・足るを知るからなんだというのか
・足るを知るからなんだというのか
「おはようございます! 準備ができましたのでお迎えに上がりましたぞ!」
日曜日の早朝から、元気よく俺たちを叩き起こしたのは、元アラビア、じゃないアラブ系の男性だった天狗ことウルカ爺さんだった。
今回は最初から本性を現している。一方で俺はというと、青い原色のパジャマのまま。
一昨日のこともあり、あまり眠れていないこの頃、そんな全体的に鈍っている頭を、ぶっとい大きめの声がガンガン殴ってくるんだけど、前述の有様なので、そんな響かないね。
「あー、おはよー、ございます」
「おお、サチコ殿、日曜日の朝早くから申し訳ありません」
高齢化で近隣住民の朝は早い。目撃されても面倒だから中に招くが、変身している状態だと、玄関が狭くて入り難そうだ。
気を遣ってくれたのだろうが些か空回っている。
まあ周りに住んでるのが年寄りばかりといっても、皆が皆ゲートボールや散歩に出かけるとは限らない。
足腰が弱っているから外に出ないことも十分に有り得るし、天狗を見たと言って民生委員にまでボケたと思われるのがせいぜいだろうし、心配はないんだが。
「刀を打ち直す用意ができましたので、お知らせに参りました」
「あーうん、そっか。ちょっと待ってくれ、ミトラスを起こしてくるから」
「あ、いえいえそれには及びません。ちょっと玄関をお借りできれば、直ぐ戻りますので」
どういうことかよく分からないので、素直に首を傾げると、天狗は山伏の着てる法衣からぽんぽん(結袈裟とかいうやつ)を玄関の欄間の上辺りに掛けた。
留め具もないのに。
「これでこの玄関と私どもの根城が、無事繋がりましたので、支度が整いましたら、お越しください」
根城、せめて住まいとか言おうよ。ともあれこれでワープゲート式ショートカットの、開通である。
俺はまだ良いとは言って無いけど、駄目とは言わないから事後承諾だ。思えばこの天狗も、最初から俺たちがノーと言わない『てい』で話を進めてきたな。
ここに来て『それなんだけど』とでも切り出してみようか。止そう。浚われるかもしれん。
それに俺とミトラスの仲も拗れてるのに、この状態で宙ぶらりんにするのもな。いよいよこれまでのやり取りが、無意味になってしまう。
「これどうなってんの」
「天狗の十八番『神隠し』でございます」
満面の笑みで胸を張る老天狗。
ああ、これがあの有名な。
「色々と数もありまして、今回はこの様式でと相成りました」
「バリエーション豊富なのか」
「そこはそれ、神出鬼没というやつですので」
なるほどと相槌を打つと、ウルカ爺さんは俺の家の玄関を潜って帰って行った。玄関の外は、窓の外とは異なる景色が映っていた。
これ外に出るには縁側から出るしかないな。
「できれば電話とか、姿を見せない形で連絡してくんねえかな」
突然の来訪者による業務連絡が済んだので、俺は朝を仕切り直すために、とりあえず一言ボヤいてから、トイレへ向かうことにした。
――2時間後。
「じゃ、行こうか」
「……うん」
朝食を済ませ、いつもの私服に着替えた俺たちは、家を出た。家を出た瞬間に、何処かも分からない建物の中にいた。
振り向けばそこには俺の家と似て、しかし格段に立派な玄関がある。
一度開けて潜って見る。俺の家。戻ると他人の家。どうやら本当に繋がっているらしい。
「なんだか俺の日常と非日常が、何なのか分からなくなってくるな」
「うん。僕は日常に戻りたいかな」
ミトラスは力無く呟いた。
一応人間に化けてはいる。
いつもはミトラスから手を繋ごうと差して出してくるのに、今日は俺がやっても目を逸らすばかりだ。
せめて、今日の用事は終わらせよう。これからのことをするには、今日を終わらせないといけないから。
「御免下さーい」
声を大きくして言うけれど、誰も何も答えない。
中は純和風の木造住宅なのだが、映画のセットか、観光地かという広さと大きさ。しかし誰の姿も見えないし、物音一つ聞こえない。
「上がるか。靴も持って行こう。ここに戻れるかは不安だし」
「うん」
靴を脱いで旅館のような建物内を歩く。
幅広で天井の髙い廊下、左右には小さな宴会場みたいな部屋が続いていて、片方の奥には縁側があって、庭のような場所が見える。
「渡り廊下がある。お屋敷だ。敷地の中に幾つも建物があるけど、これで俺たちに何処に来いっていうんだろうな」
