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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
二人の卒業編
332/518

・残り香を抱きしめて

今回長いです。

・残り香を抱きしめて



 今日はバイトの最終日。そして海さんの卒業式だ。米神よりも僅かに早く行われるため、俺は朝の出席を取るなり急行した。


 こればっかりはこの日が大事なので、俺のような店の面汚しとて、出ない訳にはいかない。


 学校側から呼び止められたが、持つべき物は学生証と生徒手帳である。うちの学校の職員よりも、人間ができている人ばかりだった。


 日頃お世話になってるバイト先の先輩の卒業式を、一目だけでも見させてくださいと頭を下げたら、非常に温かく迎え入れて頂けた。


 うちの学校より全然いいな。間違いなくこっち通ってたら、俺の成績は二周りくらい、良くなっていたに違いない。きっとそう。絶対そう。


 そして麦仏高校の体育館にて、海さんの卒業式を遠巻きに見て、教室へ戻っていき、ご家族の方々と学校を出るのを見届けてから、俺は東雲へ向かった。


 まだ日は高く、涼やかな春風が、通りを吹き抜けていく。


 店のドアを開ければ、中からは小麦と珈琲の香りが胸に飛び込んでくる。二年間で日常となっていたが、それも終わりか


 しばらく入り口でぼーっとしていると、ラジオの音が聞こえてきた。


 大して面白くも無いFM放送は、これからも続いて行くんだろう。


 チャンネルを選ばせて貰えた日は、知らない音楽が番組に合わせて、一日中かけられたこともあった。


 固定客は終ぞ付かなかったけど、海外の謎に満ちたドリンク類や菓子、調味料はなんだかんだで、買っていく人がそこそこいた。


 珈琲メーカーを初めとした調理機械は、稀に奮発して買っていく人がいた。たぶんタンスの奥にでも移されているだろう。そういう人が買うんだこれが。


 振り返ってみれば、結構思い出あるな。取るに足らないことばっかりだったけど。思い出そうと思えば、それこそ、幾らでも。


「サチコさん」

「ん、ああ海さん」


 声に振り向くと、そこには柔らかな笑顔を浮かべた看板娘の姿があった。


 もう立派な女性だから娘扱いも、何時までしたものやらな。


「どうしたの、店の前で立ち尽くして」

「いや、なんでもない。それより中にいるとばかり」


「明日は締めちゃうからその準備でね。挨拶やお別れもしてたし、お婆ちゃんたちを連れ回す訳にはいかないから、皆には先に戻ってもらってたの」


 海さんちは節目を家族で過ごす。

 後日皆で旅行に行くのかも知れない。


「中、入ろう」

「ええ。あ、それと海さん」

「なあに」


「今日も宜しくお願いします」


 お辞儀をすると、彼女も畏まったような仕草で頭を下げる。すっかり女性って感じだ。


『よろしくお願いします』と微笑む貴女の顔は、二年前と同じようで、別人のようでもあって。日焼けしたような褐色の肌は、今も変わらないのに。


「いきましょ」


 二人して店に入り、制服から着替えてエプロンという制服を着直す。


 店内の床を軽く掃いて、テーブルを吹く。それからカウンター正面のケースを開けて、焼きたてのパンが乗ったトレーを入れる。


「今日は卒業式だし、お客さんは少ないんじゃないですかね」


「そうね、けど誰もが皆、一人じゃないとは限らないから」


 意味深なことを言いながら、海さんは少し伸ばした髪をピンで留める。


 前はボーイッシュに短く刈り込んでいたけど、少しずつ女性っぽさを整えて、今に至る。


「仲の良い誰かと、二人で一人、三人で一人、そういう人たちはまとめてやってくるから。家に帰ってから街に帰ってくる子たちもいるの」


「街に帰る」


「そこに居場所があるならね。『行って来ます』も『ただいま』も言えるのよ。サチコさん」


「なんとなく分かる」


 俺にとっての居場所は、異世界と家と部室、そして東雲。だった。


「アガタもここに馴染めばいいんですけどね」


「引継ぎは上手く出来てるし、お店の手伝いもやってたから、飲み込みも早くて助かってるよ」


「良いご縁ってのになれたら、俺も安心なんですが」


 レジの中を見て少なくなっている小銭を補充。次にクーラーボックスを店先に出して中に水と氷、ペットボトルに詰めた珈琲を入れる。今まで一度も盗まれたことがないのが、密かな自慢だ。


