・泥濘を踏み締める
・泥濘を踏み締める
あれから数日後。バイトが無い本日は、四限目を保健室休みに振り替えた俺は、昼休みと合わせて学校を抜け出し、街の本屋に繰り出した。
籠った空気が含んでいるのは、紙の匂いかそれともカビか。ここは個人経営の古本屋という、絶滅危惧種の『焚書堂』。
創業者が戦時中に色々あったらしく、そのことにちなんでこんな名前を付けたそうなのだが、俺はそれに興味がないので、物騒な名前だなあくらいにしか思わない。
ていうか触れちゃいけないような空気してないその名前。
「まさか本屋で参考書を探す日が来るとはなあ」
参考書というか学術書というか。棚に並べられた勉強用の書物は、年代も出版社もバラバラで、一つ手にとって中身を見てみれば、そこには方程式と説明文。
どれもう一つ。そこには小さなイラストが添えられており、言い回しが異なっている。最後のはページ端のイラストが、どこか性的なニュアンスを含んだものに変わっていた。
説明の言い回しに至っては、数学は国語の問題として考えようと言い放っている。時代を感じる。
確かに文字式になった辺りから、数が出なくなり始めて、納得いかなくなってくるけど。
「あ、いらっしゃいお姉さん。サボり?」
店の奥から出てきた少年が不躾な声を放ってくる。家は店より一段高くなっているようで、彼は店に降りるなり、アジサイ柄をしたサンダルを履いて、こちらに寄ってきた。
「恭の字くん客にその言い方はないんじゃないかな」
「購入の事実を以て人はお客になります。過去の無い人は信用されませんよ」
まだ声変わりしきってない声で、こまっしゃくれたことを言うのは、この店の店長代理の恭介だ。
この世界で出来たミトラスの友人で、俺との年齢差を考えると、アガタが卒業する年の四月に、高校生になる。
色白の長髪美少年。じきに美青年だろう。
絵に描いたようなキツネ目であり、ガールフレンドに西日がいる。こちらもミトラスの友人だ。
「おーん。じゃあ聞くけど、ここに俺の探してる本があったりするのかね」
「それはどうでしょう。どんな本をお探しですか」
見れば恭介は甚平に身を包み、ソックスと手袋という出で立ちで、動くと隙間から肌色がチラチラする。意識して性的。写真を撮りたい。
「心理学だな、カウンセリングのでもいい。正直どういうのがあれば役に立つのか、俺も検討がつかん」
「じゃあこっちの棚ですね。差し支えなければ事情をお伺いしても」
案内に従いその場から別の列に移る。礼儀正しい丁寧な物腰だ。こういう存在が接待みたいに、人に触れるとむらっと来るんだろうな。
社会的な、階層的な身分では下だけど、奉仕の一つとして、攻めてもらいたいというか。
「友だちの妹のコンプレックスが酷くてな、高校生にもなって姉に突っかかるそうなんだ。放置した所で誰も幸せになりそうにないから、一肌脱ごうと思って」
「あの、聞いた僕にも責任あるかとは思いますけど、そんな明け透けに言っていいんですか」
「仮にそうした場合、お前が俺の本を探す精度を落とさずに済むのか」
言われて恭介は少し考え込む仕草をすると『失礼しました』と言って頭を下げた。うむ、よろしい。
「本音を言うなら、とっととカウンセラーの一人も見繕って、治療を受けさせろって話なんだけど」
「どういう人なんですか」
「趣味とか好みは一致するが姉の完全下位互換」
本棚を探る手を止めて、恭介はこちらを見た。背中まである長い髪が揺れる。俺のほうが長い。
「突っかかるっていうのはどんな」
「実際に手が出たことはないそうだが、態度と言葉がきついらしい」
「問題を起こしてないなら大丈夫なのでは」
「問題にはなってないから問題がないかと言うとそれとこれとは別問題だぞ」
恭介が嫌そうな顔をする。放っておけばいいのにという表情だ。
ミトラスが言うには、彼も極端に頭が良いそうで、斎の性別を反転させたような感じらしい。俺の周りには俺より頭の良い奴しかおらんのか。
「相手の家のことに口を出すのはどうかと」
「ぶっつけ本番でトラブルに対処することを、経験が無いっていうんだぞ。覚えておけ」
「え、じゃあ練習みたいに自分のためにやってるってことですか」
「この場合は無視を決め込んだほうが、俺の為には成らんということだ」
店先の道路から、湿ったアスファルトの匂いが風に乗って、店内に入ってくる。ほどよく冷たくてとても落ち着く。
本は傷むが、客側からしたらこのくらいのほうが、居心地はいい。
