・罪の主権者
今回長いです。
・罪の主権者
――ニュースの時間です。今日未明、小田原市の病院に住所不定無職の男性が救急搬送された件で、男性が数日前に、同市で起きた一家の殺人事件の重要参考人として、行方を追っていた人物であることが判明したと、小田原市警察から発表がありました。男性は早川駅近辺の、金属工場の敷地内で行き倒れていたところを、通りかかった付近の住民が発見し、通報があったとのことです。男性は昼過ぎには意識を取り戻したそうですが、極度のストレスと疲労から記憶が混濁しており、事件についての聴取は、未だに出来ていないそうです。
「はあ〜」
溜息が出た。テレビのスイッチを入れると、待ち伏せでもしていたかのように、それは映っていた。
間違いなく、俺が今日の早朝寄りの深夜に、119番した件だ。男は無事、病院に運び込まれたようだが、そうか記憶はないか。
別に俺が細工をしたとかって話じゃない。
これは全くの偶然。
偶然だが、何も不思議な感じがしなかった。
「ねえサチウス、大丈夫。腫れ酷いけど」
「ごめんな。またクリスマス駄目にしちゃったよ」
「いいよ、いつかちゃんと過ごせる日が来るよ」
隣から顔を覗きこんでくるミトラスが、心配して声をかけてくれた。
いつもならその幻想的な緑色の髪を撫でたり、金色の瞳を見つめたり、愛らしいネコ耳を撫でたりするんだけどな。
今はそういう気分になれなし、全身の痛みが酷くて動きたくない。俺は風邪をひいた。当然といえば当然のことだった。
「ケーキもチキンもまだあるし」
「明日も食べような……ほんとごめん」
「いいんだ、君は頑張った」
暖房を入れても、布団を被っても、誰かに抱かれていても、寒い。
風邪の症状が重いのもあるが、それ以上に寒い気持ちが止まらない。
不快ではないが、神経が鈍磨して、眠気と苛立ちがずっと募っていく。眠いのに苛立ちが邪魔をして眠れない。
苛立って居ても立ってもいられないはずが、眠くて動けない。動きがないままに攻撃的な衝動が、感情と繋がらないままに、準備を終えて行く。
ふとした切掛けで、これが発作のように飛び出すであろうことは知っている。俺にも覚えがある。相手がいないのに、怒りのようなものが納まらない。
いや、正確にはいるのだ。心の中に。条件反射に組み込まれた、負の感情の回路。生理的な反応の域にまで食い込んだそれが、代謝によって反芻され、いつまでも消えず、終わらない。
「人の痛みなんて分かるものじゃないな」
ミトラスは何も言わずに頭を撫でてくれる。俺の発言は本心だが、それだけに彼を傷つけたと思う。でも言わずにいられなかった。
「正月になったらあっちにもお詫びしないとな」
「いいよ、こんなになるまで君を殴り倒しておいて」
「はは、悪いのはこっちなんだ。そう言ってやるな」
笑うとあちこち湿布やら、冷却シートやらを貼った体が痛んだ。
二十四日のイヴからこっち、バイトが早めに終わり夜は遅くもならず、二人で過ごせた、そして俺は男の様子を見に、ミトラスの新魔法で近くに送り飛ばしてもらって、無事に遭遇した。
男の話を聞いて、同情とも親近感とも着かない感情が湧いた俺は、このまま放っては置けないという気分になったが、相手がそこまで生きたいと思っていないこともあって、どうするべきか悩んだ。
死なせないことが、決してこの男を助けることにはならない。それは分かっていたし、俺も生きていて欲しいという訳じゃなかった。
殺したいという訳でもなかったけど。
この自分と何処か似ていて、そして自分よりも不幸な人間に、何か一つ救いは無いのかと思ったが、何がこの男にとって、救いになるのかが分からなかった。
「結局、俺のしたことはなんだったんだろう。自己満足とも違うような気がする。正しくない、気持ち良くない、誰かを助けてもいない。なら、何だ」
俺はあの男と分かれた後に、一度家へと電話した。案の定ミトラスはまだ起きていて、俺の話を聞くと、否定も肯定もせず、ただ分かってくれた。
俺はそれから数時間をコンビニに居座ったり、外を出歩いたりして時間を潰した。時刻が深夜か早朝に変わろうって頃に、もう一度様子を見に行った。男は氷像のようになっていた。
息は絶え絶え、口に指を突っ込んでも反応は無く、冷たかった。全身に雪が積もって、安らかな顔をしていた。
