・何処かの国の少女
・何処かの国の少女
住宅街では、西が覚えている限りの人の名前を確認した。彼女が言うには、住んでいる人は同じだけど、名前が異なっていることもあれば、全くの別人が住んでいることもあるのだという。
家の位置もずれていたり、木造建築が増えていたりと、西にとっては正に『似て非なる町』という状況のようだ。
「家の配置は違うのは分かるわ。この世界は戦争が起きてないの。元の世界だとこの町も一度火の海になったらしいから。それと同じように、人も死んでないから苗字も減ってないのよ」
お昼休みに僕たちは、その辺の公園で休憩した。以前サチコと一緒に来た所ではない。
西はといえば、休憩の間も地図や手帳に、色々と書き付けていた。たまに僕に説明をしてくれる。
彼女は僕が、同じような状況にあるということに、未だに気付いていない。そろそろ気付いて欲しい。
「ここの公園もそう。元の世界だとここは、ホームレスと発達障害の人たちが、毎日泥んこ遊びをしてて、地獄の様な光景が広がっていたわ」
不良や老人や、預け先の無い子どもを抱え、集会を開く母親たちの溜まり場とか、そういうのではないんだ。おかしいな。一番悪意がないはずなのに一番精神的に辛いぞ。
「ねえ西さん」
「何」
「さっきから聞いてるとさ、君、元の世界に戻らないほうがいいんじゃないの。なんだかこっちの世界のほうが、良いみたいに聞こえるけど」
「そう言ってるつもりよ」
はっきり言うなあ。とりあえず僕は鞄から水筒を取り出して、カップに麦茶を注ぐとそれを一口した。
「なら、戻ったら君は幸せじゃなくなる訳だし、え、一応聞くけど、もしかして元の世界には戻りたくない?」
「そんなことない。戻れるなら戻るつもり」
「何で?」
「この世界での幸せは、この世界にいた私のものだから」
西はきっぱりと、こちらに向き直ってからそう告げた。気がつけば空は暗くなっていた。
いつの間にか、どこからか流れてきた雲が、その厚みを増している。湿った匂いが辺りに漂い始める。
「だってそうじゃない。もしも私がこの世界に来たことで、元々この世界にいた私が、別の世界に押し出されていたとしたら、それでその先の世界がひどいものだったとしたら、あんまりじゃない。別の世界の人だって私は私よ。私は自分を不幸にしたくないの。だから何とかしたいの。私は私のために頑張ってるだけ」
そこまで言い切って、彼女はふんっと鼻息を大きく噴出した。見上げたモラルだ。少し鼻に付くけど、こういう手合いは、時代で探してもそうは見つからないだろう。
「でもさ、もしもこの世界が君のいない世界だったり、いたけどとっくに亡くなってる世界だったら?」
「それならまだ気は楽なんだけどね。後はこの世界の私が、別の誰かになってて、両親が心配してないとかなら、いっそこのままでもいいし。ていうか、この世界の私が死んでたら、今の私の状態がおかしいじゃない」
首を少しだけ傾げてから、西は疑問を投げかける。確かにそれはそうなんだ。しかし。
「分からないよ。君が来たことで『君が生きている世界』っていうふうに、何か超常的な力が働いて、辻褄が合わされたのかもしれない。それなら君が『この世界の君』として生きていられることも、不思議じゃないよ」
僕は遊び半分に反論した。こういうのは『この世界の自分』に親しい人の視点で見ると分かるものだ。別の世界の自分が入れ替わった場合、彼らからして『別世界の自分』は別物なので、主に性格などの点で、違和感を覚えるはず。
或いは余程似通ってるということも、考えられなくはないのだが。
「そもそもからして、別の世界から来てるってことなら、今こうして暮らせてることのほうが、おかしいじゃないか。ご都合主義って奴だよ。そうじゃないにも関わらず、自分が別の世界でも、自分として生きていられるなんて、それこそ君の言った『君自身』って言う設定のシールが、君に貼られてるからってことに他ならないんじゃ……あっ」
しまった。言い過ぎた。彼女は俄かに表情を曇らせて、雰囲気を硬化させた。何がそんなに気に障ったのか、でも傷つけたのは分かる。
「ごめん、何か、落ち込ませちゃったみたい」
「何それ……」
不安と、傷心と、苛立ち。そういった気持ちが含まれた声が、俯いて視線を逸らした少女の口から零れ出る。
「それじゃあやっぱり、この世界の私が最初から決まってるみたいじゃない」
