・差し引き0の溝
・差し引き0の溝
「栄。この前は八つ当たりして悪かったな。ごめん」
「あ、はい……」
終わった。謝るという作業項目が消えた。しかし関係が修復されるとか、そんなことはない。やべえ、これは詰んだんじゃねえの。
「ん。じゃあな」
「はい、さようなら」
いつもの放課後のいつもの部室。部活の時間も終わり解散となったので、俺は栄を呼び止めた。先月の土下座から一転して、怒鳴ってしまったことについて詫びた。
それだけ。
「困ったことになりました」
『知らないよそんなの』
家に帰って先輩に相談をしたところ、きっぱりとそう言われてしまう。俺がこういう相談を出来る相手は、海さんと先輩くらいしかいない。
『二人の好き嫌いがはっきりしただけじゃん。今まで見ないで済んだ部分を見ちゃった以上、距離が生まれるのは当然のことだよ』
「それはそうなんですが」
先月の料理部が家庭科部によって、廃部へと追い込まれた一件。俺は何とか勝とうとしたが、汚れ仕事をやりたくない栄によって、絶体絶命の危機に追いやられてしまった。
その時に怒りをぶつけたせいで、栄と疎遠になってしまったのだ。
『あのさあ、言っちゃ悪いけどこれメインはサチコじゃないよ。栄がフラグ管理しくじって、サチコを爆発させただけだから』
「いえでも、俺としてはまた仲良くやって行きたいなと」
『ありがたいから気持ちだけ受け取っとくよ』
厳しい。先輩は俺と栄の仲を取り持つとか、そういうことは考えてくれそうにない。『勝手にするから勝手にしやがれ』が信条の人だから、頼りになりそうもない。
でも北先輩は仮にも栄の姉で俺の先輩だし。
いやでもやっぱり海さんに相談するべきだったか。
「出来ればここから関係を修復していきたいのですが」
『無理だって。前回の事件を振り返って見なよ』
「その節は面目ありません」
『そこはお互い様なの。誰も悪くないんだって』
痛い所を突かれた。確かに俺は良い所無しで、失敗し通しだった。料理部部長の裏切りによる、あのどんでん返しが無かったら、間違いなく大惨事になっていただろう。
しかしじゃあ栄が俺に逆らったのが、果たして正しかったのかというと、これは個人的にも道徳的にも間違いではない。むしろ悪事に手を貸さなかった分は正しいと言える。
そう。あくまでも、個人的かつ、道徳的な面で。
『栄が歯向かったから事態が好転した訳じゃないし、部の皆のためを思ってのことでもない。それは十字さんが、軍事部にまで迷惑はかけられないって言ったのと対照的だよ』
部活の存亡を賭けた部勝負において、廃部になった料理部に代わり代理戦争をしてくれた軍事部。
料理部の部長こと十字は、料理部と自分の才能が好きではなかったが、それでも自分の身の振り方、周囲との関係を考えて、家庭科部より軍事部を取ってくれた。
『意思決定までに色んなバイアスがあったと思うよ。けど最後はうちを取ってくれた。事実はそういうことでしょ』
「はい」
何時になく厳しい口調だ。こんな説教トーンで喋る先輩の声は初めて聞いたな。電話越しなのに、こちらの身体が縮こまっていく。
『あいつにはそれが出来なかった。修羅場を何度も潜っているのに、自分の立場が汚れるという危機感、トラブルに対して付き纏う、当たり前の現実感がイマイチ欠けてるんだ』
「でもほら、良いことする際は、全力で手伝ってくれるし」
『だから。人命救助のレスキューみたいなことにはそうでも、前回みたいな件では違ったってことだよ。心の中ではさ、大したことじゃないって線引きなんだ。サチコからしたらどっちも同じだったろ』
「そりゃだって、自分たちの居場所ですから、言わば生存闘争と同じです。学校は俺たちが暮らしていく場所ですから」
言えば言うほど開きの大きさが見えてしまう。
『にも関わらず、サチコは失敗したし、栄も保身に走っただけだ。どっちも『愛同研のため』っていう点について、正しさを示せていない』
栄の振る舞いは、道徳的には人として正しい。が、しかし現実的な人としては問題がある。組織も義理も人情もぶっち切ってしまったからだ。
これを問題が無いとするなら、それは栄が何処にも属さずに、かつワンマンで生きている場合に限られる。でなければ、周囲の人が全て支配下にあるかだ。
「せめて俺が少しでも成果が上げていれば」
一方で俺は、道徳的にも正しくない。組織のためとはいえ行動に問題があるし、成果も出せてないという有様。
全部黒星。
俺だけが一人負けという結果を出してしまった。
これがもし、汚い手を使ってでも、俺のおかげで軍事部が勝ったり、明確に十字が寝返った理由になったり、それで料理部が復活したりすれば、これで一つ正しさを示せたのだ。