「死なせてやったほうがいいって、頭の中に浮かんだけど、その次に東雲にいたときの顔を思い出してさ、もしもアレが本当なら、あいつにとって現実の幸せだというなら。そう考えたら、救急車を呼んでた」
シャッター通りと化した商店街の公衆電話が、まだ撤去されてなくて助かった。でなければコンビニか駅まで戻る必要があったし、その時間で死んでたかもしれない。
「でも、やっぱり人の人生を覗くのは駄目だな」
戻って男に積もった雪を払ったとき、その瞬間が人の最後を看取る時間になるかも知れないと、俺は男の記憶を読み取った。
お互いに遺したものをやり取りするような関係じゃなかったから、せめて何に傷付き、何を想っていたかくらいは、知っておこうと思ったか。
自分のことを誰も何も知らないまま、打ちひしがれて死ぬ。それは俺にも有りえたことだったから、目を逸らせなかった。
そうして流れ込んできた男の、その瞬間に至るまでの人生は、非常に濃密で苦痛に塗れていた。自分よりも辛い人生を歩んできた人間の、何も風化していない痛みと苦しみ、憎しみと寂しさ、挫折と終わり。
諦めた先に見えた喫茶店でのひとときは、上げて落とす最低のアクセントで、俺とは別方向で、俺より傷付いた末に助からなかった人生は、気分をしばらくの間塗り潰すのには、十分過ぎた。
「俺より強い奴がいてくれて助かったよ」
家に戻って待っていたミトラスと、顔を合わせられなかった。そのときの顔をミトラスに向ける訳にはいかないという、なけなしの理性が働いたのは、我ながら良くやったと言える。
それから俺は部屋に帰って、愛同研の名簿を取り出すと、運動部の部長こと風祭を電話で叩き起こした。内容は『非常に嫌な気分になってしまって、もう如何にもならないから相手してくれ』だ。
彼女は何も聞かずに二つ返事で家まで来てくれた。わざわざ大量の医薬品を持参して。
雪も降り続ける早朝に、防具も無しで喧嘩を始めるなんて、頭がおかしいとしか、言いようが無かった。実際に俺の頭はおかしくなっていたのだが。
そうして人生で初めて、同性の友人に最初から全力で襲いかかり、防具も無しに挑んだばかりに、バラバラにされるんじゃないかってくらい叩きのめされた。
きっちり心まで圧し折られた俺は、そこでようやく沈静化した。
運動部部長は気を遣って、優しい言葉をかけてくれたが、何故か凄くツヤツヤになって帰って行った。
で、傷の手当をして風呂を沸かして入って朝食を済ませて寝て起きて今に至る。目が覚めたら夜で、遅めの夕飯の時間だった。
一度は落ち着いた憎悪や殺意はぶり返して、袋に穴が空いたみたいに、内心が冷え込み続ける。俺とあの男は違うというのに。
それが分かっているのに。その自覚が虚しい。
「ねえ、サチウス」
「どうした」
「その人は、別に戦士じゃないし、誰かと戦っていた訳じゃないんだよね。僕のときみたいに、皆の命や明日を背負ってもいない。どうして彼は家族の命を奪ったんだろう」
ミトラスは悲しげに言った。
そうか、やっぱり本当はお前が手にかけたんだな。
ミトラスの父親は魔王だ。それもお話の中にいるような典型的な。
人間と魔物の戦争中は、弱い魔物はより強い魔物に虐げられて明日をも知れず、人間と魔物どちらの世界にいても、生きていけない状態にあったらしい。
ミトラスはそういった、顧みられない魔物たちを守るために、人間側に寝返り、父親の討伐に手を貸したと言っていた。
一応は人間の騎士団が、討ち取ったという話だったけど、そうか。
「どうして、か。強いて言うなら、人間としての最後の叫びだ」
「どういうこと」
「昔はな、人間はヒトという動物だっていう話があったんだよ」
テレビを消してミトラスに向き直る。彼は穏やかで真っ直ぐな両目を、こちらに向けてくる。この眼差しに何度語りかけて、何度助けられただろう。
「人間はヒトという動物として生まれ、成長すると人間になるっていう、道徳の概念が流行ったんだ」
「それって道徳なの」
「啓発には違いなかった。でもな、それってつまり、人間にはなれず、ヒトのままって奴も、いるってことだろ。人間未満の落ちこぼれが」
「そうなるね」
「しかもだ。ヒトは生まれに由らず、人間になれると謳ったが、これは言い替えれば、人間になれるかどうか誰も保障できないんだ。親が人間になるような人物でも、子どもはガキで、逆にクズから人間が生まれてしまうこともある」
