・力は力でも忍耐力
今回長いです。
・力は力でも忍耐力
思い過ごしだったらいいなあと思った、アガタの地雷を見事に踏み抜いた俺は、立ち去ろうとするアガタを物理的に引き止めたことにより、それはもう噛みつかれていた。
「本当に怒りますよ!」
「もう怒ってるだろうが!」
なまじ毛根が丈夫だから、力一杯引っ張られても、髪の毛が抜けてくれない。しかし俺には分かる。アガタはこれでも、手加減してくれている。
こいつはいつも小さな画材や、文房具とかを携帯している。その気になれば本当に刺すのだ。現にそれで先月は、先輩の危うい所を救っている。
「落ち着け、いいから落ち着け」
「先輩痛くないんですか!」
「だから離せよ馬鹿!」
命令なんかしても、アガタは言うことを聞かない。でも頼みこむような筋合いじゃない。だってこれは、こいつの気持ちの問題なんだから。
本来なら順序的に考えて、俺のほうからアプローチをかけるのが、おかしいんだ。
俺は立場上、今正に、後輩の悶々とした悩みに巻き込まれようとしているだけだ。それを阻止しようとしているだけだ。頭を下げる文脈が存在しない、というかしたくない。
宥め透かすために相手の無礼に対して、物腰丁寧に接するという手段は分かる。分かるがこうして痛い目に遭わされている最中に、淑女的な対応はする気にならない!
「言うことを聞いたら離す!」
「絶対に嫌です!」
それからアガタと俺は意地を張り合った。アガタは後頭部の、引っ張られると一番痛い場所の髪を掴み直すと、全力で引っ張って来た。
俺は俺でこいつを抱き締める腕に、力を込めて頭を腹にめり込ませる。
傍で見たら我慢比べのような有様だったんじゃないかな。とはいえそれなら、俺のほうが遥かに有利だ。
結構危ない攻撃で、本当に辛く思えるくらいには痛いが、それでもアガタは体力で劣るし、何よりも俺は攻撃してない。
根比べは、より安全な所にいるほうが負けるのだ。
「くそ、しつこい」
ずっと髪を引いていて疲れたのか、アガタは途中で休憩を挟むようになり、息を整えては再開という流れを繰り返すようになった。
その頻度は徐々に増え、引っ張る時間は短くなっていく。
俺は辛抱して、アガタの細い体を、折らんばかりに抱いた。さっき食べたばかりの昼食が、めり込んだ頭によって圧迫されて、彼女の腹からせり上がり、頭上に逆流するのではという恐怖が、脳裏を過ぎる。
それはそれで怖いが後には引けない。
何しろアガタは武器を使っていない。
それはつまり、俺という存在が彼女にとって、敵という認識に分類されていないことを意味する、はず。そう信じて食らい付くしかない。
あとは勢いで縺れ込んだ、この我慢比べを制することが出来れば、勝ち負けのムードで言うことを聞かせられるかも知れない。
何たって俺たち人間はマイルールとかいう雰囲気に弱いのだ。全然論理的じゃないな。
「くのおおお!」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
相手側からは俺の頭しか見えないだろうが、感じているはずだ。俺の額から浮き上がる汗を。
恐らくアガタのお腹をじっとり濡らしているに違いない。ちなみに髪を引かれる痛みで、涙と鼻水が止め処ないことになっており、とても人に見せられる状態ではない。
「お前何かあると、そうやって、怒ればいいと、思ってるだろ!」
「ちっうざ」
さては自覚ありやがったなチクショウ。
「俺のこと気が小さいって言ってたけど、お前のほうがよっぽど小心だろうが。お前が怒るのって、本当は見せかけなんじゃないのか」
「……っ」
アガタが息を飲むのを感じた。
あまり珍しくもないが、そうかお前もか。
人間の性格っていうのは単純なもんで、同じことを繰り返してると、その内自分にそれを要求するようになる。
短気な人間は自分の怒りに酔うし、怒ることそのものを自身に要求するようになる。怒りたいから怒るようになる。
或いは嘘ばっかり吐いてる奴が、嘘を吐くことが常態化して止められなくなるように。
何度も気分を害してくる人間を嫌いになると、そいつを見ただけで、無条件に気分が悪くなるように。
