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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
二年生開始編
153/518

・監禁

今回長めです。

・監禁


 彼女は考えた。どれ程こうしているだろうか。あれからどれ程の時間が、経過しただろうか。思う様に身動きが取れないまま、頭がじんじんと痛む。


 床を這う際に、たまに体をぶつけると、怖いくらいの異質な痛みが走る。


 今は何時だろう。目隠しをされて、見ることはできないが、埃の動きや室内の汚臭が漂い始めたことで、朝になっていることは分かった。


 カーテンを閉め切っているであろう部屋、明るさを感じない室内で分かるのは、この部屋が昼と夜に触れる場所であり、それ故に時間が伝わってくるのだ。


 最後に彼と連絡をしたのは何日前か。いや、いや、まだ二日か、三日前のことだ。そのはずだ。声をかけられるでもなく、男に襲われた訳でもない。


 確か先日の、仕事帰りだったはずだ。不意の衝撃に気を失って、この状態だった。


 痺れたと思ったはずなのに、どうして殴られた痛みが頭にあるのか、確認できない今、不安になるだけなので、なるべく考えないようにしているが、やはり気になってしまう。


「それじゃ行ってきまーす」


 明るい声が聞こえた。顔も知らない女の声。この凶行の張本人。軽い足取りで部屋を出て行く。ドアが閉まる音。


 遠ざかるヒールの音、距離、一人暮らしをしている彼女のそれと瓜二つ。彼女はここが、集合住宅の一室だと当たりを付けた。


 彼女は最初に目を覚ましたとき、不思議と気が動転するようなことは、なかった。


 まだ意識がはっきりしていなかった、思考が麻痺していたというより、それは虫の報せ、直感のようなものである。


 慌ててはいけない。騒いではいけない。刺激してはいけない。それが、脊髄が体に下した命令だった。


 彼女は優秀だった。


 抵抗と脱出の意思を見せることが、自分の命を縮めることだと分かっていた。だからほとんど口も開かずに大人しくしていた。


 それが気に入られる理由だったのだろう。基本的に手足を縛られこそするが、昨晩から食事のときだけは目隠し以外の拘束を解かれた。手と食器を使って食事をすることが許された。


 人形遊びのように手を取られ、上手く行かずに食べ物を零す度に上がる、女の嬌声。怒り出すかと思えばそんなことはなく、むしろ汚れれば汚れるほど、喜んでいるかのようだった。


