・聞いてないんだから言うんじゃない
今回長いです。
・聞いてないんだから言うんじゃない
これまでの人生で恐怖を覚えたこと、味わったことは何度もあった。
異世界で翼竜の密漁者に眼鏡を割られたとき。
魔物たちに嫌がらせをしていた官僚が、雇った賊ごと騎士団に粛清されたとき。
別れた母親夫婦がクリスマスに駅に現れなかったとき。
頭のおかしい女が他の女性たちを監禁していたマンションに踏み込んだとき。
アガタがそいつに誘拐された挙句逆に殺そうとしたとき。
先輩の肝試しに付き合って本物の悪霊と遭遇したとき(二回)。
ミトラスと気を遣い合ってたら危うく寝取られかけたとき。
異世界転生予定者の中に本物の殺人者がいたとき。
先輩がチンピラに襲われて帰って来たとき。
振り返ってみれば割と本気で震えが来るものばかり。分けてもミトラスとのことは、人生が拓けた恩もあるから、束縛したくないと思っていたのが仇になった形だ。
いつこの生活が幸せな夢や、思い出に変わってもいいと思っていたから、我侭を言うまいと当時は思っていたのだが、いや止そう。もう済んだ話だ。俺たちはあの日から進んでいるんだ。今はこの現実と向き合うのが先だ。
現実。そう現実。
新しい恐怖。
自分がエッチの後に使っている芳香剤が、後輩と被るという、恐怖。
いや怖いかこれ?
直接的には命の危機は伴わないのに。
不安というか、たぶんこれが純粋な『恐怖』なんだ。
危機的な状況や他の要素が一切無い。何かを知らせるためのものではなく、ただ怖いから怖い。共有されない気まずさ、行き場のない焦り、相手がいるのに自分しか噛み締めない、恥。心臓の裏と肺が冷たくなっていく感触。
状況の理解と共に、俺の中に噴出した感情はそれだった。
「どうしたものかな」
「どうしたんすか」
「うあっ!」
緊張していたせいか、背後から人が接近していることに気付かなかった。前屈みになっていた背筋が思わず伸びる。直後に背後から同じように驚く声。振り向くとそこにいたのは、川勾より一足先に帰ってきた飯泉だった。
「あ、お、お前か飯泉、あーびっくりした」
「そんな驚かれると逆にこっちがビビりますよ」
ツリ目の刈り上げに見慣れたジャージ姿、一人体育会系こと飯泉は心外そうにしていた。もしかしたら今日は連絡つかないかもぐらいに考えてたから、これは想定外。
大丈夫か、清水が使ってしまったかも知れないこの部室に入れて、気付かれないだろうか。いや、飯泉だし性的な方面には疎いのでは、そうであって欲しい。
「すまん、実は今清水を探しててな」
「あーそれで……あー清の奴ヤッたな」
駄目だった。イントネーションと空気の変わり目でもう、察したことが察せてしまう。身内バレしてるだけなのか、それとも共犯というかお相手なのか。
「あの先輩、これあたしが言ったってこと、清には内緒でお願いしますね」
「おう……おう……!」
良かった、どうやら前者だったようだ。良くない。人物像が掘り下げられて、アレな案件がこれ以上増えないというだけで、事態は何一つ好転してない。
「あいつムッツリなんすよ。しかも結構スケベで」
「そうなの、じゃあやっぱりこの臭いって」
「たぶんここでエロいことしたんじゃないかな」
そうか。してしまったのか。目は口ほどに物を言うって言葉があるが、そうか。
あいつのタレ目はスケベなタレ目だったんだな。
「頭が痛い。男を連れ込んだならそっちも確保しないと」
「その辺は心配要らないです。あいつ女が好みなんで」
「相手の男が女になっただけだろ」
「いや、ですから、ムッツリなんですってば」
「そうか相手はおらんと」
あくまで同性を性的な目で見てるだけ。この一文から放たれる邪気が凄い。
俺はもしや、とんでもない存在を相手にしようとしてるんじゃなかろうか。
「でも変だな、ここ最近は大人しくしてたのに」
「そのことについてなんだが、斯く斯く云々ということで」
「あー、なるほど」
OG同性愛カップルの結婚式に連れて行ったことが、清水の眠っていた性欲に火を点けたらしい。それで悶々としてる内に、手淫自涜的な行為に走ったと。