栄に言い訳が出来たのである。
或いは十字が、栄の行動によって気が変わったと明言してくれれば、それは栄の行動が、組織のためにも正しかったと言える。勧善懲悪だ。
栄を持ち上げることができる。
『栄はサチコとの関係において、間違ってないけど正しいとも言えない状況にある。サチコはサチコで全部ダメと自己完結してる挙句、栄に八つ当たりしたことを謝って、もう接点がないと来てる』
「そんな末期の病状や死刑宣告を読み上げるみたいに」
これが人付き合いの恐ろしさか。暑さとは別に、嫌な汗がどんどん出て来る。ミトラスに目と仕草で合図をして、部屋を冷やして貰おう。
『あいつは私たちのように、性格だって突き抜けてない。もしもこれが私とみなみん、サチコの誰かで起きてたら、どうなってたと思う』
「どうって、俺が栄の立場でも、謝れば二人は許してくれたと思います。逆に二人が栄の立場なら、後で開き直ったり俺を煽ったりして、ケンカになると思います」
『うん、でもそこはほら、やられた後で悪かったって言えるじゃん、そこはさ。誰も悪くないにしてもさ、お前に手を貸さなくて気の毒したなって、悪いとは思ってるんだって、そう言えるでしょ』
そうだな。せめてその一言があれば、良い悪いじゃなくて、俺も許せると思う。まあ、そんなこと言える立場じゃないんだけど、気持ちの上では。
ただ、俺はもう事務的に謝っちゃったしなあ。
『あいつは自分から行動を起こせずにいる。謝る理由や立場にないから謝れない。あいつもう高二だよ。何時までそんな甘えたこと言ってんだっての』
高校二年生ってモラトリアムの最たる時期だから、要求する人格の基準が高すぎる気がする。栄は優秀だけど、打たれ強いかと言われると。
『全く変なとこで几帳面でさ、誰の影響だろうね』
「おめえのせいだろ。先ず間違いなく」
才能極振りで破天荒で行動力の塊で、そのくせに生活態度はだらしない。そんなのを相手に張り合おうとしてたんだから、多少潔癖になるのも無理はないだろう。
『なんだサチコ、お前栄の味方するのか』
「ええ。ああ、うん。そうですね。話の流れ的にも」
『はー私に相談しておいてそういうことする』
「いやだってお前よお、栄のこと相談してんだぞこっちは」
ここで先輩に肩入れして、栄を敵に回すようなことをしてどうする。というか敵対軸として参戦しないでください。お願いだから。
『なるほどなー、だったら私もう知らないからね』
「お前初めからそういう『てい』だったろ!」
寄りを戻すという発想がない。離れていった相手とはそれまで。生来の性分に加え、栄との仲が悪かった時期もあったからだろう。一人癖の価値観が、俺とはまた別の形で根付いている。
『あーあー知らない聞こえない、じゃーね!』
「おい待て斎、お前の妹のことだぞ! くそ、切れた」
面倒になったのか一方的に切りやがった。なんて野郎だ。俺の周りの人間共め、荒事のとき以外あんまり頼りにならないとは。こんなことなら海さんに相談するんだった。
もう結構遅いから、それは明日以降だな。
「サチウスお風呂空いたよ」
「ああ、今行く」
受話器を戻して溜息を吐く。正しさを示せなかった、か。確かに年長者として、また部長として行動しておいて、結果を出せなかったのは痛い。
俺だって栄に嫌がることをさせたのは、悪かったと考えたし、八つ当たりの部分だけが、どうしようもなく浮彫だから、誤魔化さないで謝った。
でも大事なのはそこじゃない。俺が感情を剥き出しにして、栄に怒ったことだ。栄が中途半端な良心で、愛同研を放り出したこと。俺の苦労を台無しにしたこと。
「……その点については俺悪くねえよな」
思わず愚痴が零れる。説教できる立場じゃないし、かと言って栄が歩み寄って来ないと、こちらも身動きが取れない。
先輩の言う様にお互いが、相手の見ないで済んでいた部分を見て、距離を置くのが自然だとするなら、そんなの夫婦みたいじゃん。俺やだよ。そんなの。
俺は栄とは友だちでいたいよ。
「あ~どうせなら部勝負の後に、十字がどっちかのおかげでしたって、はっきり言ってくれればなあ。そうしたらもう少しだけ、優しい展開を迎えられたんじゃねえかって」
「サチウスお風呂冷めるよ」
「うん今入るよ」
まだその気になりたくなんかない。でももしも。
もしも本当に俺たちがこれまでなら、そのときは。
本当にさ、一年間一緒にいておいて、今更なんなんだよ。
栄。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