『ああ起きた。ごめんなさいね、ちょっと用事があったから』


 彼女は今朝方までの、女とのやりとりを思い出す。世間話をするかのような、口振りだった。あまりにも平然としていた。


『彼と連絡できる携帯電話が欲しくて』


 曰く、彼には沢山彼女がいて、でも自分の電話だとメールも何も繋がらなくなった。


 だから彼と話せる電話が必要になったのだと。


 それが動機だった。彼というのが、どの彼か分からなかったが、恐らく知人男性の中の一人だろう。


 その誰かと女は関わりがあるようだった。少なくとも自分の彼とは、違うと思いたかった。


 彼女は自分がストーカー犯罪の巻き添えを食らったのだと理解した。相手の男が何人の女性を股にかけているのかなどは、この際どうでも良かった。


『電話だけ取れは良かったのでは。他の人の電話が一つ有ればいいのではないか』


 そう言ったが帰ってきたのは嘲笑だった。無知を確かめるのが愉快で堪らないといった、聞き苦しい笑い方だった。今も彼女の耳にこびりついている。


『一回かけたらもう繋がらなくなっちゃうもの。それに保険も要るし』


 前半は分かる。別人の携帯電話なのに、かけているのがこの女と分かったら、彼、というか誰だって着信拒否をするだろう。


 裏切られたと感じるだろう。

 事実こんな有様だ。


 彼女は理解した。自分は彼との一方的な、使い捨ての連絡手段のために襲われたのだと。それと同時に保険という言葉が引っかかった。


 引っかかったが、その答えは程なくして出た。初めての食事のときに。


『あなたは大人しくていいわね。これなら点滴もしなくていいし、頑張って食べさせなくてもいいかも』


 部屋の中には、先に被害に遭っていた女性が、複数人いた。それはすすり泣く声や、蹴り飛ばされて吐き出される嗚咽の種類で分かった。


 中には老人のように、上手く話せなくなっている者もいるようだった。


 保険とは有事の際に、自分の安全を保障するためのものである。


 だがこの場合、相手を襲ったときに、自分の安全を確保するために、相手の連絡先等を押さえるのではなかった。


 携帯電話を奪うときに、通報されないよう、相手も連れ去るのだ。


 倒錯している。


 彼女は相手が単独犯ではない可能性を考えた。本当に一人でこんなことが、できるものだろうか。


 協力者がいるのでは。見えない一室の中に、自分を含めた何人もの女性が、誘拐されている。逃亡も犯行も絶望的だった。


 女は風呂に入る前に、必ず他の被害女性にあることをしてから入った。その際には室内に酷い便臭が立ち込めた。何か紙が擦れるような音がした。新聞紙のようなものではない。


 何かをトイレに流す音。スプレーを吹き付ける音、テープを剥がす音。このときになって、彼女は初めて自分も着替えさせられていたことに気付いた。


 そしてずっと我慢していたことの無意味さを知り、逡巡の後、羞恥心を捨てた。


 今の所殺すつもりはないようだった。少なくとも他の女性を辱めることで、優越を感じているうちは。


 もっとも、何時死んでも構わないといった様子ではあった。


『悪いけどここに寝てくれる』


 女が彼女を寝かせるために床の物を動かしたとき、ガラスのようなものが、ぶつかり合う音がした。


 ようなというより、事実それはガラスだろうと彼女は思った。


 椅子に座らされていたとき、拘束を解かれた足を広げた際に、踏んでしまったのだ。もしも腹立ち紛れに力を入れていたら、足の裏はズタズタになっていたことだろう。


 女に体を横たえられると、先ほどのものに加えて、生乾きの血の臭いも届くようになった。


 雑な掃除だったのだろう。身じろぎすると腿に鋭い痛みが走った。ガラスで切ったのだ。寝返りを打つこともままならない。


 女が寝るときは、ヘッドホンから音漏れするほどの大音量で何、かの音楽を聴いていた。無防備だったが彼女たちにできることはなかった。


 部屋の間取りや壁を確かめたくとも、床には大量の割れたガラスが撒いてある。


 女がどうやってそんな中で、生活できているのか、分からなかったが、動けば全身が血塗れになることは明らかだった。


 動くこともできず、眠ることもできない。疲労と緊張から意識を保てなくなったときだけ、それに似た失神を手にする。そうして訪れた今日の朝。


 女は先ほど出て行った。毎日新たな犠牲者を出せる訳では無いようだ。しかし部屋がいっぱいになれば、そのときは。


 それに室内の呻き声が今日はしない。彼女は意を決した。抵抗しなければ、殺されるまでの時間が長引くだけで、決して助からない。


 幸いなことに、女に誘導されて寝かされた場所までの歩数と向きは覚えている。逆を辿ればテーブルまでは行ける。


 彼女は静かに、ゆっくりと身を起こし、反対側に倒れては目指す方向に這った。時にはガラスが刺さり、不安が増す。


 冷や汗が噴き出して、呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が早まる。体を動かせば嫌でも意識が起きる。


 恐れと悲しみと惨めさが、後から後から止め処なく襲ってくる。


 何かに頭がぶつかって、怖いくらいの痛みが走る。何が当たったのか。頬を摺り寄せて確かめると、それが椅子の足であることが分かった。


 椅子の角に頭を擦り付けて、目隠しを外したいが、上手くいかない。布で結ばれているのではなく、何かで固定されているようだと分かると、彼女は諦めた。


 台座の部分のあごを乗せ、体勢を崩さないように動かして着席する。それだけでどれほどの時間が掛かっただろう。


 女が帰ってくるのは夜だが、今日もそうだとは限らない。後はせめて外までの方向が分かれば。


 そう考えて彼女は耳を澄ませた。息を殺し、室内の音から意識を外し、ここが集合住宅の一室であるという仮説の下、必ず生活時間の異なる、誰かの物音が届くはずだと信じた。


 天井や床から響く音もある。意味がない。前から聞こえたと思った音に、首を巡らせ方向を確認すると、それは背後からだったことが分かる。


 大型の車の音、ごみ収集車だろうか。それは残念ながら、ずっと下からだった。


 せめて宅配か、訪問販売、この際空き巣でもいい。どこが前か、どこが外に繋がるかを教えて欲しい。


 何れもずっと下で音がしては去っていくばかりで、次第に彼女の内心に焦りが吹き上がってくる。


 恐怖心から数えなかったせいで、どれだけの時間が経ったか分からない。ただ、祈るような気持ちで音を待ち続けた。やがて。


 一つの話し声が聞こえてきた。近い。階段を上ってくる。どこか、どちらか。もしや女が戻ってきたのかと思い震える。


 しかし足音がしない。それはつまりヒールのようなものを、履いていないのではないか。出て行った女の動きで、ある程度の予測はできている。


 あとはもう少し近づいてくれれば。


 彼女は希望を抱いたが、急いで大声を出すようなことはしなかった。万に一つ、女が靴を履き替え、自分たちの様子を見に戻って来たという、危険があったからだ。


 途切れ途切れに聞こえる声は、誰かと話しているようでもあり、独り言のようでもあった。携帯電話で誰かと話しているのだろうか。


 何処の部屋にも入らない。宅配か。部屋の名前を照会しているのだろうか。


 ここまで、せめてこの階まで来てくれれば。彼女はじっと待った。どちらかといえば、好機を前に立ち竦むようなものだったが、声の主に変化があった。


 慌てるような声の後に、コンクリートの床を蹴る、平たい音が響いた。


 ――駆け上がってくる!

 ――この階に来る!

 ――近くにいる!


 声の主もあの女ではない。誰かが来たのだ。彼女は大声で助けを呼ぼうとしたが、思い留まった。


 もしも、もしも厄介事に巻き込まれることを、相手が嫌がって逃げたら、元も子もない。


 如何にか怪しまれずに、ここを開けさせなくては。どうやって。どうやって怪しまれずに助けを求める。


 この期に及んでわそのことを失念していたことに、彼女は叫びたかった。


 どうやって助けてくれと言えばいいのか分からないのだ!


「すいませーん、誰かいませんかー!」


 堪え切れず声に出してしまった。

 とにかく呼び止めなくては。気付かせなくては。

 

「すいませーん! 誰かいませんかー!」


 考えることで堪えてきた感情が、一気に溢れ出していく。もう耐えられなかった。


「すいませーん! 誰かあ!」


 それ以上声が出せなくなる。呼ばなくてはいけないのに、嗚咽に取って代わられてしまう。


 色々なこれまでの人生のことが、急に思い出されて彼女は俯いた。


 室内が静まり返る。それ所かさっきまでの声もしなくなっている。逃げられてしまったのだろうか。


 もう自分は助からないのだろうか。無念さから彼女が最後に、大声を上げようとした、まさにそのとき。



 ――にゃあ。


 猫の鳴き声がした。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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