「一応中を検めよう。俺たちの思い過ごしという線は否定されていない」
「そっすね。信じる気持ちは大事っす」
まだ臭いだけ。まだ一アウトだ。俺は何を言ってるんだろう。飯泉と第二部室の中に入ると、そこには布団代わりと思しきマットと毛布、小さい幾つかの工具箱があった。中には下着や生理用品が入っている。鍵くらいかけろ。
だがそれよりも目を引いたのは。
「壁紙が貼られている」
「随分と明るくなりましたね」
第二部室のコンクリート打ちっ放しだった壁、そこには部屋の遮音性を高める類の壁紙を貼られた、厚さ五cmほどの防音シートが敷き詰められていた。ご丁寧にも四方と天井にみっちり。シートは簡単に取り外しが可能で、外すと今度は遮音シート。
遮音・防音・遮音の念の入れ用である。
費用が俺持ちだからって限度があるだろふざけやがって。一体幾ら金掛けたんだ。甘かった、ちゃんと下請けを虐められるよう、契約内容を詰めておかなかった俺の失態だ。
意図せず金に糸目を付けない形になってしまった。常識的に考えれば、誰も一気にここまでやろうなんて考えない。それも他人の金で。こっちが物を知らない素人だと思って。
「クソ、やられたな」
「窓ガラスも新品ですよ」
そこも防音なのか。徹底してやがるしあまりにも手際が良い。さては俺に丸投げされた日に依頼を出したな。今からでも費用について交渉しないと、これを最終的に全額負担なんてしたら俺の生活は終わる。何としても清水を捕まえんと。
ここを保健室の様に使いたいと言った手前、外の音が入って来ない様にという大義名分はあろうが、本音は自分の声が外に漏れないようにするためだろう。
恥液に穢された御旗か。十八禁のアドベンチャーゲームでもあるまいし。手遅れにはさせんぞ。ここはまだ俺の愛同研だ。
「清水は何処に行ったと思う」
「さあ、あいつは出先でオナると二、三日そこに近寄らなくなる習性なんで」
「そう」
何だろう。悲しい生き物だな。
「でも意外だな、お前ってこういう話は苦手そうなのに」
「そっすか。え、でも体動かすとすごくムラムラしません」
ああ、オリンピック選手みたいなものか。体育会系こそ性的にも活発なのは、生物として至極当然、少し考えれば分かることだが、要するにお前らどっちもスケベなんだな。
「うんまあ、でもそうなると清水はお前に言い寄らんのか」
「なんででしょうかね、身の危険を感じたことはないです。あ、でも川やんのことは結構見てるからあっちは狙われてるのかも、だとすると」
「どうした」
「川やんってあたしら三人組が離れるときは必ずあたしのほうに来てたなって。てっきり清より好かれてるんだって感じてたけど、違ってたのかも」
先月の試合のときは良く平気だったな。そして飯泉よ、どうしてこんな場面で友情に亀裂が入るようなことに気が付くんだ。俺は関係ない。俺のせいじゃない。俺のせいではない。断じて。
「二、三日ってことはだ、早いければ今日戻るはずだな」
「そうですね!」
俺たちは話を逸らすべく、話を元に戻した。人生どんな拍子に転機が訪れるか分からない。それが好ましくなかった場合、見て見ぬ振りをするのが、処世術って奴なんだ。
「飯泉。お前は清水の家に電話して所在を確認しろ」
「うっす。先輩は」
「ここで待ち伏せする。他に当ても無いし」
不安なのは飯泉がこっちに来る前の間に、清水が彼女の家に電話して所在を確認して、お家の方に俺からの呼び出しだあったことを知ることだが、そこは現代女子校生。お互いに携帯電話でやり取りできるから自宅を介してトラブルが起きる可能性は低い。
「あたしが直清に直接電話しましょうか」
「そうだな。俺が泣きついた『てい』で、金を返せとかそういう方向で頼む」
「分かりました」
かくして飯泉は懐から取り出した携帯電話を清水へとかけた。待つことおよそ十秒くらい。出て欲しいような、出ないで欲しいような。
『もしもし』
「あ、清―あたしあたし」
繋がった。
「うん、そうそう昨日昨日。お土産買ってきた、空港の奴」
『お前空港って、旅先の土産買って来いよ』
「だって空港の土産屋のほうが豪華だし」