招かれているとはいえ、勝手に上がるのは良い気分がしない。一応は客みたいなものなのだから、許しも無しに上がり込むなんて、泥棒染みたことはしたくなかったんだけど。
「まあ、何処かにいるんだろうから、会いに行けばいいだけか」
「うん」
そうして歩いている内に、分かれ道に差し掛かる。廊下の奥へと続くか、左に曲がるか。左は渡り廊下が有ったほうだ。更に多くの分岐があるだろう。
「待ってサチウス」
歩き出そうとした瞬間に、ミトラスから呼び止められる。見れば彼は変身を解いていて、俺のことを真っ直ぐに見つめている。
「ミトラス。どうした」
「聞いて欲しいんだけど」
俺はミトラスの前まで行って座り込む。小さいな。異世界にいた頃は、俺の背もまだ低かったから、もう少し近づけたんだけど。遠くなったな。
「僕は、これからあの人に会うでしょ」
「うん」
「それで、僕はきっと、君の気持ちの幾つかを裏切ることになると思う」
「それは」
「聞いて」
静かな一言には、有無を言わせない強い意思が感じられた。俺の目を見て、この子は大切な事を、たぶん自分よりも、俺にとって大事なことを伝えようとしている。
「それなのに、あなたの所に帰ってきたら、あなたは喜んでくれる。許してくれる」
問いかけてくるミトラスは、怯えていた。今にも離れて行ってしまいそうなほど、それは俺を呼ぶ形にも現れていて。彼の金色の目に浮かぶ瞳孔が細まり、体は小さく震えている。
「ミトラス、手を出してくれるか」
「え、うん……」
俺が触ろうとしたら、逃げてしまうんじゃないかって思ったんだ。ごめんな。
「ミトラス。お前は、お前は俺の言う通りに、しなくたっていいんだ。それだけなんだよ」
両手で、今までよく握っていた小さな手を包んで、そう言った。俺にはこれが精一杯だった。ミトラスは少し疲れたような顔をしてから口を開くと、溜息を吐いてから、言葉を続けた。
「僕に遠慮してるんでしょ」
「うん」
「僕にわがままを言っちゃいけないって、思ってる」
「うん」
「僕がわがままを言ったら、聞いてくれるのに」
「そうだな」
「それって変だよ」
「……そうだな」
ミトラスの表情が不機嫌になった。
怯えは無くなったんだ。
気にしていたこと、気になっていたことが、少しは分かったんだろうか。それが何かは俺には分からないけど。
「サチウス、僕はね、君に聞いて欲しいわがままがあるんだ」
「何だ」
「うん。僕はね、君に」
「おー、お二人ともよくぞ起こし下さいましたな!」
大事な話をしてるときに出てくるなよ死ね。
「すんませんちょっと今大事な話してるんで」
「ごめんなさい、直ぐ済みますんで」
俺たちは渡り廊下側の廊下の奥から走ってくる天狗を制止してから、お互いに向き直った。
「君は僕に自由にして欲しいって言うけれど、僕は君の意思を尊重したい。もし僕が自由にして、君の意思を無視するようなことが、あってもいいの」
「それは、うん。いい」
「そう。だけど仮に僕が君の意思を無視したら、君の意思を尊重したいっていう、僕の気持ちとは矛盾するよね。サチウスは僕の気持ちを尊重してくれないの」
「それは」
言い返せない。ミトラスの言いたい事が、何となく分かる。でもいいんだろうか。
お前は良いと言ってくれるけど、俺はそのことに、自信が持てない。俺はお前の好意が、いつの間にか、怖くなってしまったんだろうか。
「自分の意思を持ってよサチウス。僕たちのことなんだから」
ミトラスは最後に、悲しそうな顔をして、自分から手を離した。なにも、なにも言葉が出ない。ただ、俺自身の底の浅さを、思い知らされて、痛い。
「じゃあ僕、行ってくるから」
ミトラスは腕を伸ばして俺に抱き付くと、そう言って天狗の下へと歩いていった。
二、三言葉を交わして、廊下の奥へと去っていく。
「あの、大丈夫ですか」
答えられない。
今の自分がどんな顔をしているのか、鏡が無くても分かる。俺はミトラスのことを考えてるつもりで、『俺とミトラス』が見えてなかったんだな。
どうして、もっと早くに気付けなかったんだろう。
それから少しの間、俺は口も利けず、立つ事もできなかった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




