・善と悪の個人主義者
今回長めです。
・善と悪の個人主義者
※このお話は栄視点となります。
九月の下旬と言っても、夕方はまだまだ長い。もうじき七時だというのに、まだ空には夕日の名残があった。本当はもう帰らないといけないけど、私はある家の前でずっと立ち尽くしている。
料理部の部長さんの家の前で。
手には小さな玩具のような鍵付きの金庫。振ると紙の擦れる音と、小銭の音が少しする。油性ペンで『料理部』と書かれたこれは、先ほど私が部員の振りをして、部長さんの家にお邪魔して持ち出した物だ。それも、先輩の指示で。
最初は何の冗談かと思った。次に冗談でないと分かると、今度はどうしてそんなこと、身内を疑うのかって、非難するような気持ちになった。
でも先輩は疑いなんかじゃなくて、確信があったみたいだった。断ろうと思えば断れたのに、私がそうしなかったのは、先輩の指示が間違っていて、金庫も存在しないでいて欲しかったから。
私への指示が失敗に終わって、人のことを悪く捉え過ぎないほうがいいって、私から注意してあげられたらと、そう考えていたのに。
「参っちゃうなあ」
姉の斎も、先輩も、何故だか真正面とか正攻法からズレた方法を、取りたがるときがある。あの人たちならそんなことをせずとも、何とかなりそうなのに。
それなのに、こんなことをして。確かに十字さんは料理部の元部長なのに、こうして皆のお金を隠し持っていた。でも部勝負とは関係のないことだ。関係のないことを、無理に紐付けようとしている。
私が間違ってるんだろうか。能力があって、正しくいられる人にそうあって欲しい。ただそれだけなのに。別にこんなことしなくたって。
これじゃ何だか自分が世間知らずみたい。
「はあ」
「あの」
「え、あ」
声をかけられて振り向くと、そこには同じ学校の制服に身を包んだ人がいた。元料理部の十字先輩、随分と疲れたような、どうしようっていう顔をしてる。
先輩たちの話だと、もって嫌味で太々しい感じだと思ってたのに。失礼な言い方だけど、頼れる人が誰もいない、そういう印象を受ける。
「あなた、もしかして」
「ああえっと、私、サチコ先輩の後輩で北宋って言います」
自己紹介をしてお辞儀をしたけど、彼女は返事もせず、ただじっと私の持っている手提げ金庫を見つめている。ああ、やっぱりそういうことなのかな。
「あの、これ」
「はい。お察しの通りです。まさか本当だったとは」
酷く落ち込んでいるみたい。先輩が何か言ったんだろうか、それとも部の人たちと揉めたんだろうか。高校三年生の女子をこんなに追い詰めて、あの人は胸が痛まなかったの。
「所詮お料理が上手なだけじゃ意味なんかないってことね」
「そんなことないです、十字先輩だって十分すごい人です」
「すごくてもね、大した人間じゃないの」
慌てて擁護したものの、声が上ずってしまった。きっと泥棒をした後ろめたさのせいだ。だけどどういうことだろう、すごいけど大したことないって。
「ただの特技ってだけでしょう、こんなの」
「十字先輩は自分に取柄があるのに、お嫌なんですか」
「そうですね、たぶんそうだと思います」
難儀な人がいたものね。
「自分は大したことのない人間だと」
「ええ、現にそうして、部費も持ち逃げしたくらいです」
なんだこの人気持ち悪いな。まるで周囲が自分の価値観と合わないのが嫌、ううん、自分の価値観からはみ出してる取柄が、人から評価されるのが嫌いみたい。
あたかも模試で一番上の人が、下から数えたほうが早い人たちにするのと、同じ扱いや振る舞いをしろって、言ってるような感じね。
もしかして成績じゃなくて、中身を見て欲しいってことなのかしら。だとすると、厨房にいてずっと料理を続けてたんじゃ、伝わらないよね。料理部にいてその注文はどうなんだって気もするけど。
でもそれなら、まだやりようはあるかも知れない。
「あの、十字先輩、そのことですけど」
「何でしょう」
「これ、返します」
「……何のつもりですか」
十字先輩はとても嫌そうだ。汚いものを見るみたい。どうしてこんなに身構えるんだろう。こっちは危害を加えるつもりはないのに。
「この部費は料理部のだから、十字先輩の手から皆さんに返さないといけません。そのときに一度、料理部の皆さんと話し合ってみたらどうですか。言い残したこととか、言わないでいたから上手く行かなかったことも、あるんじゃないかと思うんです」
そう言うと、彼女は俯いてしまった。相手の言葉を聞き流して終わるのを待っている、夫婦喧嘩したときのうちのお母さんみたいだ。
「これがなくなれば、あなた方は私を使えなくなりますよ」
使われたいのか使われたくないのか、はっきりして欲しい。自分の趣味の嫌いな部分を地雷呼びして、人に突っつかせたい人みたい。
「それはそれ、これはこれです。何より今回のことはずっと料理部の問題ですから、本来ならあなたたちで解決して貰うことなんですよ」