よしよし、自然な成り行きだ。そこは長年つるんでいただけある。このままそれとなく、怪しまれないよう、部室の件に繋いでくれ。
『あ、そうだお前さあ、先輩に私のこと売ったろ』
「そうそうそれそれ。見張っとけって言ったのにお前が居なくなったとかで、金返せっつったら清に払ったから無いとか言うの。だからあたしの金返せよ」
『は? 先輩が私に丸投げした依頼料だから、先輩の金だし私の金だぞ。お前が詐欺られた分は先輩に言えよ。私は知らないから』
「おいふざけんなよ。お前のこと心配して金出してやったのに、何であたしがお小遣いあげたっぽい感じになってんだよ」
『心配したんならお前らが直に来れば良かっただろ。小遣いも普通にくれていいし』
「それとこれとは別だろ。つかお前今どこにいんの」
『お前こそ何処だよ』
「学校。先輩に呼び出されてこれから野球部の部室行くとこ、すごい豪華にしたらしいじゃん。先輩がこんなの全部払えないって顔真っ白にしてるぞ」
本当にな。
『え、今そこに先輩いるの』
「いるよ、泣き付かれて清の居場所知らないかって」
『あー、そっか……メシ、ちょっと先輩に代わってくれる』
「え、いいけど、はいどうぞ」
「もしもし」
飯泉から電話を受け取る。怒りと苛立ちと不安とが綯い交ぜになって声が大きくなりそう。落ち着け俺、落ち着くんだ。事を荒立ててはいけない。怒り易い人は嫌われるぞ。怒らせてるのは相手だけど。
『先輩ですか』
「お前あれ幾らしたんだ!」
『え、私の心配は』
「そんなことはどうでもいい。幾らしたんだ!」
『あ、はい。高いほうと安いほうどっちから行きます』
「安いほうからで」
『遮音シートは三千円代のを纏め買いして安くしたんで一万二千くらいですかね。次に防音シートは通販で三千五百のを三つ買って一つおまけなんでこれも一万二千くらい。それに貼った壁紙は一万五千です。最後に窓ガラスですけど大きいとこだけ工事して貰って、そこ三万八千円くらい』
気が遠くなる。七万七千円。小さい窓まではやらなかったのが不幸中の幸いか。ざっくりとした勘定だから、八万も視野に入れないといけない。分割で月一万返済でも八ヶ月相当だよ。俺が卒業するまでじゃないか。ていうかどうやって工事を呼んだんだ。
『レシート入ります』
「要る。お前さあ、俺が費用持つにしても限度があるだろ」
『あ、やっぱり』
「無駄じゃない以上は支払うけど、分割でいいか」
『良いですよ。私も使うから少しくらいは少なくても』
「そうか。とりあえずお前帰って来い」
『あー、じゃあ外でちょっと待っててもらえますか』
「おう。そっちもちゃんと合鍵持ってこいよ。学校から借りてる鍵返しちゃうから」
『分かりました』
向こうから通話を切られた。これでよし。静かに吹き寄せる渇いた砂埃が、これから起こる戦いの厳しさを暗示するかのようだ。
「これで奴は俺が合鍵をもう一つ持ってないという偽情報を掴んだことになる」
「上手いこと誘き寄せましたね」
「しかし気になることがある」
「なんですか」
「清水は待ち合わせ場所を外に指定して来た。今の会話じゃ俺が奴のオナニーに気付いているとは思わんはずだ、何故」
疑問を口にすると、飯泉は急に神妙な顔をして押し黙った。予感よりも確実な閃きが、答えを鮮明なイメージとして脳に走らせる。
「そらたぶん、あたしのせいですね」
喋らせまいと言葉を探している間に、向こうが先に口を開いた。止めろ。
「飯泉、言うな」
「あたしが部室に入る前だから、あいつは咄嗟に引き留めたんです。だって」
「飯泉!」
「あの芳香剤、元はあたしが使ってた奴だから……」
項垂れた彼女と俺は、再度分厚い沈黙に包まれ身動きが取れなくなる。渋面を撫でるそよ風が、目を逸らせない苦味を煽る。
何故だ。本筋とは全く関係ないあの芳香剤一つで、どうしてこうも皆で傷つかなくてはならないのか。
止めどなく押し寄せる苦しみに、俺は両手で顔を覆うしかなかった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