「そうは言ってないよ」
「そうじゃない。世界毎に番号が有って、私が工場から出荷される商品みたいに、右から左へ行って、私っていうシールが貼られる。それが『私』ってことじゃない!」
西の声は震えていた。彼女が言っているのは、シールを貼られる自分が自分なのではなく、世界が始めから用意してある彼女という設定こそが、自分だということである。
それはつまり、彼女自身は、本当は誰でもないっていうことにもなりかねなくて。
ああ、分かった。だからこの娘は恐がっているのだ。自分の存在が失われそうな気がして。
「私が私だと思ってるのだって、前の場所で貼ってある私が残ってるってだけなんじゃない。だったら私ってなんなの、どうしてこっちでも、家族と普通に過ごせるの……」
「それは」
言いかけて、言いかけたけど、最後まで言えなかった。今この状況で、僕がこの世界は歴史が変わった元の世界で、異世界ではない、なんて言ってどうなるものか。
信じられない言葉を告げれば、余計にこの子を傷つけるだろう。
言葉を捜して黙る内、西は、小さく呟いた。
「ここは何処なの……私ってなんなの……消えたくないよ……」
再び沈黙が降りたけど、彼女は堪えきれなくなったのか、微かに鼻をすする音がし始めて、次第にそれは大きくなっていった。
最後には、しゃくりあげるようにして、両手で頭を抱えて、泣き出した。
異常な事態に、何の当てにもならない知識が、ただただ不安材料となって彼女を脅かしていた。僕たちと違って、この少女はずっと不安になっていたんだ。ただ、掛け違えただけの認識に、ここまで追い込まれて。
やがて、僕たちの頭上に雨がぽつぽつと降り出した。それは町に広がって、大きな音を出すようになっていった。
僕は鞄から折り畳み傘を取り出して、開いたそれを西のほうへと差し出した。水滴が傘を打つ音を、僕は傘の外側で、雨に濡れながら聞いた。西はまだ泣いていた。
人間はあんまり好きじゃない。でも今だけは、この雨に、日の涙を紛れさせる訳には、いかなかった。背中がずっと冷たかった。
それからどれくらい時間が経っただろう。未だに降ってくる雨は止まず、それどころか、遣らずとばかりに強まってくる。だけど待った甲斐はあったみたいで。
「………………………………?」
泣き止み出した西は顔を拭うと、ようやくこっちに気がついたようだった。
「あっ」
そうして、西は僕と傘を交互に見て、小さくごめん、とだけ言った。
「もう泣き止んだ?」
こっちがそう聞くと、彼女はゆっくりと控え目に頷いた。この分じゃ今日の探検はもう続けられないな。
「さっきはごめんね。流石に無神経だったよ」
西は何も言わなかった。恨んでいるのかも知れない。手を取って、傘を握らせた。一歩後退すると、雨が残りの部分にも容赦なく降り注いだ。
「今日はもう帰ろう。いい?」
「……うん」
今日はもうこれ以上一緒にいないほうがいい。そう思ったのはどちらも同じみたいだった。
「あ、臼居くん、傘」
「いいよ、貸す。それとね、西さん」
なんとか相手に向き合える程度には、気持ちが戻って来た西は、心配そうに僕を見ていた。だから、僕はそこに付け入ることにした。
「君は消えたりしないよ。僕がいるじゃない。僕は君に、シールを貼ったりしない。シールのほうが君じゃないって、もう分かってるもの」
それに。
「僕は君と話が合っただろ? そろそろ気が付いてよ、君はアリスじゃないってことにさ」
言われて西は頭に疑問符を浮かべていたが、しばらくしてあっと声を上げた。
どうやらやっと理解してくれたみたいだ。
しかし細かい話はまた今度ということにして、僕たちは一旦家に帰ることにした。西は何度も僕を傘の中に招こうとしたけど、とっくにずぶ濡れになっていた僕は、丁重にお断りした。
いつもの図書館まで戻ってくると、そこでパーティは解散となった。傘は引き続き西が持って。
彼女は泣いたり、僕のことがなんとなく分かったり、興奮したりで顔中真っ赤になっていた。
とにかく今日はとても疲れた。
気を遣って、大事にもしないといけないから、子どもって大変だ。帰ったら、今は大切にするだけで良くなったサチコに、思い切り甘えよう。
そう心に決めて、僕は濡れた地面を踏む足を、ほんの少しだけ速めることにした。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




