・回る掌の上で
・回る掌の上で
あっという間にやって来た九月の月末。土曜日の放課後の家庭科室には、俺と家庭科部の顧問だけ。今日の勝負のことを知った野次馬たちが、部屋の外をうろついているが、中に入れないようにしている。
「それでは今日はよろしくお願いしますね」
「ハイヨロシクオネガイシマス」
形だけの挨拶を済ませて、俺たちは勝負の内容を再度確認する。軍事部と家庭科部で料理勝負をし、負けたほうの部が解散となる。
審査員はこちらが手配した五名、アガタ、飯泉、清水、川匂、そして栄だ。OBが断ったせいでまともな人員を置くしかなかった。つまりタダ飯を食ってどっちが美味いかを判断するだけ。
料理部のこととか、こっちのこととか全く関係なく。公正な審査員なんか糞の役にも立たないということが良く分かる。うちから出向してんのに、うちに肩入れしないとかふざけてんのかよ。
「あ、サチコ先輩、今日はよろしくお願いします」
『よろしくお願いします』
「こっちこそよろしく。作るの俺じゃないけど」
自分の人生から色々と排除したからこその、憂いや心配のない笑顔。もっと政治的な判断をして欲しかった。さもなくば身贔屓をして欲しかった。
愛同研の仲間が路頭に迷いそうなのに、こいつらの中では、自分が正しくないことをしないってことが、大事なんだな。今日ほど道徳を憎らしく思ったことはない。
「……よろしくお願いします」
栄は俺と目を合わせようとしない。昨日の今日で、態度と関係が良くなるはずがない。いっそすっぽかしてくれたら、俺も気が楽だったのに。
「それで先輩、結局誰が今日の料理作るんですか」
「ああ、それなんだがな」
俺は家庭科室のドアを見た。未だに十字の姿がない。家庭科部の料理人は奴だけなので、来なければ料理部員たちが料理員として来るはずだし、万一全員がボイコットしたなら、その場合俺が厨房に立つことで不戦勝となる。
「あいつがどっちに付くかが分からなくてさ」
「部長が作るか部員が作るかってことですね」
清水が気怠げな視線を宙に泳がせながら言う。
今日まで綱引きみたいな真似をして、あれこれ画策しては全部失敗して、それでも結果発表を待たないといけないのが面倒臭い。
なに、きっと十字はこっち側に来てくれるし、栄とも仲直りできるって。何事もまず信じることが大事だって言うじゃないか。だからきっと大丈夫って。
そんなことある訳ねえだろ。こんなに人を信じることが虚しいケース、ほとんどないよ。幾ら何でもない。限りなく虚無に近いポジティブさ。後ろを振り返ってないだけ。方向を確認したら前を向いていた程度のポジティブ。
「なあ栄」
「……」
「いや、なんでもない」
人を信じるっていうのは、疑わないことや期待することではない。それがどれだけ有り得なくとも、そうなったら素敵ですねって、明るい展望を明るいままにしておくことだ。
冷静に考えて全く期待が持てないということは、それこそ沢山ある。しかしそれはそれ、これはこれとして『こうなったら良いでしょうね』というのを、否定しないってだけの話に過ぎない。
『ある訳ないだろ』と現実で否定し、引き続き気分を害し続けることはないのだ。たまにそういう心情に酔っ払いたがる人、いるらしいけど。
「サチコ先輩、サッちゃんと何かあったんですか」
「ああ、この前初めてあいつの地雷を踏んでな」
他の四人が席に着く中、アガタが珍しく心配そうな顔をして聞いて来る。基本的に笑うか怒るか素顔でいるかのこいつだが、父親のことと俺以外の友人のことで、心配事があるとこうなる。
「地雷ってなんですか」
「相手の嫌いな話をしたり方法を採ったりして、相手に嫌われることだよ」
「いやそれは知ってますけど」
声を潜め、外の様子を窺う『てい』で俺たちは話した。地雷は味方が踏んだら救護するものだが、この言葉を使う奴はむしろ離れていく。だからまあ自分から敵に向かって撒いてるんだよな。
「……盲点だったんだよ」
「盲点、ですか」
「ああ。愛同研を綺麗にしていくってことの意味だよ」
卒業した三年や発足当時からいた者なら、先日の栄のようなことはしなかったろう。俺は自分が去った後の愛同研を想って、ここまでに立たせてきた角を、取ろうとしてきた。
だがそれが良くなかった。平和の中で暮らすと、汚いことや荒事に対処できなくなってくる。抵抗力を失っていく。それが平和ってことだから。
そして人間は、平和に生きている生き物を見ると、絶滅させたがる習性を持っている。学校と折り合いを付けようとしたこと自体は間違いじゃない。だが、力を落としてはいけなかったのだ。
力とは何か。意思の力である。
「今回みたいなことがあると、キレイ好きからは反発される。俺みたいな奴は自分の居場所を失うし、かと言ってそいつらは自分の居場所を守れない」
