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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
最後の一人編
283/518

・しあわせなじかん

今回長めです。

・しあわせなじかん



 男のその後は順調そのものだった。交友関係というものが無いので、誰かが訪ねて来ることはなく、自分がアパートに住んでいることを、突き止める者もいなかった。


 先日いじめと間違えて、通報してしまったときは、これで自分も終わりかと自嘲したものだが、幸か不幸かまだ何一つ、音沙汰がない。


 一人になってからの時間は、平和そのものだった。文字通り『良い意味で』彼は一人だった。


 男にはかつて父親と母親と兄がいた。それはとても家族と呼べるような代物ではなかった。


 あまりにもお粗末な、ただ血の繋がっただけの集団だった。


 ろくに家族らしい触れ合いも無く、男の記憶にそれらしい出来事があったかというと、無いほうがマシということばかりであった。


 ありふれた言い方をするなら、愛情というものが全くと言って良いほどに、彼の暮らしは記号的で、空虚だった。


 いつか円満な家庭をと夢見た彼の十代と二十代が、無意味や無価値であるなら、どれほどいいか。


 家族の仲を取り持とうと愛想を振り撒いた十代。

 没交渉に陥った各人の仲介役に務めた二十代。

 

 それらがどのような形で実を結んだか、腐ったまま膨らんだそれは、ものの見事に破裂した。

 

 いつか自分の両親や兄弟が、ちゃんとした人間になってくれるのではないか、そういう期待と信心が破れた彼は今、未来や将来といった言葉を、使わなくなり始める三十代。

 

 肉体的にはもう衰える一方であり、言い換えれば、一番健康で我慢ができる時期を、終えている。


 その上更に衰えて、問題が改善されていない人々と同居などすれば、血を見るような結果を招くのは必然であった。


 彼は親の言うことを良く守った。親が自分の言ったことを、守ったことはほとんど無かったが。


 彼は兄の素行についてよく心配した。兄が彼に気を遣ったことは、一度も無かったが。


 彼らの最期を思い出そうにも、早も記憶に靄が掛かり始めていた。あまりにも空虚で、軽々しい実感は、痺れの残る掌に、何一つ感触を残さなかった。


 水よりも薄い血の繋がりが、遂に流されたのだ。


 このまま時が過ぎれば、自分は完全に彼らの事を忘れるだろうという予感が、男にはあった。


 無責任な人々の教えを受けたばかりに、彼は家庭に希望を抱き、気付けば逆に囚われ、終わって見れば、失い続けただけ。

 

 そうして起きた凶暴が、現状を破壊した。

 呪われた一人の人間が、漸く解放された。

 罪の意識など、あろうはずもなかった。


 ただその一件で男の中に残った物と言えば、徒労、挫折、そして、未練。


 体を衝き動かした一時の熱情も冬枯れて、目の前には自分の人生の残りが転がっている。


 自分の人生を、自分の人生だと思って、もう少し自分なりに転がしてみても良かったと、男は遅まきながらに思った。


 一番欲しいものは手に入らなかった。そして二度と手に入らない。元より最初からそう決まっていたのだという事実は、彼を自棄にさせ、開き直らせた。

 

 斯くして、男は後ろ向きな理由と、前向きな気持ちで人生に乗り出した。


 彼もまた、彼の身近な人々と同じく、他の人のことを何とも思わなくなっていた、というだけ。


 孤独ながらも自由な日々は充実していた。孤独で不自由な暮らしよりも、ずっと。

 

 手よりも麻痺の強い足を引きずり、前々から見て見たかった映画を見て、本を読み、喫茶店に通う。堪えるために手を付けた趣味の全てを、楽しむために楽しむことができる。誰に邪魔をされない。

 

 およそ普通と思えることをすればするほど、男はまるで、普通の人のようになっていった。


 勿論、普通の人とのズレは大きく、職もない以上、何か行動を起こすたびに、見る見る資金が減っていくのだが、男はそれで野垂れ死んでも悔いは無かった。

 

 身内を手にかけたとき、大抵は『あのときああすれば良かった』と後悔しそうなものだが、彼が家の諸々に感慨を抱くことは、当面は無理そうだった。


 それほどまでに全てが終わっていて。


 ――これからどうしようか。

 

 悩みというより選択肢を選ぶだけといった心情で、男は漠然とした十文字を頭に浮かべた。


 そして行きつけとなった喫茶店で、今日も終わりの時間まで居座る。


「今日は寝ないで帰れよ」


 自分を起こし慣れた大柄な女性店員が、失礼な口調で話しかけてくる。目に見える範囲にいるのは彼女だけであり、店内にいるのは男を含め二人だけだった。

 

 微妙にバランスの悪い体つきに、飽きるか慣れるかで判断すれば、慣れる寄りの顔。低くて大きい声。


 表情の七割が仏頂面という、好き嫌いがはっきりと分かれる人間だった。男の目には、この女性の接客に向かない所が、愛嬌として映っていた。


「え、あの、レジの人は起こしてくれないんですか」

「お前やっぱり海さんが狙いなのか」


 女性店員は別の店員の名前を言った。他にも店のマスターが名前を言ったり、学校の友人が来ていることもあるので、男も名前自体は知っていたが、それを口にすることはなかった。


