・練習開始
・練習開始
「なあ東条」
放課後のグラウンドの片隅で、俺たちはジャージに着替えて野球の練習をしていた。東条から試合が二週間後に決まったことを聞かされて、それ故にこうして集まったのだが。
「本当に俺がキャッチャーじゃなくていいのか」
「流石に女子にそれを、任せるのはいけませんから」
フェミニストや女性野球チームが聞いたら怒り出しそうだが、俺は彼の言い分に好感を抱いた。
女に向かって物を投げてはいけないと本人が思っているのだ。人を大事にしようという考えを、この年でまだ持っている。
「気持ちは嬉しいけど一番ガタイがいいのは俺だぞ」
「そうですね。でも駄目です。駄目なもの駄目」
キャッチボールをしながら会話をする。他も似たようなもので、授業で何度かしたことはあっても、こうやって本腰を入れて野球をしたことはない。状態に徐々に慣らしていく必要がある。
つまり野球をする気分に、なっていかなくてはいけないのだ。やる気が無くてもやり始めれば、やる気が出る。そんな言葉がある。
競技に参加している奴らだって人間だ。毎日最初からやる気が、最大であるはずが無いので、習慣や惰性で続けていく内に、最低限のやる気も出ることに気が付いたのだろう。
やったらやる気になる。はそれなりに本当のことなのだ。
「分かった。それと選手登録のことなんだけどさ」
「はい何でしょう」
「できれば苗字は使いたくないんだけどいいかな」
「構いませんよ。下の名前で登録してる、野球選手がいるんですから」
東条は俺の家の事情を、知っている人間の一人だ。俺から話した覚えはないんだが、卒業した二人が一部の部員たちには、教えていたようだ。
余計なことをと思うこともあるが、言わなきゃ伝わらんし自分からは言い出し難いので、結果的に助かったと言うしかない。
「ありがとな、すまん」
「いえ。そろそろ肩も温まって来ましたし、ちょっと距離を離しましょう」
キャッチボールの距離は最終的に二塁からホームまでと同じくらいになった。
俺も東条もまだまだ余裕があったのだが、他の部の邪魔になるので、試すことは出来なかった。
男子はともかく、栄とアガタは自分にボールが投げられることに慣れておらず、安全面を考慮して、二塁と遊撃に置かれることが、先に決まった。
二塁は盗塁が来るものの、他と比べて危険な打球や選手の危険な突進が少ないので、消去法である。
フライなんて当たるととてつもなく痛い、況して球に速度が乗って運ばれて来る、外野を任せるなんてことはできない。
「分かっちゃいたが練習は守備ばっかりだな」
「体育だと点取り合戦になりますからね、これができないとどうにも」
ちょっと速いだけの投球など、打撃練習と変わりがない。誰もが打席に立ちたがり、他はやりたくない。それが学校における、野球部以外の野球なのである。
そんな訳なので、三振と打ち損じのゴロ以外のまともな守備を、要求されるとそれだけで点に繋がってしまう。相手は当然そんなことはない。
うちが弱小校で大した投手がいなくても、守備の面で水を空けられてしまっては負けるしかない。だからこそ練習しているのだが。
「うーん、捕球が上手く行かないのは何故だろう」
「声を出し難いのと、責任を感じるからでしょう」
「その辺は言わば、俺たちだからということだな」
体を幾ら鍛えても心は文化部なので、大声で『へいへいばっちこーい!』みたいな掛け声を出して、連携するのが恥ずかしいし、かと言っていざ失敗するときまで、精神的なフォーカスをぼかして生きるような、無責任でもいられなかったりする。
俺や東条みたいに、なんやかんや荒事の経験が増えると、まだ何とかなるのだが。
「投手のアテもありませんし、苦しいですね」
「うーむ、野球部から誰か寝返ってくれないかな」
「とりあえず愛同研内で野球経験者を探してみます」
先ず最初にそれをすべきだったな。なんというか全体的に乗り気じゃないから、初動も締りがない。ともあれやったことある奴に、今回だけでも率いて貰えば形として入り易いはず。
「ほんとに野球やってる」
「あれ、先輩じゃない」
「こんちゃーっす!」
などと考えていると三人の女子が、見るからにぷらぷらしながらやって来た。確か一年生の。
「えーと何だっけ、三人とも水辺の苗字だったよな」
「川匂です」
とお辞儀をするのが二つ結びで背が低くややぽちゃの川匂。
「きよしです」
と片手を挙げて嘘吐くのが刈り上げ頭にツリ目の飯泉。
「めしずみです」
と惚けるのがポニーテールにタレ目の清水。違うだろと飯泉に突っ込みを受ける。
そうだ川匂と飯泉と清水だ。
二人合わせて『めしずみ・きよし』だな。よし覚えたぞ。
「なんだお前らも練習しにきたのか」