 次に会社勤めの人が受け取っていく、珈琲用の水筒の煮沸が終わっているので、マスターがそれに中身を注ぐ。俺はそれに名札を貼り、受け取りが出来るよう準備をする。


 海さんは奥さんの作ったお惣菜のパンを受け取ってくる。こうなると店内にはもう、食欲の湧く匂いが充満してしまう。俺は最後まで慣れなかったが、店の人は『これがいつものことだから』と平気らしい。


「あの子はいい子よ。きっと大丈夫」

「そっか。そうだな」


 本心では不安が残ってるけどここは遭えて流そう。折角の卒業記念日だ。濁してはいけない。


「それよりサチコさん。卒業式、来てくれたでしょ」

「気付いてたんですか」


「あなた目立つもの。何時声をかけてくれるのか待ってたんだけど」


「すんません。水を差したらいけないと思って」

「そんなことない。私言って欲しかったよ」


 機嫌を損ねたように声の調子を落す彼女だったが、責めているのではなく、心配してくれてるみたいだ。彼女はあまり感情を荒立てることはしないが、その分相手に気を遣っていることが、良く分かる。


「やっぱりあのこと」

「駄目だぞそれは。引き摺るな」


 海さんが口にしかけたことを止める。俺の雇い止めは済んだ話だし、納得してる。この店に未練はある。でも店の決定に、不満はない。


「不安になるなら何回でも言うけど、マスターたちは正しい選択をしたんだ」


「でもね、私はまだサチコさんにいて欲しかったし、いさせても良いって思ってたのに、自分の身の安全のために、うちを居場所にしてくれてる人を追い出したことに、変わりはないの」


 そうか、この人たちからしたら、どんな理由にせよ自分たちの掲げた理念に、自分から背を向けたことになるのか。


 今更ながら自分の落ち度の振れ幅にうんざりする。


「それの何が悪い。あんたは大切にされてるんだよ。俺はそれが嬉しかった。それに、自分たちの保身とか言ったって、そのために俺も自分たちも、甘やかさなかった。立派じゃないか」


 そして彼らは理念を言い訳にして、俺を引き留めるような無責任なことはしなかった。まだ被害は出ていないからと、無答責に走ることを由としなかった。


「誰も不幸になってない。だから、これでいいんだ。それにな、本当のことを言うとさ、俺もこの店には随分甘えてて、いつ辞めようか、いつここを出ようかって考えてはいたんだ。いつかはそうしないといけないけど、それを何時まで経っても、決められなかった」


 自分でけじめもつけられないんだから、渡りに船、だったのかも知れない。


「俺の身の振り方が、止めになったのは確かだけど、見ようによっちゃ丁度良かったんだ。それをずっと負い目にさせたんなら、俺のほうこそ海さんに謝らないといけない。ごめんなさい」


 頭を下げようとすると、目の前に手を差し出され、お辞儀を止められた。


 彼女は不機嫌そうな、けれどどこか心配そうな目つきで、こちらの顔を覗き込んでいた。


「そういうの。ずるいと思うわ。ずるいと思う。普通はね、そこまで優しくされると、却って居心地が悪いものなの。サチコさん、あなたが少しくらい、うちを恨んでくれたほうが、私は気が楽なの」