「俺のように人生スカスカだと、友だちの思い出でも詰め込まないと、帳尻が取れないの。今は友だちにも先輩にも後輩にも恵まれてる。人生が俺に払い戻しをしてる最中なんだ。なら一つでも多く取り返すなら、今しかない」
「払い戻すとか取り返すって、そんなお金のやり取りみたいに」
「人によっては正にそれが人生なんだろうけどな。で、どういう本がいいんだ」
俺が尋ねるのと、恭介が本を取り出すのとは、同時であった。分厚い一冊の緑色の本。
わざわざ装丁と呼べるほど、洒落たものの無いありふれた厚紙の、表紙は白と黄緑色。
帯も無くあちこち折り目が付いてくたくたに傷んだそれには、素っ気無く『簡単な認知療法』とだけ書かれていた。
「こういうことは、本職の方と当事者とご家族とが、年単位で取り組むものなので、正直関わること自体、ボクは止めるべきだと言っておきます」
「ありがと。幾らだい」
足がかりさえあればいい。
卒業までは二年以上ある。
今から続けていければ、きっと何とかなるくらいの状態になれば大成功だ。機会があるなら幾らだって、その筋の人に引き継ぐよ。
気持ちの問題っていうのは、本人と関係者がやる気にならないと始まらない。そしてそこから先、部外者にできることはない。
言い換えれば俺が出られる幕はここだけだ。
「本当にやるんですか」
しかし恭介は本をしっかりと掴んで離さなかった。
「卒業まではするつもり、嫌とは言わせるが、文句は言わせんぞ」
恭介は良心に則って警告してくれる。本を渡すことまで躊躇い俺を睨んだ。自分のすることに無責任ではいるようなことは、しないという顔だ。
狐目の向こうの黒い眼が無言のまま見つめてくる。
「これでもし駄目だったら、相手の関係や気持ちは、もっと酷い事になりかねないんですよ」
「じゃあ聞くがな。お前の劣等感が鬱陶しいし、気に入らないから精神科に行けと言って、行く奴が本当にいるとでも思うのか。そのうち本人じゃなくて家族が相談のためだけに、医者にかからなきゃいけなくなるかも知れんのだぞ。それでもいいのか」
「だからと言って」
「それとも何か、お前が変わりにやってくれるのか。それとも放置でいいのか、もっと良い方法を紹介してくれるのか、説得してくれるのか」
ブレーキを踏んでくれるのはありがたいけど、もうちょっと様子を見ていようという気はない。気持ちの問題はそのままにすれば、終わりまでいってしまう。
現に俺にはもう家族がいない。家族同然のミトラスでさえ、そう想うことに対し、引け目を感じるときもある。
「俺にとって妹さんより先輩のほうが大事なんだよ」
「……あなたって、意外に嫌な人ですね、そう言われたら困りますよ」
「売らねえなら他所で買うだけだぞ」
恭介は目を瞑り、しばらく考え込んだ。他の人間と違って感情や欲望が高振り、心の声が漏れてくることはない。苛立ってるけど、取り乱してはいない。
やがて彼は、俺に本を手渡した。
「毎度あり」
「ボクの台詞です。レジへどうぞ」
さっきまでの気安い雰囲気も霧散して、俺たちは特に何も言わずに清算を済ませた。
なんとびっくり三千円。
プレミアでも付いてたのか。
「一蓮托生ですからね。心の医療は嫌でも一緒にやらなくちゃいけません。だからそうやって危ない所を助け合って乗り越えると、人は本当に大事なとき以外は言い合わなくなるか、些細な事でも言い合って、出すものを全部出しておこうかっていうのの、どっちかになります」
「お前どっちなの」
「ボクは前者、日は後者です」
どこか懐かしい匂いのする紙袋に本を入れながら、恭介は言った。
今は疲れたような笑みを浮かべている。俺だって勝手に事態が好転してくれそうなら、こんな真似しようとは考えないよ。
「そういやお前もサボリなの」
この話題はこれまでにしたくて、俺はそんなことを言った。
彼はわざとらしく、改めて機嫌を損ねて見せる。
こちらの意図を酌んでくれるみたいだ。
やはり聡いな。
「失礼な。ボクは店番ですよ。学校に出ても、お店は開けられませんからね。こう見えてもボクはちゃんと働いてるんです。だいたい」
恭介はしばらく自分が如何に店のために働き、また勉強しているかを語り出した。彼の長話は昼の終わり頃に、一人の女の子がやってくるまで続いた。
彼がガールフレンドに引っ張られ、店仕舞いをするのを見終わってから、俺も学校に戻ることにした。
さて、ここからどう転んだものか。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