 自分の名前さえろくに呼ばれたことはなかったが、それが却って、人の名前は関係を築いたとき、初めて呼べるようになるのだと、察するようになった。


「いや、最初はあの子が起こしてるくれるんじゃないかなって、思ってましたけどね」


「おーん、狙ってたんじゃねえか」

「あくまでもまだ起こしてもらってないって話です」


 男はすっかり話せるようになっていた。


 漂白、撥水、乾燥、どの言葉も当てはまるような、過去の影響の無さ。生きて繋がっているから、意味の有る、過去が在る。


 同じように相手が喪われれば、意味まで失う記憶がある。


 前者を思い出と言い、後者を因縁と言う。


 因縁と化した身内がいなくなったので、男がこれまでの人生で受けていた、悪影響や動揺は徐々に風化していき、意味の無い過去と化しつつあった。


「ああ、蒐集癖みたいなもんか。全部の店員が勤務してる日に来たとか」


 女性店員は半目になりうんざりした様子で呟いた。連日来店している男は、他のアルバイトたちにも声をかけられたことがある。しかし海という女性だけは、未だに当たっていない。


「そうそう、早番なんですかね」


「海さん受験あるからな、もう冬休みだし、午前上がりが増えるよ」


『アルバイトをしていて、大学受験を控えた高校三年生は皆、仕事を辞めるかシフトを融通してもらえるように、店に相談するものだ。でないと試験日まで出勤しないといけなくなる』


 女性店員はそう言って、何かを指折り数えた。


「そうか高校生だもんね。え、もう冬休み?」


「ああ、ちなみに俺もそう。二十日過ぎたら、何処もそうだろうけど」


「そっかあ、受験かあ」

「お客さんはその頃どうしてたの」


 店員の問いに男は昔を思い出した。十年以上の月日が経っているのに、鮮明に思い出せる。そのときは彼の父親が偏見と酒の勢いで、勝手に進路を決めて無理を強いた。


 彼は浪人をしてから合格したが、当然のように父親は自分のしたことを忘れていた。


「普通に受験して、一浪して、その後合格してかな」

「あんた大卒だったのか」

「今はこの通り無職だけどね」


 苦笑してから男は手近なテーブルに乗ったポットを手に取った。セルフサービスの水を、空いたグラスに注ぐ。かれこれ何杯目になろうか。


 女性店員が男を嫌がる理由の一つである。


「職無しで毎日来てんのか」

「無一文なら生活保護が受けられるでしょ」


 口から出任せを言って水を煽る。彼は生まれてから一度として、酒も煙草もやらなかったが、にも関わらずこうして身を持ち崩す自分が、他人事のように面白がった。


「働けないのか」


「手足に麻痺があってね、障害者手帳もあるけれど、嫌がられるよ」


「そうか、すまん」


 女性店員が小さく頭を下げた。男は無言で手を二、三度振って、気にしていないことを示す。


「贅沢言わなきゃ仕事なんて幾らでもあるなんて言うけどさ、ありゃ真っ赤な嘘だね」


 求人募集が千件有ったとしても、千件に断られるという現実がある。選ばれないほうに問題があるというのは、分かり易い生存バイアスであり、一度零れ落ちれば、その声は拾われなくなる。


「まあ、どう生きようが口出しはせんがね」

「うん。ごめんね」


 不意の沈黙が店内に広がる。

 この話に限って言えばどちらが悪いとは言えない。


 男は空気に耐えかねて席を立つと、女性店員に会計を頼む。


 小銭を上着のポケットから取り出し、支払いを済ませて、店の敷居を跨ごうとしたときだった。


「なあ」


 男が振り向くと、女性は少し考えるように空を見つめた、いまいち感情の読めない顔だった。


「生活保護を貰うならよ、就労の意思ってのを見せないといけないから、職安に行って早めに顔を、繋いでおいたほうがいいと思うぜ。もしかしたら障碍者枠の短期とか、見つかるかもしんねえし。でも内職は止めとけよ。暮らしていけない上に、労働扱いされて保護されず餓死するからな。やるなら保護受けてからにしろよ」


 そう言って顔を逸らすと、彼女はそれきり何も言わなくなった。男は初めの内、自分が何を言われたのか分からなかった。


 だが理解が追い付くと、じわじわと顔や耳が、熱くなってくるのを感じた。


 彼女なりの助言であり、気遣いだった。自分のことを何も知らない人が、何も知らないからこそ、親切にしてくれる。このような人の情を受けることは、彼にとっては初めてのことだった。


「あ、ありがとうございます」


 男は上擦った声で何とか返事をすると、そそくさと店を出た。恥ずかしさと、よく分からない気持ちで、心臓の鼓動が早まっている。


 恋というものではない。


 ただ嫌われず、否定されず、相手から示された不器用で素朴な優しさが、想像を絶して嬉しかった。


 身動ぎ程度の歩み寄りでも、それは彼が欲して止まなかったものの、片鱗だった。


 男は興奮を糧に、アパートへの帰路を急いだ。理由などない。自然に足が急ぐからだ。今やこの男には、東雲に通うことは楽しみだった。


 人生の楽しみ。憩いの場所。


 嵐の岬から荒海に逃げ込んだ男が、彷徨い流れ着いた喜望の峰だった。


 ――人を殺してよかった。


 男は心の底からそう思った。


 ――人を殺してよかった。

 ――人を殺してよかった。

 ――人を殺して本当によかった。


 幸福は、男の手足から痺れを取り除き、彩られた町並みのような心を、照らし出していた。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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