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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
天狗の仕業編
230/518

・伝手

・伝手



 土曜日の午後、半日の授業が終わり、学校から直接向かった喫茶『東雲』は今日も繁盛している。


 店内には珈琲とパンの香ばしい香りが満ちており、ラジオからはオサレな音楽が流れている。


 わざわざ海外のチャンネルを、受信できるタイプのもので、洋楽聞きたい放題である。


 自分から聞こうとは思わないが、こういうふうに垂れ流しで耳に入ってくる環境というのはいい。何となく自分の好き嫌いが、固まっていく感じがする。


「インディーズのチャンネルじゃなくて、もうちょいメジャーな局を入れたらいいのに」


 俺と同じく店の制服のエプロンを身に付けた少女、いや、もう女性かな、が呟く。


 この店の看板娘にして、マスターの一人娘である、海さんだ。褐色の肌にボーイッシュな髪型の十八歳。


 良い意味で保守的な人間の彼女は、小煩いインテリやしゃらくさいワナビを黙らせる文化人である。


「へー、ちょっと意外」


 そこそこ大衆志向で、地産地消型の人間の、理想像みたいな人だ。話せば分かるし主義主張だって郷土愛に根差している。


 競争主義にどっぷり浸かって、自分の能力に酔って何か勘違いした人間からすると、小馬鹿にするか唾棄するかの、どちらかに属する穏健派だ。


 ちょっと厳しい所も増えてきたけど俺は依然として海さんが好きである。


「世の中的に、聞いたことがあるって程度のものは、聞いておきたいし」


「いいじゃないすか、土日のお昼はそうすんだから」

「言い換えるとそこしかないのよね」


 海さんがため息をはいてこめかみを掻く。奥ではマスターがニコニコしている。


 いつもニコニコしているが、段々この人の笑顔の内訳が、なんとなく分かってきた気がする。


 海さんが愚痴を零したり苦言を呈すると笑顔が柔らかくなる。痛し痒しといったところか。海さんも来年の三月には卒業か。思えば俺の友人は皆目上だな。


 南までそうなっちゃって。


 もしかすると三年のときに、は誰もいなくなってるかも知れないんだな。俺も卒業のときにはこの世界を引き払うし、準備、考えとかないとな。


「はあ」

「珍しいね。サチコさんがため息なんて」


 海さんがきょとんとして俺の顔を覗き込んでくる。


「珍しいかな」


「たぶん初めてじゃないかしら、ここであなたがそういうふうにするのって」


 言われてみればそうなんだろうか。


 溜息自体は結構してると思うんだけど、ここではしてなかったのかな。まあ、この環境で溜息が出る心境には、そうそうならないけどさ。


「いやね、実はこの前の旅行のことでちょっと」

「あら、もしかしてお化け憑いちゃったの」


 海さんの言い方に、俺とマスターと話を聞いていた一部の客が噴出した。お化けだったらまだ良かったんだよな。だって相手はお化けより強くて悪質だ。


 余談だが俺は海さんから、旅行の冒険譚を聞かされたご両親に、本人がいないときにだが、やんわり注意された。


 俺も被害者なんだけど、俺まで一緒になって危ない目に遭って、何をやってるんだと言われてしまった。この点に関しては返す言葉もない。


 しかしながら海さんが話を盛ってくれた結果、俺が霊に刀を刺して外へと飛び出し、そこに雷が落ちて危機一髪になったという武勇伝が出来上がり、結果的に俺が何とかしたということになり、そこまでのお叱りは受けなかった。