舵取りと塩梅の難しさ。人間の作った構造だから、最小単位は人間で出来ている。どうしたって度し難い部分がある。とうとうと言うか、まんまと牙を剥かれた。
「来る者は拒まず、去る者は追わず。無くなる時は無くなれば良いって、きっと先輩なら言うだろう。でも俺はできれば残したいと思う。それは栄も同じだったろうけど、同じなのはそこだけだった」
部として存続することに、生きていく力がどれほど必要なのかは、俺にも分からない。分からないから備えたかったのだが、結果は失敗し味方を得られない、どころか一人失ってしまった。
「何にでも筋を通せば良いというものでもないが、分かって貰えなかったよ。中々悪いことはさせられないものだな」
残っているのは帰宅部同然の一般人が三人と、直接的な抗争以外では手を汚したくないアガタ。平時における俺の手札は俺一枚。
歴史の独裁者がそっち方面に走るのも頷ける。
リーダーとは敵だらけの中で失敗し続けるしかないのだ。君臨すれども統治をろくにしなかった先輩のスタンスは、ある意味正しかった。だが学校に対する抑止力になるような、問題児たちは粗方卒業してしまったから、今その方針を頼ることはできない。
「何となく分かりましたが、誰でも同じだと思いますよ」
「今度はもう少し俺寄りの人間を頼るよ。今度があるなら」
苦い笑いが零れて、溜息が漏れる。もしもまた栄にやらせたようなことを、誰かに頼むとしたら、先輩か漫研部長かオカルト部部長を頼もう。三年だけど童顔で背も低いから後輩に見えるし、こういうことに乗ってくれると思う。
他人の性情を把握し切れていなかったこと、適材適所を心掛けなかったこと。何より現状で一番信用できる人間に、一番嫌いな仕事を任せてしまったのが、昨日の敗因だ。
なんとも痛くて高い授業料だった。まったく、俺も随分と郷土愛に溢れた人間になっちまったもんだよ。
「お前も自分の立場が人の上に来たらな、人の使い方を覚えないといかんぞ。でないと俺みたいなことになる」
「私は身軽でいたいんですけどね」
「あ、来た!」
話し込んでいる内に誰かの声が上がる。部室の入り口を見て見ると、そこにはすっかり血色の良くなった、お釈迦さまもとい十字の姿があった。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「よろしく十字さん」
「よろしく。それで、お前今日どっちに付くの」
半ば答えは分かっているが、一応聞いておかねばならない。すぐ傍で勝ち誇っている家庭科部の婆を叩きたかったが、堪えろ俺。
「ええ、そのことなんですけど、臼居さん」
「祥子な。苗字で呼ぶなって言ったろ」
弱みも消えて、逆に俺が恥をかかされた瞬間に立ち会ったからか、今度はびびる素振りさえない。こちらの優位は最早一つもないな。
「お声掛けして下さったお二方には、申し訳ないのですが」
お、もしかして勝負を辞退するつもりなのか。だとすればありがたい。意外な所で運が残っていたものだ。色々あったが結末がこれなら。
「両方の料理を作らせて頂きたいのですが、如何ですか」
十字の急な申し出に俺たちは最初、誰もが言葉の意味を飲み込めなかった。聞こえなかったかのように一拍の間を置いて、俺と婆はなんとか口を開いた。
「は、えっ」
「それってつまり、両方の料理人をやるってことか」
「はい。いけませんか」
そう言って、にっこりと緩んだ笑みを浮かべた釈迦もどきの目には、狡猾な獣の様な、冷たく鋭い光が宿っていた。
元より不利な俺たちには、これさえ得になるカードだ。しかも家庭科部は、こいつがいないと勝負にならないので、迂闊に拒むこともできない。
「え、十字さん。どういうことなのこれは」
「家庭科部としても戦いますが、料理部、いえ軍事部の料理人としても、料理を作らせて頂きたいということです。よろしいですね」
こいつ、最後の最後で、この土壇場で、まんまと俺たちを手玉に取りやがった。
審査員は不正をせず、料理人は同一人物。ただメニューの良し悪しと、好き嫌いだけで勝負が決まる。
呆突然の出来事によって、思考に空白をぶち込まれる恐怖が、漠然とした響きで持って、内心に広まっていく。形勢は逆転されている。
「分かった。頼む」
「十字さん、あのね、あなたは家庭科部の部員なのよ」
「ありがとうございます。では支度をしますね」
こうして、今や中立の人物による、敵のいない料理勝負が始まった。或いは全てが敵なのか。ともあれ俺は、最早ことの行く末を見届けること以外、出来なくなっていた。
完全にしてやられたな。うん、やられた。やられたな。
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――やられたああああああああああーーーーーー!!
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




