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三月も近付き、小鳥のさえずりも増えてきた、今日この頃。
俺は喫茶店『東雲』にて仕事に励んでいた。温かい店内には焼きたてのパンと、挽きたての珈琲の香りが満ちている。
ここを第二の行動拠点としている客は多い。店の決まりで長時間に渡り、居座る客には追加注文をお願いするのだが、ほとんどの客はお代わりをして、少しすると帰る。所謂一つの上客である。
一時期は殺人犯が通っていた店という、不名誉な噂が立ったものの、それが新しい客を招くことになり、結果として悪くない方へ転がった。
「お会計が全部で864円になりまーす。ありがとうございましたー」
レジ打ちも慣れたものだよ。中学が終わった頃は、こうやって働くのなんて考えてもいなかったの。人間は良縁に恵まれると、性格が丸くなるということか。
普段はこういう小洒落た店に来ない人間でも、一度落ち着いてしまえば、店が持つ人間的というか文化的な空気に中てられて、一時的にまともになる。
それが段々と薬物依存のように繰り返され止そう。何故他人の更正ないしは厚生を、そんなふうに言う必要があるのか。
『店に通っている内に、お客の人間性がちゃんとしてくる』で良いじゃないか。などと考えていると、店のドアが開いて、カランコロンと音がする。
「いらっしゃいませー。お、アガタ」
「サチコ先輩、こんにちわ」
レジの前にやって来たのはアガタだ。米神高校もうじき二年生。愛同研と美術部を兼部する、攻撃的アーティスト。
切れ長のツリ目と睫毛、華奢でスラッとした肢体、長い艶やかな黒髪が、特徴の美少女である。
女子高校生を少女の範疇に含められない奴は、一旦二次元から離れような。
「今日は一人か」
「はい、季節のジュースを大きいのをホットで、あとこれ」
「クロワッサンの杏子と黄粉な。800円です」
アガタから代金を受け取り、厨房に注文を伝える。季節のジュースは期間限定の商品だ。
紅茶をベースに季節の果物を、摩り下ろして加えた物で、非常に飲み易い。
冬は柑橘類とリンゴが多く使われるが、個人的には夏のほうが好きだ。
夏はライチが使われるので、独特の甘く涼やかな匂いが、鼻を抜けていく清涼感がある。
俺はチャイティーの次に、これを気に入っているのだが、注文する度に珈琲を飲むよう、海さんからチクリと言われるのが珠に瑕。
杏子クロワッサンは、パンの中身に杏子ジャムと寒天が入っている。
黄粉クロワッサンはパンの中身に、黄粉の葛餅と梅蜜が入っている。
どちらも歯にはあまり良ろしくないので、食後は口を漱ぐことをお勧めしている。
「最近よく来るわね、あの子」
「ええ、でも周りと疎遠って訳じゃないですよ」
店の奥から話しかけてきたのは、この店の一人娘であり看板娘である海さんだ。小麦色の肌に短くまとめた髪、少し高めの身長、背が伸びてたんだな。この春から大学生になる子だ。
「そうなの。思い詰めるとか悩み事じゃなくて」
「あいつは創作で筆が止まると、ああするんです」
アガタは愛同研に入って、被写体や絵の題材が増えたこと、睡眠時間や癒しが増えたことから、メキメキと頭角を現すようになった。
他の部員たちの影響もあってか、手を出すジャンルと壁にぶち当たる回数も増えた。それを乗り越えてまた悩む、急速に成長していて、本人的にも今が一番楽しい時期だろう。
「大したもんでね、好き嫌いが殆ど無い。描くと分かれば見境無く吸収していきます。それでいて趣味一筋に見えて、優しい面がある。この前も俺が石を砕いて作った絵の具を上げたら、喜んでくれて」
「そ、そう」
何故か海さんが引いている。岩絵の具は今では高価だからな。俺が手作りしたことを、ちょっとはしたないと、思われたのかも知れない。
再現性を辿れば、誰でも科学的に作れるとはいえ、ちゃんとした業者が作るのと、一貧乏人のDIYが同列視されないのが、ブランドというものである。
むしろ俺が作ったせいで、ブランドが毀損される恐れさえある。善悪とか功罪の問題ではない。
じゃあ何かって聞かれると、出来栄えとか好き嫌いに行き着く。
考えても見て欲しい。例えば一流のデザイナーが心血注いで作ったブランド品と、全く同質の物を異世界転生ものの主人公が、能力でポンと出したとする。
手間賃を抜きにして、物質的には同じなんだから、同じ値段を付けてよいとしても、同じ値段で買いたいと思うか。
俺は嫌だ。後者に対してはイラストレーターにタダで作品を貰おうとするネット上の怪生物みたいな対応をしてもいいとさえ思ってしまう。