「廃部っていう解決をしてるじゃないですか」
無表情でこちらとは別方向を向いたまま、ぼそっと言う。少し早口になったような気がする。斎やサチコ先輩とはまた違う、幼稚さが見える。
「それは解決じゃなくて終了ですし、料理部の人たちだってまだ終わりにしてません。解散になるから後は個人の勝手だって、責任者のあなたがいの一番に居なくなってどうするんですか。廃部の際に今後のことを話す機会だって、有ったんじゃないんですか」
この人がしたことは会社が潰れるからって、社長が真っ先に夜逃げをしたようなものだ。しかも会社を潰した相手の所に再就職している。
「勝負のことは一度棚上げして、ちゃんと整理をつけないといけませんよ」
私がそう言うと、十字先輩は肩を震わせた。夕暮れ時でも分かるくらい頭部を赤く染めた。息も荒くなってくる。今にも手を出して来そう。間違ったことは言ってないし、気も遣ってるんだけど、どうしてこんなに怒るんだろう。
この人私より年上のはずだよね。
「あなたみたいなのがいるんじゃ、あの部長さんも色んな手を使う訳だわ」
うう、おかしいな。私はこの人と料理部の仲を執り成すつもりだったのに、説教っぽくなってしまったのが良くなかったのかな。
でもしょうがないよね。悪いのはこの人だから、そういうふうになっちゃうのは。まあ悪いっていうよりは無責任とか、不人情とか、捻くれてるとか……やっぱり悪いよね。
「とにかく、これを受け取ってください」
「元々私のものです」
「違います。料理部のお金です。皆に返してくださいね」
十字先輩はしばらくの間、自分に突き出された金庫を見て迷っていた。でも結局は受け取ってくれたし。酷く疲れた様子で、本当に嫌々とだけど。
「あの、どうしてそんなに嫌なんですか」
「自分が何とも思ってないことに熱中してる人、どう思う」
「どうでもいいです」
「そう。じゃあそのどうでもいい人たちと、ずっと一緒に仕事をしてるのはどうでしょうね。そういう人たちから評価されるのって煩わしくないの」
びっくりするほど空っぽな人だ。どうでもいいとか言ってるけど、それ絶対嫌いでしょ。その上でしたくなかった昇進をしてしまったんだ。
「私はね、他の部長みたいにはなりたくなかったの。楽しそうにはしてるけど、大変だし責任もある。頑張っても空回りしたり、理解されなかったりすることもあるし。あなたのところの部長さんが良い例じゃないですか」
十字さんは吐き捨てるように言うと、人を小馬鹿にするような、浅くて薄い笑みを浮かべた。一瞬だけこちらの目を見た後に、また伏せる。
「どういう意味ですか」
「棚上げになんかして良い訳ないでしょ。臼居部長が誰のために、あんなにバタバタと動き回ってると思ってるのよ。私に勝てる見込みがあるなら、あんなことしてない。それなのに、後輩のあなたがこうして足を引っ張って」
そんなこと言われても、だって、こういうの良くないし。けどもしかしたら、先輩は最初から勝ち目がないって分かってたから、あんな不正がどうとか言い出したのかな。
だとしたら、でも。
「でも、先輩は分かってくれると思います」
「自分が分かってもらうことは、そんなに大事なことなの」
「っ……」
足に力が入らなくなる。急に底が抜けたような、透明になったみたいに心細くなってくる。そんなつもりじゃない。料理部の人たちが大事じゃないってことではない。だけど。
「あなたは自分が担ぎ上げている人を、綺麗にしたがるようだけど、お皿だって磨き過ぎれば傷付くわ。劣っている人から持ち上げられたら、迷惑することもあるの。道徳的ではない最善の手段があったとき、採用させまいとする。解決策もないのにね」
分かる。この人の言っていることが。私は余計なことをしたって、先輩のことを分かってなかったって。私、好き嫌いを優先した。
頭の両側がぎゅってなるのを感じる。首筋まで靄がかかって、息が詰まるような感覚。せめて先輩や他の人たちに相談してからやれば、こんな気持ちにはならなかったのに。
「どうするの、やっぱりこの金庫、持ってく?」
「私、お二人ほど間違ってないと思います!」
咄嗟にそう言い放って、私はその場から逃げた。幸か不幸か、十字先輩は追いかけて来なかったし、金庫を押し付けられたり、返金を頼まれたりもしなかった。
でもどうしよう、ちょっとした不満ぐらいで、取り返しのつかないことをしてしまった。どうしよう。先輩に何て言おう。いや、言ってもどうしようもない。
でも、先輩ならきっと分かって。
分かって。どうなるんだろう。どうすればいいんだろう。
こんなはずじゃなかったんだけど。
こんなつもりじゃなかったんだけど。
どうしようどうしようどうしょう。
「どうしよう」
間違ったことはしてないと思う、だけど。
私、大変なことをしちゃったのかもしれない。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




