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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
最後の一人編
285/518

・時間切れ

・時間切れ



 男は走っていた。二十四日に華やぐ街を。

 男は走っていた。幸せそうな人しかいない道を。

 男は走っていた。あの家から逃げたときのように。


 ――――

 ――――――――


 事の起こりは昼だった。


 普段なら学校が終わってから、アルバイトに来る学生たちが、冬休みになると、午前中から店に顔を出すことがある。


 そのような期間限定の光景を見たいと、男は朝っぱらから、街を練り歩いた。案の定、学生労働者たちの姿を、そこかしこに確認することができた。


 今夜の相手がいるであろう子の落ち着かない様子、誰が何と言おうと、今夜の幸福が確定しているその初々しさ。


 自分の数時間先の夢想が、現実になると疑わない、少年少女。


 何も見えていない瞳と、締まりのない横顔を見て、男も自分の気持ちが、明るくなっていくのを感じた。誰も他人のことは分からないし、気付かない。


 だからこうして、自分のような人間が紛れ込んで、静かにくらしていても、どうということはない。


 自分に見向きもしなかった世の中の、冷たい無関心や不干渉は、今や男にとっては、凪のように穏やか日々を、それ送るための資格など、必要ないという確信を与えていた。


 およそ逆風のようなものは、今や完全に、男に味方していた。


 絶えず口からそれを吹き出す人は、その実その場を動かない。それ故に背を向けてから、彼らの背に回ることは、容易とさえ言えた。


 今や一般的な人、というよりもありふれた落伍者となった男は、一通り街の様子を見て回ってから、東雲にやってきた。


 流石に時間が有りすぎるので、昼に一度休憩をしてから、夜にまたもう一度来よう。このとき彼はそう考えていた。


 しかしこの日の東雲は普段と違っていた。昼前だからではなく、明らかに店の空気が悪かった。


 中に入る前から、店内の雰囲気が異質であることが分かる。もっとはっきりと言及するなら、動きや音が止まっており、唯一流れ続けるラジオの音が、その状況を強調していた。


 ――なー。


 たまに店番をしている黒猫も、今日ばかりは止めておいたほうがいいと、入店を邪魔するように足元にまとわり付いてくる。


 店の飼い猫なのか、いるときは入り口で、客の出迎えと見送りをする、賢い猫である。


 その猫に一言謝ってから、跨いで中に入ると、女性客と大柄な女性店員の、睨み合っている光景が、彼の目に入った。


「出るとこ出ようぜ。お前の言い分をさ、警察で聞いて貰おうじゃねえか」


「は? なんで?」


「迷惑だからだよ。この際お前をはっきりと、客じゃねえって言いてぇんだよ」


 店内は、外の気温もかくやという程に冷たくなり、また外の空気と対照的に、静まり返っていた。見れば女性客のいたと思しき席と、その足元には、パン屑が散乱している。


「どういう、どういうんです」


「あの人がね、パンをいつもみたいに、千切って食べずにいたのね」


 男は入り口付近の席に座ると、事の成り行きを始めから見守っていた、他の客に小声で話しかけた。


 野次馬と化した他の客たちは、既に傍観者として一体化しており、彼の参加をごく自然に受け入れた。


「アレルギーなんですか」

「頭の病気でしょ」


 男は思わず吹き出した。確かにアレルギーを引き起こすような店に、自分から何度も通っているのなら、それは異常である。


 そうでなくとも、注文したパンをパン屑にして帰るだけなら、やはり異常である。


「勿体無いよねえ。店からしたら、嫌がらせみたいなもんだしねえ」


「金払えば何してもいい訳じゃ、ありませんもんね」

「そうそう、同じことをあの子も言ってね」


 一触即発といった険悪な空気だった。店のエプロンを身に付けた女性店員は、かなり身長が高い。成人男性よりも、頭半分は高いのではないだろうか。


 一方で女性客のほうはというと、身長は平均的で顔のパーツが、全体的に尖っている。目は釣り上がり、口と鼻と頬が突き出ている。


 年齢が掴めない人相をしていた。


 服装はなんともちぐはぐで、キツめの化粧に薄手のセーターとジーンズに、やや高級そうな、しかし見る人が見れば分かる、古目のコートを羽織っていた。


「もう一人の子が『食べないのであれば、お代は結構です』って言ったんだよ。そしたら何を思ったのか、いきなり棚のパンをドンドン出して千切ったり踏んだりしていってね」


「それもう完全におかしいですよ」

「うん。でさ、当然店側も怒るよね」


 恐らく女性客が、食べないのであればお金を払わないでいいというのを、食べないのであれば何をしてもいいと、解釈したのだろう。男は顔を顰めた。


