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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
バイトヘル20XX編
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・出動

・出動


「という訳で、この後出ないといけなくなりそうなんだ。先に寝ててくれ」


 バイトが終わってくたびれながら帰宅した俺は、すぐにまた出かける支度を整えた。晩飯をとっとと食って、急いで休憩する。


「珈琲の淹れ方の一つくらい覚えて帰ってくるかなと思ったら、また厄介な」


「マスターがザルに豆入れて火で炙ったり、炙った豆を煮たりしてたけど、さっぱり分からんかった」


「そこまで分かってれば良いんじゃないのかなあ」


 黒い泥水のことなんか今はどうでもいいんだよ。そんなのは嫌いな客にどうぞっつって、代わりに墨汁でも飲ましときゃいいんだ。今は海さんの安否が第一だ。


「一応聞くけど、大丈夫そうかい」

「最悪目を光らせるとか、火でも噴けば何とかなるだろ」

「なるかなあ」


 なってくれないと困る。俺も今のところ人が絶命する瞬間は見てないし、手も汚してないから、可能な限り綺麗な体でいたい。


「職場の娘さんがいじめにあって不幸な最後を遂げるとか、そんなのは絶対に嫌だ。バイト先に今後一生のお付き合いが生まれてしまう」


 他人の命日をご縁に合うなんて気まずいどころではない。この世は問題を見て見ぬ不利をすると、必ず悪化する。


 しかしその大半は理屈ではどうにもならない。中にはその理屈を捏ね回して、必死になって反抗する奴もいるくらいだ。そんな労力割くくらいならちゃんとしろと。


「仕方ないなあ。僕も付いて行ってあげるよ。相手が犯罪者だったら手に余るでしょ」


「あ、うん……ありがとう」

「こういうときに頼ってくれないと、僕は嫌だな」


 いじわるそうに金色の目を細めて、こちらを見るミトラス。彼の格好は白いワイシャツと黒いズボンという、シンプル極まるものだった。元より寝るつもりは無いらしい。


「いや、泥棒対策もしないといけないから迷ったんだよ」

「……それも大事だけどさあ。いいや、ちょっと待ってて」


 ミトラスは何か諦めたように溜息を吐くと「えい」という可愛い掛け声とともに、猫へと変身した。煙が立つとか効果音が鳴るとかそんなこともない。文字通り次の瞬間には足元に毛が白と黒に分かれた猫がいた。


 もしかして服と毛の色は同調しているのだろうか。お、ちゃんと金玉付いてる。


 個人的には服がその場に残って、元に戻ると真っ裸ってパターンを期待したんだけどな。


「これで大丈夫」


 そして猫から発せられるミトラスの声、緑色のファンタジックな毛並みになるかと、少し不安だったがそんなことは無かった。


 こんなこと言うとわがままだけど、猫の姿なら猫以外の声は出して欲しくないな。


「よし、行くときは自転車のかごに乗ってくれ。あとその前に抱っこさせてくれ、頼む」

「にゃーん」

 

 おお、ノリのいい猫だ。猫いいなあ。猫大好きだ。ふわふわ、毛もスベスベ。頭をぐいぐい押しつけてくる。あっちこっち撫でたり揉んだり、ああもふもふだ。一日の疲れが癒される。お、甘噛みされたぞ。


「ほうら髪の毛だぞー」

「にゃー!」


 そんなことをして息切れするほど遊んでいたら、うっかり海さんのことを忘れてしまい、気付けば結構な時間が経っていた。俺たちは大慌てで家を出た。



 ――そして。



 比較的治安の良い住宅街の夜というものは、随分と静かである。人を撥ね飛ばしそうな勢いで、自転車を飛ばして来た俺たちは、丁度『東雲』から出てくる海さんを見つけた。もう少し早くに出ていれば、隠れて尾行することができたと思うと悔やまれる。


 恐るべし猫時間。


 街灯の光が夜を照らし出す道の先、バイト先の建物の前を鈍い足取りで歩く人影が一つ。野暮ったいエプロン姿より尚ダサい濃紺のパーカーにスウェット姿。


「海さん!」


 声をかけると彼女はびくりと身体を震わせて、こちらを見た。改めて考えると自宅が別にあった場合、俺は打つ手が無かったな。危ない危ない。些か速度を出しすぎた自転車に、ブレーキをかけつつ前に回る。


「間に合ったか、よかった」

「臼居さん、どうしてここに」


「ごめん、昼間に海さんの携帯に着信があって、何か呼び出し食らったみたいだったから、心配になって」


 こういうときは隠さずに言うのが大事だ。下手に取り繕うと不信感を持たれてしまう。基本的にコミュニケーションというものは、言葉を選びさえすれば正直で良いのだ。俺は群魔でそう学んだ。


「あ、やっぱり見たのね」

「着信の内容が画面に表示されてましたから」


 不可抗力を装う。職場の先輩は、恥じ入るように俯いた。辺りが暗いので、赤くなっているかは分からないし、赤さの加減も分からない。


「覗き見防止用のシートを今度から貼りましょうね。おかげで俺は来れましたけど」


 海さんは小さく「はい」と言って、ばつが悪そうに頬をかいた。たぶん『ほうら実は嫌な奴だったんだ』みたいに思ってたんだろう、実際は自分の落ち度100%だった訳だが。


「それで、相手は彼氏ですか。だったら帰りますけど」

「え、ううん。違う、の」


 表情を曇らせたまま、彼女は首を振った。この聞き方なら『いじめられてるの?』という内容を同じ文章で質問せずに済むのだ。『はい』とも『いいえ』とも答えやすいものだ。咄嗟に口に出たにしては我ながら上出来。


