・残り香を抱きしめて
今回長いです。
・残り香を抱きしめて
今日はバイトの最終日。そして海さんの卒業式だ。米神よりも僅かに早く行われるため、俺は朝の出席を取るなり急行した。
こればっかりはこの日が大事なので、俺のような店の面汚しとて、出ない訳にはいかない。
学校側から呼び止められたが、持つべき物は学生証と生徒手帳である。うちの学校の職員よりも、人間ができている人ばかりだった。
日頃お世話になってるバイト先の先輩の卒業式を、一目だけでも見させてくださいと頭を下げたら、非常に温かく迎え入れて頂けた。
うちの学校より全然いいな。間違いなくこっち通ってたら、俺の成績は二周りくらい、良くなっていたに違いない。きっとそう。絶対そう。
そして麦仏高校の体育館にて、海さんの卒業式を遠巻きに見て、教室へ戻っていき、ご家族の方々と学校を出るのを見届けてから、俺は東雲へ向かった。
まだ日は高く、涼やかな春風が、通りを吹き抜けていく。
店のドアを開ければ、中からは小麦と珈琲の香りが胸に飛び込んでくる。二年間で日常となっていたが、それも終わりか
しばらく入り口でぼーっとしていると、ラジオの音が聞こえてきた。
大して面白くも無いFM放送は、これからも続いて行くんだろう。
チャンネルを選ばせて貰えた日は、知らない音楽が番組に合わせて、一日中かけられたこともあった。
固定客は終ぞ付かなかったけど、海外の謎に満ちたドリンク類や菓子、調味料はなんだかんだで、買っていく人がそこそこいた。
珈琲メーカーを初めとした調理機械は、稀に奮発して買っていく人がいた。たぶんタンスの奥にでも移されているだろう。そういう人が買うんだこれが。
振り返ってみれば、結構思い出あるな。取るに足らないことばっかりだったけど。思い出そうと思えば、それこそ、幾らでも。
「サチコさん」
「ん、ああ海さん」
声に振り向くと、そこには柔らかな笑顔を浮かべた看板娘の姿があった。
もう立派な女性だから娘扱いも、何時までしたものやらな。
「どうしたの、店の前で立ち尽くして」
「いや、なんでもない。それより中にいるとばかり」
「明日は締めちゃうからその準備でね。挨拶やお別れもしてたし、お婆ちゃんたちを連れ回す訳にはいかないから、皆には先に戻ってもらってたの」
海さんちは節目を家族で過ごす。
後日皆で旅行に行くのかも知れない。
「中、入ろう」
「ええ。あ、それと海さん」
「なあに」
「今日も宜しくお願いします」
お辞儀をすると、彼女も畏まったような仕草で頭を下げる。すっかり女性って感じだ。
『よろしくお願いします』と微笑む貴女の顔は、二年前と同じようで、別人のようでもあって。日焼けしたような褐色の肌は、今も変わらないのに。
「いきましょ」
二人して店に入り、制服から着替えてエプロンという制服を着直す。
店内の床を軽く掃いて、テーブルを吹く。それからカウンター正面のケースを開けて、焼きたてのパンが乗ったトレーを入れる。
「今日は卒業式だし、お客さんは少ないんじゃないですかね」
「そうね、けど誰もが皆、一人じゃないとは限らないから」
意味深なことを言いながら、海さんは少し伸ばした髪をピンで留める。
前はボーイッシュに短く刈り込んでいたけど、少しずつ女性っぽさを整えて、今に至る。
「仲の良い誰かと、二人で一人、三人で一人、そういう人たちはまとめてやってくるから。家に帰ってから街に帰ってくる子たちもいるの」
「街に帰る」
「そこに居場所があるならね。『行って来ます』も『ただいま』も言えるのよ。サチコさん」
「なんとなく分かる」
俺にとっての居場所は、異世界と家と部室、そして東雲。だった。
「アガタもここに馴染めばいいんですけどね」