 なのでこの件に関しては、この店に限り気まずさが残った。


「いやあ、そっちのがまだ気が楽だったかなって」


「なに、北さんのコミケに付き合ったときに何かあったの」


 先輩は帰りに荷物を俺に渡すと、一日目の即売会の終盤に参戦、後日も出て最終日に俺を売り子に狩り出すという、人間離れした動きを見せた。そんなことはどうでもいい。


「ほら、オカルト部の部長に、世話になったじゃないすか。だからそのお礼をしようと思って何かないかって聞きに行ったんですよ」


「律儀ねえ」


「で、その際に選りにも選って『人の彼氏を借りたい』とか言い出して」


 俺の近況を誤魔化して擦りかえる。これならしんみりとはしないけど、もっと別の話題を咄嗟に用意できなかったのか俺よ。


「何それ、略奪愛ってこと」


 寝取りともいう。先輩は寝取りを書くときは、元鞘エンドにしておくと、ライト層も取り込めるし固定客も付き易いとか言ってたな。


 そんなことはどうでもいい。


「どうも相手の彼氏が好きという訳でもないようなんだな」


「それ引き受けちゃうの」


「一旦家に持ち帰ってどうしたものかと悩んだ挙句、別の職場に持ってきちゃったんだなこれが」


 海さんが声を上げて笑う。他人事なのだがそこまで面白がらなくていいと思う。


「あの人は何だかんだで相手が損したり、傷付いたりするようなことは、これまでしてないんだよな。少なくとも俺の周りに限っては」


 俺が知らないだけで、そんなこと無いのかもしれないけど。


「焦れったいからちょっかい出そうと思ったのかな」


「そんなことを考える奴には見えないけど、テコ入れなのかなあ」


 うーん、自分で言っておいて難だけど、本当にそうかなあ。ミトラスは俺が性的なことに対して、無風流であることを残念がっていたようだが、それを知ってたのだろうか。


 いや、それじゃミトラスを寄越せというのとは繋がらないだろう。単純にあれこれを調べたいというのが本音だろうが、そうなると俺に対して、遠慮呵責の類は薄いか最悪無いってことだな。


 完全に足元を見て、ここぞとばかりに言って来たと思って、いいんじゃないだろうか。


「しかし上手く行かなかったときが怖いな」


「そうだね。そういう人が、そういう手に出るってことは、相手のカップルの仲がちょっと不味いかもってことかも知れないし、失敗したらそのまま取っちゃうことに、なりかねないよね」


「怖いことを言うなよ」


「しかも失敗したらたぶん別れてるから、取っちゃったことはともかく、取っちゃってる状態は責められない上に、口ぶりからすると相手の彼氏のことも、別に好きじゃないんでしょ」


 海さんが非常に恐ろしいことを、筋道立てて説明してくれる。こんなことのために頭を冴え渡らせるの、止してくれないかな。


「それで取っちゃった彼氏とも別れたら、元カノさんがもう気にしてないなら、元カノさんは何も言っては来ないかもしれないけど、彼氏の立場はもう完全にないよね」


「ないな」

「黙って終わるとは思えないね」

「単純に、借りて終わるだけとか、そういう線は」


 海さんは腕組みをしてから残念そうに首を振った。俺も今かなり無理のあることを言った自覚はある。


「予め全部カップルとその部長さんで話が通ってて、軽い気持ちでやってみようかとなったとしても、無事に済むとは思えない」


「だよな、やはりあいつには悪いが、この話は蹴ったほうが良さそうだ」


「そうね。引け目や弱みがあっても、従ってはいけないときってあると思う、あ、いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませー」


 取り留めもない話をしていると、店のドアが開いて新たなお客がやって来る。


 喫茶店は客層がある程度固定なので、知らない人が来ると分かる。


「空いているお好きな席にどーぞ」


 水とナプキンと手吹きをトレーに乗せて、そのお客。席に案内する。


 御新規さんの獲得となるだろうか、それとなく観察してみる。


 頭部は毛の量も豊かだがほとんど真っ白だな。


 外国人、初老のアラビア人男性って感じだ。なんで分かるかというと、アガタの父親がアラビア系ブラジル人で、似たような顔をしているから。


 アラブ系って言ったほうが正しいんだけど、語呂がいいから間違っててもこう言ってしまう。


 観察に戻ろう。特徴といえば鼻がやや大きく赤い。これが絵に描いたような立派な口髭と相俟って、中々愛嬌がある。


 中背だが水色のワイシャツの縁から分かる体はそこそこがっしりとしている。少しだけ腹が出ているが、恰幅が良いと言っていいだろう。


 灰色のズボンにきつね色の革靴。荷物はビジネス用の鞄が一つだけ。


「パンはあちらにある物をトレーに乗せて会計を済ませてください。お飲物の注文もその際お受けします。お飲物のみの注文の場合、この場でお聞きして、伝票をお渡しすることもできますので、その場合はお帰りの際に、精算をお願いいたします」


「うむ、はい、分かりました御嬢さん」


 トントントンとそのお客は相槌を打った。こちらを向いて歯を見せて笑う。白い。柔和で皺だらけの顔に黒目、なんともハンサムな爺さんだ。


 今すぐドアが開いて、お嬢様が爺やって声をかけてもおかしくない上品さ。


「ではごゆっくりどうぞ。それと」


 しかし気になる点が一つある。それは。


「なあ、あんた人間じゃねえだろ」


 誰にも聞かれないように声を潜めて問い質す。初老のアラビア人男性は、目をぱちくりとさせながら俺を見る。


 すると子どもをあやすような、笑い方をした後で、すっと真顔になった。


「流石です。となればあなたがあのお方の仰ったサチコさんで、よろしいですかな」


 同じように小声で言う男の言葉に頷くと、向こうも一つ頷いて、鞄から名刺入れを取り出した。


 その中から一枚を取り出して俺に差し出してくる。


「私、こういうものですが」


 そこにはこう書いてあった。


『平崎大学民俗学講師兼カトリック系宣教師 遠山・E・ウルカ』

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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