・贅沢な中学二年生の贅沢な憂鬱
・贅沢な中学二年生の贅沢な憂鬱
※この章は主にミトラスの視点でお送りします。
雨が振り、冷たい風の匂いが心地よい昼下がりに、僕は行きつけの古本屋にお邪魔していた。街に響き渡る水音と、雲に覆われた空。夜ではないから灯の点かない街並は、ひどく静かだ。
まだ日中だけど、大勢の人々は仕事に出ているせいで、まるで滅んだ世界にいるような安心感を覚える。この世界の、いや、この地の人々は奇妙だ。勤めに出るということは、大半が別の街へと移ることを意味する。
日夜出稼ぎに向かう彼らに、その自覚はない。機械の乗り物に乗って、どれほど遠くの土地へ行っても、短時間で帰って来られるなら、それは大した問題ではないらしい。
他の動物よりも随分と長生きな人間が、寿命の短い動物たちよりも時間を気にするのだから、なんだかあべこべに思える。時間さえ、と早さと流れに囚われては、その鎖を物差しにして、他の物を切り取りたがる。
未来や将来に希望を持ちながら、明日を恐れる。恐怖を忘れるために働き、遊び、酔い、暴れ、眠る。忘れる種族は、今日も明日を忘れ続ける。
なんてね。
「は~」
「なんだい恭介、人が折角物思いに耽っていたというのに」
店の奥から聞こえてきた大きな溜息は、この店の主人を気取る少年のものだった。
彼の名前は恭介。苗字は知らない。この古本屋『焚書堂』に住む人間の子ども。
線のように細い眼と女性のような長髪、白く抜ける肌が特徴の美少年だ。
「ん、いやなんでもないよ」
「そう。まあ猫も欠伸はするからね」
店の主人のお孫さんである恭介は、所謂『不登校児』というものらしい。便利なので、僕もその設定で日々を過ごしている。人間に化けては人のいない街を巡り、時にはこうして友人の店に立ち寄る。店の中にいる彼は、いつも薄着の上に深い緑色のどてらを羽織っている。
僕の一日はだいたいこんな感じで、家事と自主的な勉強も加わると、そこそこ充実した生活と言えよう。唯一不満があるとすれば、仕事ができないことくらいかな。
「ボクはこういう日の気圧に弱いんだ。お客さんも来なくなるし、来られても品物が濡れ兼ねないから、嬉しくない」
「僕が来てもそうなの」
「誰が来たってそうだよ」
完全に腐っている恭介から視線を外し、改めて店内を見る。このやや黴臭く埃っぽい店は、時代に取り残された空気を強く放っている。良く言えば文化的とか歴史的とかそういう雰囲気。
「一応言っておくけど、個人的に誰それの好き嫌いってことじゃないよ」
「僕は優良な顧客だからね。それくらい分かる」
「優良って、どの辺りが」
「立ち読みした本はちゃんと買って帰る。これ下さい」
「買って初めてお客になれるんだよ。600円になります」
「ということはお客になった後で更に査定があるのかい」
恭介は『当然』と言って会計を済ませた。ここで漫画や小説や雑誌を読んでは、それを買っていたけど、それだけでは上客にはなれないのか。常連客ではあるのに。
「君はもう少しで上客ってとこかな」
「もう少しの条件は」
「あそこの売れない棚から一掴みしてくれたら、かな」
彼があそこと指差した先には、一般的な店では全く見かけない雑誌が並べた棚があった。デキは良いけど大衆誌のように整ってはいない。これはいったい。
「同人誌さ。個人製作で中身はかなりしっかりしてる。読み終えたのをそこに置いてるんだけど、中々手に取ってもらえなくってね」
それ転売って言うんじゃないの。いや、読み終えた本を売ってるんだから、古本屋の営みそのものなのか。でも、それならこれらの雑誌は彼の趣味ということだな。どれどれ。
「ふーむ、『空想戦闘機大戦』に『古典的未来』、『アニメの中の統計学』に『商人と木の悪魔たち』、他にもいっぱいあるけど、手持ちのほうはそんなには」
「いいから先ず読んで見てよ」
「いつもなら買うやつだけ立ち読みしていいって言うのに」
こうして恭介が許可を出すのは、決まって本の内容を話したいときだ。彼は天才に片足を突っ込んだ秀才で、例えるなら上から数えたほうが早い人類だ。
そんな彼だが趣味は写真と怪獣が出る特撮、そして撮影機材が古い時代劇。その他諸々。俗っぽいけど好きなものも多く、それでいて見る目がある。
「じゃあここはお言葉に甘えようか」
棚から牡丹餅。個人製作の映画はだいたい駄作というけど、こっちはどうかな。万一のときのことを考えて、フォローの言葉を考えておこう。
「架空の戦闘機か。僕こういうの詳しくないから、違いが良く分からないよ」
「文字はおまけさ、見た目が格好いいかどうかだよ」