「引継ぎは上手く出来てるし、お店の手伝いもやってたから、飲み込みも早くて助かってるよ」
「良いご縁ってのになれたら、俺も安心なんですが」
レジの中を見て少なくなっている小銭を補充。次にクーラーボックスを店先に出して中に水と氷、ペットボトルに詰めた珈琲を入れる。今まで一度も盗まれたことがないのが、密かな自慢だ。
次に会社勤めの人が受け取っていく、珈琲用の水筒の煮沸が終わっているので、マスターがそれに中身を注ぐ。俺はそれに名札を貼り、受け取りが出来るよう準備をする。
海さんは奥さんの作ったお惣菜のパンを受け取ってくる。こうなると店内にはもう、食欲の湧く匂いが充満してしまう。俺は最後まで慣れなかったが、店の人は『これがいつものことだから』と平気らしい。
「あの子はいい子よ。きっと大丈夫」
「そっか。そうだな」
本心では不安が残ってるけどここは遭えて流そう。折角の卒業記念日だ。濁してはいけない。
「それよりサチコさん。卒業式、来てくれたでしょ」
「気付いてたんですか」
「あなた目立つもの。何時声をかけてくれるのか待ってたんだけど」
「すんません。水を差したらいけないと思って」
「そんなことない。私言って欲しかったよ」
機嫌を損ねたように声の調子を落す彼女だったが、責めているのではなく、心配してくれてるみたいだ。彼女はあまり感情を荒立てることはしないが、その分相手に気を遣っていることが、良く分かる。
「やっぱりあのこと」
「駄目だぞそれは。引き摺るな」
海さんが口にしかけたことを止める。俺の雇い止めは済んだ話だし、納得してる。この店に未練はある。でも店の決定に、不満はない。
「不安になるなら何回でも言うけど、マスターたちは正しい選択をしたんだ」
「でもね、私はまだサチコさんにいて欲しかったし、いさせても良いって思ってたのに、自分の身の安全のために、うちを居場所にしてくれてる人を追い出したことに、変わりはないの」
そうか、この人たちからしたら、どんな理由にせよ自分たちの掲げた理念に、自分から背を向けたことになるのか。
今更ながら自分の落ち度の振れ幅にうんざりする。
「それの何が悪い。あんたは大切にされてるんだよ。俺はそれが嬉しかった。それに、自分たちの保身とか言ったって、そのために俺も自分たちも、甘やかさなかった。立派じゃないか」
そして彼らは理念を言い訳にして、俺を引き留めるような無責任なことはしなかった。まだ被害は出ていないからと、無答責に走ることを由としなかった。
「誰も不幸になってない。だから、これでいいんだ。それにな、本当のことを言うとさ、俺もこの店には随分甘えてて、いつ辞めようか、いつここを出ようかって考えてはいたんだ。いつかはそうしないといけないけど、それを何時まで経っても、決められなかった」
自分でけじめもつけられないんだから、渡りに船、だったのかも知れない。
「俺の身の振り方が、止めになったのは確かだけど、見ようによっちゃ丁度良かったんだ。それをずっと負い目にさせたんなら、俺のほうこそ海さんに謝らないといけない。ごめんなさい」
頭を下げようとすると、目の前に手を差し出され、お辞儀を止められた。
彼女は不機嫌そうな、けれどどこか心配そうな目つきで、こちらの顔を覗き込んでいた。
「そういうの。ずるいと思うわ。ずるいと思う。普通はね、そこまで優しくされると、却って居心地が悪いものなの。サチコさん、あなたが少しくらい、うちを恨んでくれたほうが、私は気が楽なの」
「ヤダよそんなの絶対」
俺が頭下げるのは当然だし、何度下げても構わないけど、自分の責任そっち退けで、相手がちゃんとした対応したのを、怨みに思えっていうなら、それは逆恨みだ。
この人に向かってそんなことはできない。
断固としてできない。
