・追跡者
・追跡者
「はあっはあっはあっ」
男は夜の闇の中を駆けた。追ってくる者の気配を、匂いを、意識を、いつまでも振り切れない。
あるのはただ、立ち止まってはいけないという意識だけだった。
「はあっはあっはあっ」
人込みが恋しかった。人の間に紛れることで、自分の姿を見失わせることができるから。
そして無関係な人々は、自分に対してどのような意思も向けないから。
「はあっはあっ糞がっ」
深夜一時。既に三十分以上彼は走っていた。目指す場所に行くだけ。それだけのことなのに、彼は不毛な遠回りばかりしていた。
追跡者に捕捉されたままでは、何処へ行っても自分の居場所を突き止められるだけだ。安全圏は一日と保たず、死地へと模様替えするだろう。
明るい所が恋しかった。
しかし行くことも出来ない。明るい所は目立つ。
食料を得るにも用を足すにも、自分の家以外では、コンビニか深夜営業の飲食店か、如何わしい店に行くしかない。それが夜ということであった。
不意に、空き缶が転がる音がした。
「――ッ!」
男は慌てて口元を押さえ、必死に息を殺した。自分の呪詛が現在地を教えることになってしまったのか。恐怖で身が竦んでいた。
自分でも何処だか分からぬ街角へ逃げてきた。家に帰れるかさえ覚束無い。
恐怖と警戒と猜疑心に充血した目で周囲を見回す?そこには何時かの彼と似た、春に浮かれる虫けらのような若者たちの姿があった。
彼らが捨てた空き缶の音だったのだ。男は安堵の息を漏らした。
その瞬間、携帯電話が鳴った。
逆に男の心臓は止まりそうになったが、画面を見るとそこには、知人女性からのメッセージがあった。
『追跡者』からではない。
彼にとっては幾人もいる、一方的な性及び金銭的な関係者の内の一人である。分かり易い言い方をするならば、何人もいるガールフレンドの一人であった。
男は呼吸を整え、手の震えを落ち着かせてから、携帯電話の画面を操作する。
タッチパネルを兼ねた液晶画面に、小刻みに指を這わせると、話すためだけの話を繰り返した。
男は調子に乗った言葉遣いを繰り返しながら、貶すと褒めるを繰り返す。
休符代わりにごめんという言葉が差し挟まれ、女性からは記号と写真多めの返事が、送られてくる。
いつの間にか男の顔には生気と笑みが戻っていた。ひたすらに調子のいいことを、好意を全面に押し出しつつ、相手に支払いを一円でも多く持たせるように、話を運んでいった。
曰く、ガソリン代は自分が持つ。
曰く、デート代を次のデートのために貯金する。
曰く、年間パスポートを買ったから金欠だ。等々。
三十分ほど悠長かつ無為に見える時間を過ごしていたが、彼が追跡者に見つかることは無かった。
女性との話が済むと、男は満足そうに携帯電話を、懐に仕舞った。
「これでいんだよ、これで」
男は勝ち誇るように呟いた。男は一般的に『モテる男性』のカーストに所属する人間である。
モテるとは他者を惹きつける、何らかの魅力があることを指す。そしてこの『モテ』にも当然ながら属性と階層があり、それぞれが密接に結び付いている。
属性は大きく分けると性的、経済的、交友的なものの三つである。
そしてそれとは別に二つの種類がある。表と裏。本物と偽者。勝ち組と負け組。真性と仮性。
自身がそれらの属性を持ちながら成長し、階層が上昇していく、生物の中心としての正しい『モテ』と、自身よりも何らかで劣る、または精神的に風下に立たされている相手を見つけては、支配的関係を持とうとする、或いは己をモテるかのように見せたい者たちと連帯し、寄生し、自分もモテのように振舞う者、またはその両方である『似非モテ』の二種類である。
男は後者であった。
砕けた言い方をすると、セレブとかエリートの人間ではなかった。
一般的男性の範疇を出ない、とにかく騒いでとにかく触ってとにかく褒めてとにかく関係を持つ、そして後々首が絞まるか首を絞めるかという、関係ばかりであった。
大統領より自信が有って、ウォンバットより警戒心が無い女性ばかりを狙って、貪るという男の人生は、彼自身にとっては、それなりに順風満帆であった。
本人はそう思っていた。
しかし、相手は人間である。
そういった立場の弱い人間の中には『弱い』という言葉の影に、とんでもないものを、忍ばせている者もいる。
むしろその傾向は、人類の歴史が積み重なって行くごとに、出現率が高まっているかのようでさえある。
男が彼女のようなモノを引き当てるのは時間の問題であったのだ。
「ん、誰だよいったい」
また携帯電話から着信音が鳴る。何だまたか、それとも別の女か。男は取り戻した余裕から、舌打ちをして画面を覗き込んだ。