「ヤダよそんなの絶対」


 俺が頭下げるのは当然だし、何度下げても構わないけど、自分の責任そっち退けで、相手がちゃんとした対応したのを、怨みに思えっていうなら、それは逆恨みだ。


 この人に向かってそんなことはできない。

 断固としてできない。


「俺がここまで暮らしてこれたのは、ここで働かせてもらえたからだ。それなのに、ここを危険に晒した。そこは変わらない。それにな海さん、もう自分を責めてる場合じゃないぞ」


 話を振られると彼女は「えっ」という声を上げて、頭上に疑問符を浮かべた。


「俺はこうだけど、世の中自分が悪いって、ちゃんと分かって責任を負える奴は少ない。他人のせいにして逃げようとするのもいる。あんたが店を継いで、また人を雇うとき、悪ふざけするようなクズを引いたら、店を畳まないとも限らないんだぞ」


 少なくとも腕力で勝るようになってから、俺のことをいじめていた人間で、自発的に謝罪にやって来た奴は一人もいない。


「それでなくても仕事や人間関係の都合で、人を辞めさせることもあるだろう。そのときすんなり話が進むなんてことは期待できない。いいか、海さん。『そのとき』はあんたの番に回ってくるかもしれないんだ。俺なんかのことで、今からそんなに気落ちして、どうするんだよ」


「でも私、サチコさんのこと。結構好きだったから。私が不良にお金取られてたときも、皆で肝試しに行ったときも、いつも身を挺してくれたじゃない。段々と喋るようになって、笑うようになって、なのに」


 言い聞かせようと思ったが、却って海さんは、辛くなってしまったみたいで、今にも泣きそうだった。


 やりようが無くなって、頭を撫でるくらいしかできなくて。俯いたまましばらくすると、彼女は小さく鼻を啜って、目元を拭った。


 俺が百点を取れないと、こういうことが起きる。

 こともあるんだな。


「お互い中々完璧にはできないよ。だからこういうこともある。海さんはもう大学生なんだからさ、部下とか後輩に落ち度があったら、ちゃんとお前が悪いって言えるようにならないと、駄目だぞ」


「うん」

「いい子だ」


 軽く肩を叩く。少し抱き寄せて、背中を擦る。

 気が付けば、立派な人になったな。

 俺よりもずっと、良い女性だった。


 この人が一緒に働いてくれて、どれほど日常が得られただろう。


 しばらくして客がぽつぽつと入り始めた。俺たちはそれまでの空気を棚上げして、仕事に精を出した。


 ドアが開閉する度になる鈴の音、風に揺れる軒先の飾りの音、人の話し声、調理の音、古びたレジのうるささ。これから先も息づいている生活の鼓動が、今日からまた動き出す


 それもやがて静けさを増していき、今日を終えるときが来た。店の中を片付けて、最後の挨拶をすると、無人の空間に、二人だけが残った。


「海さん」

「なに、サチコさん」

「さっき俺に『言って欲しかった』って言ってたろ」


 すっかり気持ちは落ち着いていて、色気も感動もあまりない。だからこそ、ちゃんと言える。


「うん……」


 レジの中にいる海さんは少し疲れた様子だったが、俺の目をじっと見つめていた。


「卒業おめでとう、海さん」


「ありがとう。サチコさん、本当に、本当に今までありがとう……さようなら」


 俺は店の中の物を二、三見繕って買うと、卒業祝いと称して、彼女に押し付けた。


 特に何も言われず、拒まれず、最後にエプロンを返して背を向ける。


「こちらこそ、お疲れ様でした」


 ドアを開けば、街の匂いが漂ってきた。店の外へ出ると辺りは暗く、空には星が瞬いていた。


 服に染みついた『東雲』の匂い、その嗅ぎ慣れた小麦と珈琲の匂いも、次第に春風に洗い流されていく。家に着く頃には最早、夜風の匂いのほうが強かった。


 失う前から大事なものだと、分かっていたつもりなのに。どうしても失ってしまうものだったと、そんな気がしてならない。


「さよなら、海さん」


 不意に出たその言葉は、俺が今はもう、あのお店の一員でなくなった、証拠だった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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