「格好いいと思う」
僕のいた世界にはまだ存在しないから、戦闘機そのものがフィクションだ。でも見た目はイカス。言い方が良くないけどイカス。
「特にこの前進翼が、音速突入時に合体と格納をされて、機体の形が♂みたいになるのは好きだな。車輪が出る辺りにヒレの付いた足っぽいのがあるのも、機首と胴の間からフィルムの翼が新しく生えて虫みたいに飛ぶっていうのも良いと思う。色が緑なのだけがちょっと」
「やっぱりそう思う。実は模型を作った段階では水色だったんだ。でも背景の空と被ってしまって、慌てて色を変えたんだ、失敗したよ」
ん? 今何か変なこと言ったような。
「……それとこっちの『国粋を育んだ顔料』なんだけど。こっちは異国から入ってきた絵の具、つまり顔料が、仕入れた国の、時代を代表する画風の立役者であるっていう下りは、浪漫があったよ。海外産の青が浮世絵の大家の画材に使われ、流行りの終わったそれらが包装紙になって海外へ渡り、価値と流行を再燃させたって話があって、それと似た話も収録してあって」
全部が全部国産品って訳じゃないのは目から鱗だった。
「あ、それ。それ実はお爺ちゃんが書いた奴なんだけど、そっか。うん、ありがとう」
ん? また何か変なことを言ったような。
「もしかしてこれ、君ん家で作ってるの」
「うん、あ、言ってなかった、はは」
恭介は顔を真っ赤にして照れていた。つまりこれは、そういうことか。
「即売会と違って全然売れなくてさあ。お爺ちゃんのは値段の割りに結構売れたんだけどね。ボクなんかまだまだ全然で、えへへ」
しかも彼は自分のよりも、お祖父さんの書いたほうが褒められたのを喜んでいる。
「そう。でも面白かったから一つ買うよ、幾らだい」
「こっちはぜんぶ700円で、そっちは2,000円」
「ほぐぐ!」
一冊だけ想定が和風でしっかりしてたし、ちょっとした参考書ともとれる厚さだから予想はしてたけど、これは高い!
「じゃあさっきの奴は返品で」
「うちは返品取り扱ってないよ」
「……ならこっちの700円のを一つ」
「2,000円のを買ってくれたらそっちはおまけで付けるよ」
「そんなにお祖父さんの本を売りたいの」
「それが最後の一冊なんだ。売り切れて欲しいじゃないか」
祖父孝行なところがあるけど、この場面は見せられないな。僕は渋々お財布からなけなしのお金を出して、合計七冊の本を手に入れた。店の名前の入った紙袋に詰めてもらうと結構な厚みがあった。
「手痛い出費だった」
「毎度ありー!」
これで今月のお小遣いを、全て使いきってしまった。昔はもっと多かったけど、色々やり過ぎたせいか、今ではだいぶ減らされている。慎重に使わないといけなかったのに。
「でも意外だな。恭介ってそういう活動してたんだ」
「中学に上がってからね。勉強したことの用途として、創作は合ってると思うよ」
元々お祖父さんがそういうのを趣味にしていて、彼も同じようにやってみたところ、楽しくてのめり込んだのだそうな。彼は両親の話をしたことがない。言わないのだから、僕も聞かない。
「でも売れないんだろ。だからさっき溜息なんか吐いて」
「いや、こういうのは沢山売る前提では刷らないよ。あれは別のことで」
「別っていうことは、別の悩みがあるのかい」
「あ、いやまあ、うん」
「もしかしてお店、潰れそうなの」
「違わい失礼な!」
恭介は電撃的な反射で以て怒った。彼にこんな怒られ方したの今までで初めて。例え冗談のつもりでも、相手の家業の経営状態を茶化してはいけない。
「ボクが悩んでるのは、日のことなんだ」
日というのは西日のことだ。小学生時代から二人の仲は良かったが、中学に上がるなり付き合い始めたのか、恭介は彼女へのちゃん付けを止めた。
「日ちゃんがどうかしたのかい」
逆に僕は二人の距離感を気にして、三人一緒のときなどは、ちゃん付けをするようになった。上手く言い表すことができないけど、こう、難しいんだよ。異性が一人混じった三人組というのは。二等辺三角形は安定を欠いているんだ。
「……」
「恭介」
「最近、彼女が冷たいんだ」
「そっか。じゃあね」
「え!?」
僕は買った本を手にして踵を返した。少しでも心配して損した。痴話喧嘩に首を突っ込むとろくなことにならない。
さ、今日はもう帰ってこの同人誌を堪能するとしよう。お高い買い物だったけど、内容は楽しかったから、熟読するのが楽しみだ。外の雨も止んで来た。
さ、早く家に帰ってゆっくりしよっと!
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