「したらあの子、あの人がいきなり女の客の胸倉掴んでバーンとビンタしてねえ。それでそれ以上暴れるのは止まったんだけど、ずっとあんな感じで」


「食わないなら何してもいいとか言ったんですかね」

「言ったねはっきり。そしたら良い訳ねえだろって」


 女性店員は女性客の退路を完全に塞ぐように立っており、形成を見ればほぼ一方的であった。


 女性客の苛立ちは明らかだった。一度頬を張られたことで、物理的な暴力では、敵わないことが分かり、仮に警察に訴えられれば、未青年のはずの店員が有利である。


 仮に暴力を振るわれたと言っても、暴れた迷惑な客を取り押さえる為と、言い返されればそれまでだ。


 況や過剰防衛をや。

 なおこの女性は自分の非を、何一つ認めていない。


「それで、他の子は」

「あの子が咄嗟に奥に隠したよ。デキてるよねえ」


 男は女性店員を見た。


 敵を捉える目は狩猟動物のソレであり、暗い濁りと触れれば切れるような鋭さを、醸し出している。本来なら人を殺しそうな目というのは、ああいうのを指すのだろうと、彼は思った。


「俺はよ、お前を打ったことで、警察のご厄介になってもいいんだよ。クリスマスを小田原署の一室で迎えて夜を明かしても構わないって言ってるんだよ。な。だからあんたもお巡りさんに話したらいいだろ。何をしたから、何をされましたって。その歳でよ」


 余計な一言を敢えて沿えたのだろう。


 女性客が遠目にも分かるくらい、顔を真っ赤にし、店員の頬を叩いた。店内が一瞬ざわつく。


 打たれたほうはその場で微動だにしなかった。首は固まり、先程と変わらず、眼前の相手を睨んだまま。女性客の手は振り抜けずに、頬で止まっている。眼鏡一つ弾き飛ばすことが、出来無い。


「……マスター。警察に電話頼んます。俺から自主、しますんで」


「いや、実はもう呼んであるんだけどね」


 見下しながら見下ろす女性店員は、静かにそう言い放った。女性客が驚いたような顔をした後、何をどう考えたか分からないが、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「あんた被害者だから、一緒にお話してくれるよな」


 そしてさっと顔から血の気が引いた。結末が同じなら後は過程の問題であり、結末が決まっている場合、過程は然程問題ではない。


 店の主人の迅速な対応により、既に警察への通報はされているらしい。


 消防車はものの十分もあれば、駆けつけるくらいのことはできるが、警察となると三、四十分は平気でかかる。


「ふざけないでよ! 警察なんてあなた一人で行けばいいでしょ!」


「逃げるなよ、逃がさねえけど」


 女性店員に腕を掴まれた女性客が、人間はこんなにも無様に癇癪を起こし、暴れるものかという勢いで藻搔いた。


 次第に口からは日本語が出なくなり、引き換えに暴力が目に見えて増えていく。


 それなのに彼女はまるで動じない。もう片方の腕も掴むとそのまま左右共に外側へと引っ張り、相手を強制的に『十』の字にして、持ち上げてしまった。


 怪物じみた腕力だった。


 女性客の絶叫も怪物退治の一幕を思わせるもので、他の客たちは喝采を上げたり、携帯電話のカメラで撮影したりと、急に騒がしくなる。


 男もこの奇妙な諍いにすっかり魅了されてしまっていた。それにこの数日間を、ずっと平和に過ごしていたこともいけない。


 だから本来なら、直ぐにでもこの場を離れる必要があることに、気付けなかった。


 しばらくしてやって来た警官が、二人の女性を連れて店を出て行くときに、その内の一人と目が合った。


 男は警官が自分を見て、怪訝な表情をしたことに、違和感を覚えた。


 店の外に出た後、警官の一人が何故か戻ってきて、何故か自分に騒動の話を聞きたいと言ってきて、名前を尋ねられ、それに自分の口から答えかけたとき。


 彼はようやく、この状況に気が付いた。

 気付かれたことに、気が付いた。


 ――なー。


 猫がやってきて、警官の足に頭を擦りつけた瞬間、彼は弾かれたように東雲を飛び出して、路地へと身を翻した。


 ――――

 ――――――――


 男は走っていた。二十四日に華やぐ街を。

 男は走っていた。幸せそうな人しかいない道を。

 男は走っていた。あの家から逃げたときのように。


 自分を追っているであろう警察から逃れるために。


 ほんの数日前までは、別に捕まってもいいと思っていたのに。どうでもいいと思っていたのに。今はどうしてか、捕まりたく無いと思っていた。


 この時間を、失いたく無いと思っていた。


(終わる。終わってしまう)


 彼はようやく自分に訪れた幸福が、息切れを起こす音を、聞いたような気がした。

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