ただその単純な性格一つの型に、ハマるばかりじゃないのも人間だ。死ぬほど薄っぺらで中身が空っぽな奴が掃いて捨てるほどいる一方で、そうでない奴も大勢いる。
アガタの本性が単なる怒りたがりってだけじゃないのなら、残りの部分は何だ。なんだかんだで、結構見てきたはずじゃないのか。
「怒るなアガタ。保健室の枕を涎で塗らしたり、人の家の猫に頬ずりしたり、学際の展示物で大それた絵を描いたり、部室で一緒に飯食ったり、怒らずに過ごせた日なんか沢山あっただろ。よく考えろって。これは怒るところじゃないだろ。俺に怒ったり恥ずかしがったりすることじゃ、ないんだ。分かるだろ」
「分かりません」
「嘘を吐くなよ」
部室の中に、壁に掛けられた時計の音だけが聞こえるようになった。アガタは何も言い返してこない。
ただ俺の髪を掴む手に強い力が込められながらも、これ以上引っ張れることはなかった。
時間にすれば恐らく、三十分くらいしか経ってないだろう。でももう二時間くらいは、こうしてたような気がする。向こうが自分から動き出すまで、何も言わずに待つ。
何となく、これはアガタの最後の賭けなんじゃないかって思う。俺が余計なことを言ったり、こちら側から沈黙を破ることで『いやだ』と言う機会を、待っているのだ。
だから待つ。こいつが自分のことに自分から、正しい方向へ歩いて行くのを、待たなければならない。
何故だかそんな気がする。
頼む。今だけは誰も来ないでくれ。
二人にしておいてくれ。
「……もう止めてください」
頭の上に髪の毛ごと何かが置かれた。たぶんアガタの手だろう。ぎゅっと押し付けられると、微かな震えが伝わってくる。
「止めたら逃げるだろ。そうなったらお前は、この先ずっと口を利かなくなる」
「そんなことありませんから」
「このままでいい。このまま全部話そう。終わったら俺も離れる」
「サチコ先輩」
「これが最後になるならやることやってから終わる」
しばらくしてアガタの手が動いた。脳天に軽い衝撃が走る。どうも髪を掴んだ手を、もじもじさせるような感じで、俺の頭をぽかぽかと殴っている。止めろ。
「何から話せばいいんですか」
「お前が気持ちを整理できるなら何でもいいよ」
頭上で舌打ちする音がしたかと思うと、頭を叩く力がちょっと強くなる。だから止めろ。
「先輩から振ってください」
「え、なんで?」
「そのほうが喋り易いと思うから」
何それ。お前この期に及んで、メンタル弱いんじゃないの。変なところで繊細なのって、あんまり評価できないよ。
これが南や先輩相手だったら、容赦無くそう言っただろうが、この状況では言えない。
「そうだな、お前って何でそんな怒り易いの、あで」
玩具に夢中の四才児みたいな行動を止めろ。懐いてない小動物が腹を触られるのと、同じくらいには頭を叩かれるのが、好きではないんだ俺は。
「えっとたぶん、お母さんのせいです。うちってあの人が一番偉いっていうか、声が大きくて。何かあると直ぐ怒るんです。話合いなんて出来なくて、怒鳴り合うのが、一番自分の意見を通せるから、いつ頃からだろう。でも、あの人を怒鳴ったのが、最初だった覚えがあります」
身内と合わないのは何処にでもある問題だな。女の場合同性で反発すると、人一倍仲が悪くなる。身内なら更にだ。親子としても同性としても反発する。
しかもアガタの母親は、アガタから親父さんの成分が抜けてる。
客への愛想は良いが、娘にはそうでもないってことだろう。親の自分に対する反応や価値観が、仕事の二の次だと、子どもは心底傷付く。裏切られると言ってもいい。
虐待には入らないが、単純に減点対象になる行為である。
「それで怒鳴るとお母さんにも負けないし、他のからかってくる人たちも、割りと絡んで来なくなったし、あんまりしつこいようなら、手を出せばいいと分かってからは、怒り易くなっていったように思えます」
アガタの短気は彼女なりの自己防衛から来ていたんだな。それが次第に処世術になり、味を占めて依存症のようになっていたのか。気持ちに酔うってのは本当のことだな。
「そうか。じゃあ次の話なんだが」
「あの」