「俺がここまで暮らしてこれたのは、ここで働かせてもらえたからだ。それなのに、ここを危険に晒した。そこは変わらない。それにな海さん、もう自分を責めてる場合じゃないぞ」
話を振られると彼女は「えっ」という声を上げて、頭上に疑問符を浮かべた。
「俺はこうだけど、世の中自分が悪いって、ちゃんと分かって責任を負える奴は少ない。他人のせいにして逃げようとするのもいる。あんたが店を継いで、また人を雇うとき、悪ふざけするようなクズを引いたら、店を畳まないとも限らないんだぞ」
少なくとも腕力で勝るようになってから、俺のことをいじめていた人間で、自発的に謝罪にやって来た奴は一人もいない。
「それでなくても仕事や人間関係の都合で、人を辞めさせることもあるだろう。そのときすんなり話が進むなんてことは期待できない。いいか、海さん。『そのとき』はあんたの番に回ってくるかもしれないんだ。俺なんかのことで、今からそんなに気落ちして、どうするんだよ」
「でも私、サチコさんのこと。結構好きだったから。私が不良にお金取られてたときも、皆で肝試しに行ったときも、いつも身を挺してくれたじゃない。段々と喋るようになって、笑うようになって、なのに」
言い聞かせようと思ったが、却って海さんは、辛くなってしまったみたいで、今にも泣きそうだった。
やりようが無くなって、頭を撫でるくらいしかできなくて。俯いたまましばらくすると、彼女は小さく鼻を啜って、目元を拭った。
俺が百点を取れないと、こういうことが起きる。
こともあるんだな。
「お互い中々完璧にはできないよ。だからこういうこともある。海さんはもう大学生なんだからさ、部下とか後輩に落ち度があったら、ちゃんとお前が悪いって言えるようにならないと、駄目だぞ」
「うん」
「いい子だ」
軽く肩を叩く。少し抱き寄せて、背中を擦る。
気が付けば、立派な人になったな。
俺よりもずっと、良い女性だった。
この人が一緒に働いてくれて、どれほど日常が得られただろう。
しばらくして客がぽつぽつと入り始めた。俺たちはそれまでの空気を棚上げして、仕事に精を出した。
ドアが開閉する度になる鈴の音、風に揺れる軒先の飾りの音、人の話し声、調理の音、古びたレジのうるささ。これから先も息づいている生活の鼓動が、今日からまた動き出す
それもやがて静けさを増していき、今日を終えるときが来た。店の中を片付けて、最後の挨拶をすると、無人の空間に、二人だけが残った。
「海さん」
「なに、サチコさん」
「さっき俺に『言って欲しかった』って言ってたろ」
すっかり気持ちは落ち着いていて、色気も感動もあまりない。だからこそ、ちゃんと言える。
「うん……」
レジの中にいる海さんは少し疲れた様子だったが、俺の目をじっと見つめていた。
「卒業おめでとう、海さん」
「ありがとう。サチコさん、本当に、本当に今までありがとう……さようなら」
俺は店の中の物を二、三見繕って買うと、卒業祝いと称して、彼女に押し付けた。
特に何も言われず、拒まれず、最後にエプロンを返して背を向ける。
「こちらこそ、お疲れ様でした」
ドアを開けば、街の匂いが漂ってきた。店の外へ出ると辺りは暗く、空には星が瞬いていた。
服に染みついた『東雲』の匂い、その嗅ぎ慣れた小麦と珈琲の匂いも、次第に春風に洗い流されていく。家に着く頃には最早、夜風の匂いのほうが強かった。
失う前から大事なものだと、分かっていたつもりなのに。どうしても失ってしまうものだったと、そんな気がしてならない。
「さよなら、海さん」
不意に出たその言葉は、俺が今はもう、あのお店の一員でなくなった、証拠だった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