他者の努力や成果を、極めて安価に再現できる力や環境があったとしても、何事も直ちにそのようにして良いとは、限らないのである。
そういえばこの世界だと小説家になろうが消滅してるんだよな。懐かしいなあ。
「先月のことから随分と懐かれるようになりまして」
「ああ、聞いたわ。大変だったんですってね。新聞に出てた」
「いやお恥ずかしい」
海さんが言っているのは、先月の不良たちとの乱闘のことだろう。近くの学校で起きた、大規模な不祥事だからな。
新聞読まなくても、事件自体は地元には知れ渡っている。
「アレでアガタの親父さんを助けた後ですかね、見る目が変わったっていうか」
「そう……それでね、サチコさん。後で話があるからお店を閉めたら、待っててくれる」
「あ、はい。分かりました」
何だろう。ここ最近は店に迷惑はかけてないはずだけど。アレかな。売れ残りのパンを貰って帰るのが、駄目ってことになったんだろうか。それとも海さんが大学生になるから、シフトの変更とかかな。
有り得るな。授業の選択やサークル活動次第では、海さんが早めに店に出たり、或いはもう店には出ない可能性だってあるんだ。
一人暮らしをしてみるかも知れないし。
もしや実は付き合ってる男がいて、そいつを入れるからクビになるとかだろうか。将来を見越して、店を継ぐ人間を現場に入れておきたい。
その為の人員の入れ替えという線も。流石に最後の可能性は低いと思いたいが、どうだろう。
――そして数時間後。アガタも帰った後の店内を、二人で片付ける。今日は珍しくマスターとお袋さんが早めに上がっている。外はもうすっかり暗く、夜気は冷え切っている。
「これでゴミは全部です」
「ありがと。じゃあこれで今日は終わりね」
「そっすね。それで、さっき言ってた話って何です」
「……ああ、うん。サチコさん。あのね、よく聞いて欲しいの。大事な話」
そう言って、海さんは俯いた。いつもは俺の目を見て微笑んでくれるような彼女が、本当に苦しそうにしている。
「あのね」
「うん」
「サチコさん、今うちで、働いて貰ってるでしょ」
「うん、雇ってもらってるな」
びくり、と海さんの体が震えた。
緊張で強張った手が、身に付けている店のエプロンを握り締める。
「それ、それなんだけど、ね」
「うん」
「その、四月までなの。四月までになった、の……」
海さんは言った。俺がこの店で働くのは四月まで。不思議と焦りや動揺はなかった。理不尽さはない。
心の何処かにぼんやりとあったんだ、いつかこんな日が来るかもって。
「それは別に構わないけど、一応、理由を聞いていいかな」
「ごめんなさい、あのね」
海さんは俺の雇い止めの理由を、ぽつぽつと語り始めた。と言っても理由は単純、俺がやり過ぎたんだ。
不良たちとの争いで俺は腹に銃弾を受けた。奇跡的に軽傷で済んだが、どう言い繕ったところで、人から撃たれた身だ。
恨みも買ってて加害者は死んでないなら、この店に後々やって来るかも知れない。
娘を守る一環として、俺にも良くしてくれていた、マスターと奥さんだったが、流石に事態を軽視できなくなった。
これから娘が大学に進もうって段になって、俺は不安要素でしかない。単なるチンピラが店で揉めるのとは訳が違う。
クズの銃弾一発でこの店が終わる危険がある。俺に非は無いが責任は有る。しかしその責任は、到底負えるものではない。
この店や皆のことを考えるなら、負った責任ごと去るしかないだろう。
「………………」
静かに目を閉じて天井を仰ぐ。
南も先輩も去っていく。海さんもそうだ。
ちょっと形は違ったが、結局は同じことだ。潮時、なのかもな。
「ごめんなさい、こんなことになってしまって。急に決まっちゃって……」
「いいんだ。いいんだ海さん、ありがとう」
悔しそうにして鼻を啜る彼女の手を、俺は握った。ご両親は正しい。親として何一つ間違ったことはしてない。子どものことを考えてるんだ。
間違いがあるとするなら、俺にまで目をかけてくれたことだろう。
だからってこの退職を、償いなんかにしたくない。
だから『俺のほうこそごめん』なんて言えない。
「今までありがとう。俺、四月まで精一杯頑張るよ。だからそのときまで、よろしくお願いします」
「サチコさんっ」
海さんは俺の手を握り返して、頭を胸に埋めた。
罪悪感に震える彼女をなだめるのに、少しの時間が掛かった。
不思議とこっちは少ししか悲しくなかった。いつか来ることだと、分かっていたからだ。
でもそうか。俺はこの店を、出ていくんだな。
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文章と行間を修正しました。