「品性や道徳は、個人の資質と世の中とで、大きく変わってくるからね」
「そうだ。そしてあの男は後者だった。でもこのことを知らなかった。親から生まれた以上、親兄弟も自分と同じように、なれるはずだと信じてたんだ」
クズからクズが生まれ、人間から人間が生まれる。それだけでいいはずなのに、余計な可能性まで存在するのが、人類の大きな不幸だ。
「何をどうしても彼らは人間にならない、なれない。それが自分の根源を脅かした。家族が人間ではないのなら、自分もまた人間ではないのではって。自分だけが人間である、たったそれだけのことを、受け入れられなかったんだ」
「傍からみれば不自然や、ご都合主義みたいに見えるものね」
「たまたまデキの良いのが生まれてしまったって現実だよ」
幼稚で、下品で、馬鹿。世界中にいるヒトの中に、偶然天才が生まれたら、大抵の奴は持て余す。他人の才能を伸ばす力は無く、成長を邪魔しないことさえ、できはしない。
嫉妬と惨めさが嘲笑と猜疑に変わり、異物と見做した存在への、罪悪感が失われていく。
「……八方手を尽くして自分が人間じゃないって証明したようなものだ。事実は違うけど、本人はそうだと思ってるんだからお仕舞いだ。しかし、だとすると、今度は自分が仲間外れになる過程に、納得できる答えがない。だって全員ヒトなのに」
「どうして家族の人たちは成長しなかったんだろう」
「人間になりたがるヒトなんか、いないってだけさ」
「だから殺したの」
「かもな。挫折を受け入れられなかった。挫折の意味するものが、あまりに辛すぎた。人間からヒトに引き摺り下ろされるのも、嫌だったんだろう」
そこまで話して、ミトラスは目を詰むって考え込んでしまった。少しして目を閉じたまま口を開く。よく見ると、額にシワが寄っている。
「改めて、ヒトと人間の違いってそんなに大事なことかな」
「ヒトから人間になるためにはな、能力ではなく人を愛するっていう、性根が大事だって話だ」
「ああ、ヒトには愛情がないってことなんだね」
今度は俺が、否定も肯定もせずに黙ることにする。昨日今日と街中に溢れていたヒトと人間たちの愛は、本当に愛であろうか。本当の愛であろうか。
「男は自分を愛さない家族の、根性を叩き直したかったんだ、でもそれが不可能だったから、もう殺すしかなかった。自分の欲しいものが、絶対に手に入らないと分かってしまったから」
諦め切れなかった男の、自分は良い子にしていたという最後の言葉が、風に引き裂かれた紙切れのような笑みが、脳裏にこびりついて離れない。
「彼は後悔してた」
「いや。罪悪感を覚えるのは自分だが、自分に罪悪感を与えるのは相手だからな。被害に遭う人間が何も大切じゃなければ、気の毒なことをしたとは思わない」
最早男の中に、愛情は残っていなかった。
「悲しいね」
「つまんねえよ」
水よりも薄い血の繋がりならば、流して消えるしかない。せめて自由をと、思えばこそ。
あの男は最後まで人間の家族を夢見て、それ故に愛そうとしていた。本性が善良過ぎた。
「ミトラス」
「どうしたの」
「もしも俺が、お前を最後まで大切に想えなくなったらどうする」
「どうもしないよ。でも万に一つ、そんなことになったら」
「なったら」
「君を襲うかもしれない」
「それなら俺は、お前を殺さなくて済むな」
俺がお前に殺意を向ける日が来るくらいなら、逆にお前の手にかかるほうがいい。
そのほうが安心できる。
けどそうなると、今度はミトラスが辛いな。
「いっそすっぱり別れるか、心中でもするか」
「僕たちにはどっちもできないんじゃないかな」
「そうかな」
「うん、どっちもできない僕たちだから、そんな日はきっと来ないよ、ね」
ミトラスの金色の瞳を見つめ返して、目を閉じる。これから先もずっと。お前の言う通りの、俺たちでいたいと思う。
例えこれから先、俺たちに何があったとしても。
「ああ、そうだな」
ゆっくりともたれかかると、彼が頭を抱えて、静かに抱きしめてくれた。
「でも蓮乗寺のこともあるしなー」
「うっ」
ほんっと、俺たちはずっと、俺たちのままでいたいと思うよ。
<了>
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