「なんだ」
「あんまり怒るなとか、言わないんですか」
「親の性格は変わらないし、お前ももう条件反射みたいになってるだろ」
「それはまあ、そうですね」
「お前の性格を矯正する理由が俺にはないから、この話はここで終わりだぞ」
「え、じゃあどうして聞いたんですか」
「お前が無茶振りしたからだろ。本題に入るぞ」
「あっはい」
アガタは返事をすると、拳から力が抜けて行くのが分かった。こいつは肝心なときに、主導権を相手に渡すな。
まあ自分の精神的な悩みに直面して、主張ができるような奴なら、こうはなっていないし、こんな状態で悩みにすっぱり答えを出せる奴も、そうはいないだろうが。
「で、やっぱり先月の件で、親父さんを置き去りにしたこと、気に病んでるのか」
「はい、お父さんのことを心配してたのに、それなのに戦うほうが楽しくなってしまって。自分でも頭の中では分かってて、放っておいたんです」
熱狂していたというか熱中していたというか。
こいつは風祭先輩に似た部分があるな。
血気が盛んに過ぎるんだ。案外、皆のために怒れるというのが、嬉しかったのかも知れない。
「順番に整理してみるか。先ず、親父さんに対して、罪悪感はあるんだな」
「はい、後になって。自分が恥ずかしくて、申し訳なくなりました」
「でも俺たちと乗り込んだのは嫌じゃなかったろ」
「はい。自分が正しく怒れてるの、あんまりなくて」
「あれはな、俺が采配をしくじったんだ。目上の俺と風祭先輩が前に出て、お前らに避難を任せれば、それで済んだ話だったんだ。俺のあやでお前を傷つけた。すまん」
自治会館に乗り込んだとき、アガタと信頼関係にある栄と組ませて、行動させれば良かった。結果論だが反省点からは、そう言わざるを得ない。
「それは違います」
はっきりとした声が聞こえた。
顔を上げたくなるが、堪えてその声に耳を傾ける。
アガタは言った。
「私も最初はそう考えました。そもそもこれは先輩が悪いんじゃないかって」
「え」
「でも現実は違うし、第一私はあのときお父さんを助けに行ったんです。それを忘れたのは、誰のせいでもありません。お父さんのほうへ行きますと言えなかったのが私なら、敵を任されて嬉しかったのも、私なんです」
一瞬焦ったものの、アガタはきちんと、自分のことをまとめつつあるようだ。
「だから、自分が悪いのも分かるんですけど、それを認めたくなかったんだと、だから上手く言えませんけど先輩を、使おうとしたんです。言い訳っていうか、誤魔化せないかって、きっと」
仕方なかったと言いたいが、実際には他にやりようがあった。落ち度と責任が有って、それでも結果は出せた。だからこそ誤魔化せない。
俺のせいにしたいってのは、本当のことだったんだろう。しかし俺のミスを責めても、当時のアガタ本人の意思は残る。そこまで強制してないからな。
「そうか、そのことは親父さんには」
耳に触れているアガタの髪が揺れる。
首を横に振ったらしい。
「じゃあ、話は簡単だ。アガタ」
「なんですか」
「あの日俺たちと一緒に、戦ってくれてありがとう、助かったよ。本当に」
内情はどうあれ、彼女が俺たちと共に戦ってくれたことに礼を言う。何故って俺には彼女の行動を、否定する理由が無い。感謝と肯定をするだけだ。
例えそれが、正しくなかったとしても。
「お前は俺たちのほうを優先してくれた。だから俺からは、そう言わせてもらう」
「でも、それでもお父さんのことは……」
「そうだな。代わりに親父さんを蔑ろにしてしまったことは変わらん。だから」
一呼吸置いてから、俺はアガタを解放した。彼女は掴んでいた髪の毛を手放すと、くしゃくしゃになったであろう部分を、撫でるようにして、少しだけ戻してくれた。次の言葉を待っているのか、逃げもせず佇んでいる。
「だから後は親父さんに謝っちまえよ。もうそれだけだぜ」
伏せていた自分の顔を持ち上げれば、そこには今にも泣き出しそうな女の姿があった。
まったく、本当に手のかかる奴だな。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




