「飯はうちで食いたいんだけど」
「だったらお土産持って帰って。サチコさん」
アガタのお袋さんからも言われてしまう。日本語上手になりましたね。
「いつも娘のことありがとうね」
「いやあ、はは、ご馳走になります」
親父さんもニコニコしている。ここもいつの間にか、上手いこと仲が良くなったというか、何というか。
そんな訳で、俺は夕飯のおかずと米を頂戴し、情けなくもほくほく顔で帰った訳なのだが。
ミトラスの機嫌は悪かった。
「どうしたんだミトラス。怒ってるのか」
「怒ってないよ」
今日の当番で夕飯を作ってくれたのに、勝手にご飯を貰って来たのを、怒っているのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
「今日の夕飯が豪華になってありがたいけど、そういうことじゃないんだ」
「じゃあ別の理由があるのか。また面倒ことか」
この際もう卒業まで戦うことになっても、俺は驚かない。
「面倒事には違いないね。ただ、その内容がね」
「言えよ。飯が冷めちゃう」
「ああうん。先月北さんに、僕が一日貸し出されたことがあったでしょ」
人聞きが死ぬほど悪い。事実だけど。
「あったな。コミケに俺を連れ出してくれたお礼な」
「うん」
「もしかしてまた貸してくれって」
「うん、また、なんだけど、言い方が」
言い方とは。恩着せがましくせびられたのか。それともまた変な話を持って来られたのか。
「どんな言い方だ」
「それがね、十二月のお礼がまだだから、僕を一日貸してくれって」
「……なんだと」
おかしい。まるで今回が初めてみたいな言い種だ。
待てよ。今回が初めて?
「まさか」
「凄く言い難いんだけどさ、サチウス」
「言うな。聞きたくない」
「僕たち、微妙に戻る歴史を間違えたんじゃない」
ミトラスの言葉を皮切りに、俺たちの背には冷たい嫌な汗が浮かび始める。じっとりと。先輩は間違いなく、俺たちと一緒に戻ったはずだ。
「ここが微妙に似て非なる世界というか、また何か変化があった場合に、その修正を北さんが受けたとしたらだよ、それはそれで無くは無いんだよ」
「……マジで」
俺はそう言うのが精一杯で、この日はミトラスもこれ以上この話題には触れなかった。沈黙の支配する食卓で、唯々箸だけが動いていた。
『ご馳走様でした』
両手を合わせて、今日最後の言葉を呟く。
夕飯は美味かった。今はそれだけが、この場において唯一の救いだった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