 そして答えはこの場合『はい』のほうである。


「違うけどその、もうそろそろ時間だから行かないと、いけないんだ……」


「俺も行きます。こいつもいるからいざってときは大丈夫っす。色々準備もしてきたし」


 かごの中を示すと猫になったミトラスが一声鳴いた。うん、可愛い。


「うちの番猫。頼もしいっすよ」

「にゃー」

「……え、いいよ、そんな、悪いし、危ないよ」


 先輩はミトラスの頭をごく自然に撫でながら遠慮した。想定の範囲内だけど、そうやって大人しいからいじめに遭うんだ。


「ダメならこの場で親御さんにバラしますよ」


 海さんが息を飲む。裏切られたような目でこっちを見ないでほしい。こういうとき勝手に追い詰められた挙句、誰にも相談出来ずにいるような奴だからこんな状況なのだ。


 ていうか事態を好転させたいなら、自分と相手より立場が上の者に掛け合うのが宜しい。


「詳しい事情は追々聞きますけど、今大事なのはあんたがこの厄介事から、解放されることでしょう。間違えちゃいけませんよ。それこそ心配で終わらせられるなら、親御さんに相談したほうがいいんだ。手遅れよりはずっと安上がりです。本当はね」


 並んで歩き出しながら俺は海さんに告げた。こういう強行策に手も足も出ない辺り、まだまだ弱い。これが現役高校生とそれに毛が生えた俺との差か。


「で、どっちにします。親御さんに相談するか、俺を一緒に連れて行くか」


 海さんは俄かに汗をかき始め、しばらくの間視線を宙に彷徨わせて考え込んでいた。二つに一つなんだから悩むこともないと思うけど、これは俺がまだ信用されてないせいだな。


 昨日今日現れたポット出のバイトが、助太刀してくれるなんて言われたら、無理もないか。


 ここは現代、出所の分からない善意に甘えたら、背中から切られる世の中だ。でも。


「……付いてきてください」

「押忍!」


 海さんは観念したように、声を絞り出した。彼女を励ますために、俺も声を張り上げる。効果は不明だ。


「それで、いつもの場所ってどこなんです」

「近所の公園」


 女だな。絶対。人の目のある場所を敢えて使って、身の安全を確保しておこうという、迂闊な大胆さは男にはない。男はげっ歯類染みて巣穴を作ってそこに呼び込む。


「数は」

「三人」


 住宅街を抜けて、複数の通学路が交わる道路を進み、また別の住宅街へ。見覚えのある初見の街路を歩いて行く。


 時折すれ違う自動車や原付の明かりが見える度、呼び止めたい衝動に駆られる。通りすがりが全員味方なら、果たしてどれだけ心強いだろう。


 三人、やってやれなくはない。ミトラスもいるから絶対大丈夫だけど。


「可能なら全員怪我させて二度と近づけなくさせます。学生のいじめはそれで収まります」


 話し合いが通じるのは『人間』から。まだ『人類』の場合は動物と同じなので、暴力で躾をしないといけない。


 これをサボる家庭の餓鬼は、だいたいろくなことをしない。モラルの初めはノーからだということに、目を背けてはいけない。


 俺? 俺は違う。


「そんなことして、大丈夫なの……」

「大丈夫っす。いじめは犯罪だから、泣き寝入りしたほうが良くないっす」


 そうこう言っているうちに目的地が見えてきた。広さの割に街灯が一つしかない公園には、確かに三人の先客がいた。狭い光の下を取り合うように並んだ姿は、とてつもなくちっぽけだ。細さからして女。よし。


「あら、なんで一人で来てないの?」


 こちらに気付いた一人が声を上げた。それに反応して残りの二人がこちらを向く。男とのデートでもないのに先に来て待ってるとか律儀な糞だ。亜麻色の髪の毛と甘ったるい喋り方が、神経を逆撫でする。


「な、何の用ですか」


 相手の問いを無視して海さんが声を上げる。残りの二人は片方が髪を安っぽいスプレーで染めたような金髪で、もう片方は当たり障りのない、全く特徴のない女。恐らくこっちの特徴のないほうが頭がいいけど、この場合性悪と言い替えたほうが良さそうだ。


「こっちが先に質問したでしょ? ねえ? それってちょいおかしいんじゃない? ねえ?」


 チンピラ特有の同意を必死に促してくる聞き方。しかし海さんはうんともすんとも言わなかった。偉いぞ海さん。


「何の用ですか!」


 そして大声で言い返すと、金髪女は舌打ちをして彼女を睨みつけた。今にも襲い掛かりそうな空気だが、横に俺がいるせいか、手を出しあぐねているようだった。


 そして亜麻色の頭の奴も、何度かこちらをチラチラと見て、ようやく俺のことを思い出したみたいだ。


「遅いな。気付くの」

「……なんであなたがここにいるのかしら」


 いじめグループらしきものの中心人物、アヒルのような唇。何故か夜でもブレザー服。自称未来人の女が、動揺を隠しきれないまま呟いた。


「おまえこそこんなとこで何やってんの南」


 そう、南だった。俺と同じ学校で同じ部活に所属している性悪女こと南号は、何故だかこんなところで、こんなことをやっていたのだった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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