・そういう人々 前編
・そういう人々 前編
――上手くいかない、上手くいかない、上手くいかない。上手くいかない。
女がこの二日間、時間にすればおよそ三十二時間、平和な日々を失ってから、頻繁に脳裏に浮かぶようになった言葉だ。
どうしてこんなことに、なってしまったのだろう。女は自問した。自問をするとき、自責に繋がったことは一度も無かったが。
いつもの様に、仕事の昼休みに彼と昼食を摂って、携帯電話に送信されてくる映像―部屋に仕掛けておいた小型防犯カメラからの―を眺め、他の女共の動けない様子、或いは無駄な足掻きをして傷付く姿を、観察してささやかな『しぁわせ』を堪能するはずだった。
それなのに。
画面の中では侵入者が、他の女を次々と外に連れ出す様子が、移っていた。大柄な女子高生と猫だ。女にとって嫌な組み合わせだった。
最初はまだ良かった。椅子まで辿り付いて、その後はどうしようもなくなり絶叫する。
イヤホンを通して聞こえてくる、悲痛な響きで頬が緩む、その予定だった。ところが、である。
ドアが開き、デカい女が自分の棲家に、土足で入り込んでくる。
『猫が悼むように浚った奴の顔を舐め、女子高生が無言でそれを運び出す』
家中を歩かれて、最後にデカい女が外に出て、家に入らなくなる。
通報されたと分かった女は、上司に前々から用意しておいた辞表と、警察が自分を訪ねてくるので、昨日付けで退職したことにするよう、手書きで指示を書いたメモを渡した。
上司は物分りが良く、無駄口を叩くことなく、それらを受け取った。
それからは車に乗って、街を逃げることになった。マイカー通勤だったのが不幸中の幸いだった。そして逃亡の片手間に、女は自分の生活を壊した侵入者を、調べ上げた。
仕事用に買った自分のノートパソコンに、携帯電話の映像を送り、相手が一人でいる部分を切り取る。
獲物を調べるときに愛用している掲示板に、質問と共に貼り付ける。その掲示板の住人は、被害者のていを装っているが、全員加害者である。
そうして見つかった相手は、市内の貧乏低脳高校に通う問題児ということであった。何故そんなものが。
心当たりを探して、それはすぐに見つかる。彼が他の同僚たちと逃げ込む、不味い中華料理屋の娘と同じ学校だ。
娘のことは彼が逃げ込んだ始めの頃に、娘の親から聞いた。自分の母校は○○だが、娘さんは、という世間話の形で。
不味いチャーハンに毎日金を落としてやったのに、食事を食われないのが気に障るなら、食える物を出せばいいのに。
つまり娘がこの大女の知り合いで、自分にけしかけたのだ。女はその様に結論付けた。
街には警察が出回り、被害者たちの家には、警官が張り付いていたか。
女は『彼』がいない間に家に忍び込み、睡眠を取ると手近な国道から一度市外に出て、時間を潰してから学校に来た。
他の女共から奪った金で、まだまだ余裕があった。
このとき先程の結論を導き、今に至る。そして相手に責任を取らせようと思ったのだ。
帰りの学生たちの中にいるはずだ。校門から出てこないなら駐輪場、今日が駄目でも明日には。そう考えていた。
だから七時を少し過ぎた頃に、女は引き上げようとした。今日は『彼』を連れて帰ろうと、駅へ迎えに行こうとした。だが。
――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!
野蛮な怒声を上げて走ってきたのは、例の日本人の偽者。それは両手に持ったスプレーで以て、女の愛車。思い切り汚した。
それは女の怒りを急発進させるのに有り余る行為であった。時間にして五秒も経っていなかったが、怒りによりむしろ冷たくなった頭は、車に向ったまま決して自分のほうを振り向かない、目を合わせようとしない外人娘の怯えを、女に気付かせた。
気付いた瞬間、髪を掴んで頭を車の天井に叩きつけていた。スプレーを握り締める手に力が入り女の服も汚したが、それまでだった。
女は『彼』が喜ぶこと、『彼』のためになることは何でもした。体力づくりも。
力で押さえつけた外人娘の頭を、ポケットから取り出した車のキーで八回ほど殴った当たりで。
――そこのおおぉーーーー! 止めろおぉーーっ!
また誰か来た。女はドアを開けて車に乗り込もうとしたが、何故か外人娘まで連れ込もうとしていた。
安全を取るならそのまま逃げ去るべきであったが、慣れであり癖であるものが、体を動かしてしまった。女にとってこれまで何度も同性にしてきた仕打ちが、最も信頼できる動作であったから。
見れば声の主は直ぐ目の前。女はバッグから防犯スプレーを取り出し、翳していた。頭頂部のノブを押し込む。
「ちっくしょおおぉぉぉーーー!!」
漂う悪臭。上がる苦悶の声。ここでようやく女は、相手が探していたデカい女子高生であることに、気が付く。
家畜が苛立つときに出す声、閃く。今度は外人娘の顔に吹き付ける。殺虫スプレーを浴びた虫のようにばたつき、絶叫する。
もっと早くに使えば良かった。そんな感想を浮かべつつも、女は外人娘を車内に押し込み、自分も運転席へと乗り込み車を出した。
「こんの糞野郎っ!」
直後に衝撃が走る。視界の端でサイドミラーが砕け散った。
何か大きな石のようなものがぶつかって壊れたようだった。自分の愛車が汚され、壊され、追い立てられていく。
女は自分がいじめられているような気分になって、悲しくなってきた。
――上手くいかない、上手くいかない、上手くいかない。上手くいかない。
そう思いながら、女は『彼』が帰ってくるであろう駅へと急いだ。
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