文面は得体の知れないIDと、リンクが貼られたメッセージ。架空請求によく見られる文面だ。
彼自身はそういったサイトを見ないので、自分の電話にそういう物が、送信されてくることは無かった。
恐らく知人の誰かが引っかかって、連絡先を盗まれでもしたのだろう。迷惑な話だ。あまり意味のあることでは無いが、そのメッセージを削除する。
(待てよ)
男は携帯電話を見る。これを理由に電話を変えればいい。彼は追跡者の電話番号を、とっくの昔に着信拒否していた。
そして忌まわしい物となりつつある、この携帯電話を捨てたい衝動に駆られていた。
そうだ、そうしてしまおう。男はそう思った。
電話の機種を変更するか、または新しい番号を用意するか。
どちらにせよ別に事態が変わる訳でもないが、気分転換という名の現実逃避が思い浮かんだことで、男の気持ちは大分上向いていた。
もう一度着信音が鳴った。
男は軽い笑みを浮かべて舌打ちをしながら、画面を見る。さっきと同じ、女性を紹介するような内容。
さっきと同じ手順でメッセージの削除。そして。
もう一度、着信音が鳴った。
「は」
間の抜けた音だった。男の中から希望の泡が爆ぜた瞬間であった。男は咄嗟に辺りを見回して、再び歩き出した。そこだけは好判断であった。
もしやと思い、彼は一手間を加えた。
着信拒否、削除、着信。消すと送られてくる。ここまで間を置かず、粘着質なものだろうか。
そういう場合もあるが、男の中では既に予感は諦めにも似た、確信に変わっていた。
着信、削除、着信。着信拒否の工程を省き作業を限界まで速めたにも関わらず、着信はメッセージ削除の直後にやってくる。
バッテリーの減った携帯電話が、もう一つの心音が短く、等間隔で、けたたましく真夜中に鳴り響く。
何度も何度も繰り返される音に、男の心拍数は上がり続け、呼吸が乱れる。
今や削除完了と着信の通知は、男を連打するかのように音を発している。恐怖と疲労に屈した彼は足を止めると、手も動かなくなってしまった。
それは最後にメッセージを削除した瞬間だった。
その瞬間、彼は確かに聞いた。少し先から。
『着信音がした』
自分のものではない。何故。誰の。
冷静に考えれば、そこに赤の他人がいて、メッセージを受け取っただけ。
偶然男がそこまで歩いて来ただけのこと。彼が考えていることなど、有りえないはずなのだ。
例えば、架空請求のようなメッセージが、架空請求ではなく追跡者からのメッセージであったとか、着信音で自分の居場所を、探し当てようとしているとか。
そんなことは有りえないはずなのだ。
あくまでも、男の中では。
「はあ、はあ、はあ」
喉がからからだった。
全身から噴き出した様々な汗が、春の夜風に吹かれて全身を冷やす。
彼は液晶画面から顔を上げなかった。
それは日本人特有の自己防衛手段であり、現実逃避であり処世術であり、その実何の役にも立たない行いであった。
誰かに災いが降りかかる、自分は災難から逃れる、相手が不利になることを希求する呪いが、邪念の如き祈りが、彼のシャーマニズムなのである。
超常的な存在に選ばれるということの、捻くれた形であり、なけなしの信仰心の現れであった。
要するに『辛い目に遭うのは、自分以外の誰か別の人でありますように』ということなのである。
しばらくの間、男は完全に停止していたが、やがて導かれるように、指を動かしていた。削除。そして。
――
――――
――――――――ピロン。
男は恐る恐る、音のした方、すぐ目の前を、見た。
地面には一台の、携帯電話が落ちていた。
男は何度目か分からない周囲への警戒をし、しかし背後だけは決して確認せず、それを拾った。
電源が入れっ放しで、未だ操作が出来る状態で放置されていた画面には、彼のアドレスと番号が表示されていた。
液晶画面には未送信のメッセージがあった。
『家で待ってるから。帰ったらご飯食べてね』
彼の緊張の糸は、そこで途切れた。
「うわ、あああっ! あああーーーーーー!あぁーーあーーーーあああ!!」
『彼女』の携帯電話を踏み砕こうと、何度も地団駄を踏んだが、男は終ぞできなかった。
足が携帯電話を避けていたからだ。
男は力尽きてその場に蹲ると、やがて夜が明けた。
彼は街に人影が映り始める頃、当初の目的であったもう一つの家へと、一縷の望みをかけて、またいつ止まるとも知れない足取りで、進み出したのであった。
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文章と行間を修正しました。




