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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
部長引退編
438/518

・番外編 エージェントご指名

・番外編 エージェントご指名


 ※このお話はミトラス視点となります。


 ここは日本のどこかの山奥。山の端が夕日に染まる頃、僕とウルカ先生は修行に明け暮れていた。今日は試験の日だ。よってあのけったい極まる宝剣は持って来ていない。


「ではミトラス殿、教えた通りに」

「はい、ウルカ先生! オンキリキリバンサクソワカ!」


 呪文を唱えるのと同時に、朱墨で梵字が掛かれた呪符を投げる。呪符は空中でぴたりと止まり、文字が赤く光始めると、周囲の空気を押し退けるようにして、静かで力強い空間を作り出す。結界だ。


 区切りは見えないけれど、呪符の近くに来ると、外にいる感覚がなくなる。清潔で整えられた区域だ。病院と聖域を組み合わせたような、安心感と寂しさを覚える。


「“オン”を使わない場合は」

「えっと、ノウマク・サマンダ・ボダナン・バンサク・ソワカ」


 恐る恐る呪符を見ると特に問題もなく、効果を発揮し続けている。良かった、どうやらエラーを吐かなかったみたい。


「ソワカはなくても良いですが、うむ。梵字と呪符の基礎は概ねよろしいですな。印を切ることは忘れましたが」ってることはよく分からないけど、とにかくすごい自信だ。思えば他人の恋路を応援するばっかりで、こっちの世界では僕は他人に応援されたことがない。


「あ、ごめんなさい」


 この世界の魔物の一種、天狗のお爺さんであるウルカ先生は、それでも満足そうに頷いてくれた。かれこれもう一月は、僕はこの人の元に通っている。


 人間に化けてるときも、恰幅の良いお爺さんだったけど、本当の姿は巨漢だ。真っ赤な顔に長太い鼻、でっぷりとした体に、大きく広い黒羽。強い魔物だと一目で分かる。


 いいなあ、カッコいいなあ。


「印を切り、結ぶことは真言を強めるだけでなく、発動の保険も兼ねております。努々疎かになさいませぬよう。後で印切りダンス十回!」


「うわあー! 恥ずかしいから嫌だー!」

「失敗が続いたら録画してサチコ殿に見せますからな!」

「うわあー!」


 でもウルカ先生は教えるとき、鬼や悪魔でも取り憑いているんじゃないかってくらい厳しい。羞恥心を攻撃するなんて、あまりにも酷い。


「恥が何ですか。この国の天下人は、戦場から脱糞しながら逃げたこともあるのですぞ。実践ならば命取りです。恥くらい何ですか」


「恥は恥ですよ!」


 うむむ。毎日梵字ドリルをせっせと書いていたのに。


 その後も試験は続き、幾つかの呪符と真言を使って見せた。ふん、今度は手の動きも忘れなかったから、お咎めを受けずに済んだぞ。


「うむ。テストはここまでにしましょう。ミトラス殿、呪符に書く文字は基本的に七字前後にまとめ、それに応じた印と真言を用いる。これが対魔物用の武器として、古来から伝わる真言の法なのです。要復習ですぞ」


「何回も聞きましたけど、これそんなに強いんですか」


「それはもう。魔の者と対峙するときは必ず札を貼れ、と高野の偽坊主共も言っておりましたからな。かく言う私も、何度遅れを取り、煮え湯を飲まされたことか」


 憎しみの実感がすごい。顔が赤から黒紫色になっている。でもそうか、だから先生は相手の技を盗んだんだな。そう考えると説得力がある。


「あの先生」


「おっと、危ない危ない。えー、ごほん。ミトラス殿には今度応用を教えましょう。梵字の代わりにシジルや他の文字、数字を使う場合、または他の術に梵字を使う等々です。印の改変も教えなくてはいけませんし」


 ウルカ先生が言うには、昔喋れない人に偽装したお坊さんが、手話の振りをして印を切って、いきなり真言を放ってきたことがあるそうな。人間め汚いなあ。


「僕は練丹術と占星医学のほうがやりたいです」

「ほほう、してその訳は」


「実は僕、まだサチウスに『月が綺麗だね』って、言ったことがなくって。ここで習ったことを見せるときに託けて、その、言えたらなって」


「喝!」

「うわあごめんなさい!」


 正直に言ったけど理由が邪だったから怒られてしまった。やはり腐ってもお坊さんなんだ。安心したような、がっかりしたような。


「そういうことはもっと早く言いなさい!」

「え」


「くう~惜しい! もしも夏休みの頃に来てくれていたら、私はミトラス殿にそれを教えて、夏の星座の蘊蓄まで仕込んでおいたのに!」


「あの、えっと、先生」

「何ですかな」

「良いんですか、それで」


「この世に男女関係以上に優先することなんて、子育てしかありませんな!」


 老いてなお冷めやらぬ情熱を秘めた瞳が、僕を真っ直ぐに捉えて離さない。たぶんだけど、すごい大事なことを言われてるんだろう。この人にとっては人生とも言える言葉を。


「しかし寸での所で手遅れを回避しましたぞ。ミトラス殿。そういうことならば、喜んでカリキュラムを変更致しましょう。ご安心めされい。私にかかればシラバスだってデートプランに早変わりですぞ」