「いえ私たち愛同研と野球部が勝負するって聞いて」
「本当かなって見に来ただけです」
「何でそんなことになったんすか」
川・清・飯の順で喋る。それも三人組で順番に。俺にも経験があるから分かるが、話すとき信号機みたいになりがちだよな。
そういう息の合い方をするようになってくる。
「あの、サチコさんこちらの方々は」
「紹介するよ、うちの新入部員」
「そうですか。自分は軍事部三年の東条と言います。初めまして」
東条が深々と頭を下げると、三人から黄色いどよめきが起きる。堅苦しいけど悪い奴じゃないしな。愛嬌もあるし。
「でだな、さっきの話しなんだけど、斯く斯く云々ということなんだ」
「え、じゃあ出来レースって奴じゃないすか」
「だから経験者探すってことになってさ」
「え、じゃあこいつそっすよ」
「飯泉がか」
「はんちゃん小学校からずっと野球やってます。ソフトも」
川匂が飯泉を『はんちゃん』と呼ぶ。いっちゃんになるかとちょっと期待したが、そうはならなかった。しかしソフト『も』とは。
「小学校低学年の内は、学校と草野球の両方に入ってました」
「高学になってから泣く泣くソフト行ったんだよな」
「今だってやってる」
飯泉が不機嫌そうに向こうを向く。なるほど、こいつの体が鍛えられてたのは、そういうことか。
思う所があって東条の顔を見ると目が合った。どちらからともなく頷く。考えることは同じらしい。
「それなら飯泉さん、何とか試合と練習手伝ってくれませんか。何分流れを監督できる人間がおらず困ってるんです。このまま野球部に負けて廃部になるくらいなら、せめて格好は付けたい」
「え、いやいやいや、あたしそんな大それたこと無理だし、勝たせらんないですよ」
「勝つも負けるも全体でのことです。そこは気負わなくても大丈夫だから」
「何も負けた責任擦り付ける相手を探してる訳じゃないんだ。頼むよ」
俺と東条は飯泉に、試合と練習への参加を求めた。彼女は振って湧いた話しに戸惑っていたが、不安より興奮が大きいようで、やや舞い上がった様子だった。
「え、でもなあ、どうしよっかなあ」
「いや出てやれよ減るもんじゃなし」
「はんちゃんいきなり出世街道かもよ」
「うーんかわやんがそう言うなら大丈夫かなあ」
「え、今ので?」
かわわはちょっと頭が足りてないようだが、二人の関係が垣間見えた気がする。どうでもいいが『かわわは』って考えるだけでも言い難いな。
「まあちょっとくらいなら」
「ありがとうございます!」
東条が再び頭を下げると飯泉が顔を真っ赤にした。ふふふ、そうだろうそうだろう。人として真っ当かつ丁寧に扱われると、舞い上がっちゃうよな。相手からすると変なことはしてないのにな。
これが当たり前っていう奴は正直頭のどこかがおかしいと思う。いや、これはあくまで社会的な階層で、下に位置するとかそれに等しい国家とか民族とか地域とか人種とかたまたまそういう場所に生まれた奴から見た視点であって、それって世の中の大半じゃねえか俺は正論だ。
そんなことより今は野球の話だ。
「じゃあ早速今から見てもらえませんか。おーい全員集合! 経験者来たぞー!」
呼び寄せられた軍事部と愛同研の総勢九名が集結、飯泉を入れて十名。これで負傷者か病欠一名まで許容範囲となった。
「今から一年飯泉を野球状態における臨時監督として任命する! 復唱!」
「オス! 一年飯泉! 臨時監督拝命します! 宜しくお願いします!」
元気が良いなあ。ていうか野球状態って何だ。
「よし、じゃあ早速全員で順番に配置を入れ替えながら守備位置を決める! 全員位置に着け! それから名前の登録をして、後どユニフォームとチアを手配するぞ!」
「ちょっとどころかもうノリノリじゃないか」
「はんちゃんは期待されるとすごい力が出るんです」
「通常の四倍働いてその内の半分は失敗しますけど」
「それって失敗を差し引いて二倍が残るってことか」
「失敗を引かなければ二倍です」
「引いたらどうなる」
そこで二人は黙った。おい、どうして黙るんだ。
そして何故顔を逸らすんだ。こっちを見ろ。
空を見るな。曇ってきてるだろ。
「野球は皆でするものだってはんちゃんが」
「皆で失敗を補えば大丈夫ですよ」
などと不安を煽るような言い方をして、川匂と清水は去っていった。後ろでは飯泉が声出しの指導を始めている。野球部が二つ存在するかのような煩さで。
「ばっちこーい! もっと大声出せー!」
『ばっちこーい!』
「ばっちこーーーーーーーーーーーい!」
言い知れぬ不安が急速に胸に広がっていく。
早まったかも知れない。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