 言ってることはよく分からないけど、とにかくすごい自信だ。思えば他人の恋路を応援するばっかりで、こっちの世界では僕は他人に応援されたことがない。


 正体を明かせないから当然だけど、こう、恥ずかしながらも、うれしいな。


「しかし既にサチウス殿とくっついているのに、ミトラス殿もようやりますな」


「後でやっておけば良かったって、思うかも知れないし」

「……分かります」


 いけない。ウルカ先生が昔の失恋を思い出してしまった。この人って大らかで頼もしく見えるけど、結構純真な所がある。失恋の痛みっていうのかな。


 だからって、ちっとも相手が定まらない人みたいに、新しい恋でも見つけろなんてことは言えない。


 僕だってサチウスとの破局や、その先のことなんて想像できない、したくない。


 今日だってお弁当持たせてもらったし。

 ああ、僕って先生より恵まれてるんだな。

 いけないけない。話を修行に戻そう。


「でも変な話ですね。これだけ高度な学問が、どうして発達しなかったのでしょうか。星の光の力など、今日でも注目されているのに」


「今日だからこそ注目されたのです。時代が早すぎたのですな。治療においては様々な学問が発達し、それぞれ作用し合って、十分と言えるほど発達しました。しかし占星医学は神秘の領分を含んでおりました。神秘の衰退と共に消えていくのは、自然の成り行きでした」


「ですが占星そのものに、神秘は関係ないのでは」


「人間がそう結び付けてしまったのだから、仕方がない。本来は人の生き方や育て方に対し、影響を与えるものです。まあ効率も良くないですし、自動化を考えるなら、プラネタリウムを医療の場にするようなことになりますな」


「農業では作物に与える光を調整する手法もあるし、磁気や電気での治療も確立されているのに。妙な所で躓いちゃったんですね」


「占星医学は保育・教育・宇宙医学に跨る学問ですし、それは連携し難いです。地に足を付けながら宇宙と接するのですから、産学官の間に繋がりを持たせるのは困難でしょう」


「もったいないなあ」


 こっちの世界で魔法も発展すれば、それこそ直ぐにでも手が届きそうなのに。あちらを立てると、こちらが立たないってことだね。


「人類が様々な星の光を集められるようになれば、漢方薬のように復古するやも知れませぬな。昔は月の光によって、人より多くの恩恵を受ける者たちは、異端の扱いを受けましたが、今ならそういうこともないでしょう」


 どんな技術や学問も、時代に合わせなければならず、技術や学問を進めるときは、時代を動かさなくてはならない。


 異端ではなく、無関心のまま『何だか凄いらしいよ』という意識を、即物的で無関係な人たちに持たせるには、無関心のままに得をさせなければならない。


「難しい話ですね」

「政治と商売無くして学問は守れませぬぞ」

「為政者としては頭が痛いなあ」


 魔物たちが開明的になっていったとしても、そうでない者たちとの間で、なるべく諍いが起きないようにはしたい。


「それもまた、ミトラス殿の宿題ですな」

「僕としてはここでずっと修行してたいけど」

「ふふ、神隠しとエア呪符までは伝授しますぞ」


 神隠しはまだしもエア呪符とは。


「ウルカ先生、エア呪符っていったい」

「あ、良かったまだいた」


 ウルカ先生に質問を遮って、女性の声が聞こえた。僕はこの声の人が苦手だ。気まずいしあまり好きじゃない。


「おお、お嬢どうされました」


 何処からともなく現れたのは、一応サチウスの友だちの蓮乗寺さんだ。僕はこの人と不貞を行ったが、この人のほうから一方的に中止を、うん、中止だった、を言い渡されて非常に気まずい関係である。


 見た目は可愛いんだけどね。今となっては中止になって良かったような、残念だったような。サチウスも彼女も、今は気にしてないのが唯一の救いだ。


「実は折り入って頼みがあるのよ」

「私にですか」

「あと、良ければ魔王さんにも」

「え、僕」


 なんだろう。この人のテコ入れのせいで、僕は危うくサチウスと別れるかも知れなかった。それなりに協力的だけど、自分勝手な所があるので不安だ。


「そう身構えないで。サチコさんのことだから」

「え、また」


 確か前も切っ掛けはサチウスのことだったような。


「大丈夫だから!」

「まあまあ、聞くだけ聞いてみましょう」

「先生がそう言うなら」


 僕は警戒を維持しつつ、彼女の話に耳を傾けることにした。もしもまた良からぬ誘いだったら、きっぱりと断ろう。


と思っていたのだけど。


「じゃあいいかな。実はね」


 そう言って彼女が僕たちに切り出したのは、これがまた何とも面倒臭い話だった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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