・払拭
・払拭
「ということがあったんだよ」
「通報したら良かったんじゃないかしら」
「父親だって知れたら逆に配送されるだけだよみなみん」
昼休みの部室。俺は昨日の一件を、二人に相談していた。
話してもどうにもならないのは、分かっていたけれど、言っておかないといけない。
「家に上げたくない」
「何かあるの」
弁当を広げて箸を動かしながら、先輩が質問してくる。統合失調症や内弁慶が暴れた訳ではないので、壁や床に穴とかは空いてないが。
「金目の物は何もない。ただアレは人の引き出しを開けて、しかも片付けない。最悪中の物が壊される恐れがある。それっぽいと思ったものも盗むし、何より些細なことで物に当たるんだ」
南が蔑むような目でこっちを見る。
こいつの人間の評価って分かり易くて、相手の人柄や能力で最低限の線引きをして、そこに人間関係や実績が足し引きされるのだ。
このところ俺の評価が、俺のせいでもないのに見る見る下がっているのは、少し悲しい。
「祖母の形見の品を盗まれたり、壊されたりしたら俺は怒る」
「具体的には」
「簪と腕時計と祖父の形見の懐中時計。それとお年玉の祝儀袋」
簪は異世界でドワーフの少女から貰った物も、一緒に仕舞ってある。
「祝儀袋?」
「戻したんだ。俺がずっと持ってようかと思ったけど、大事にするなら、動かさないほうがいいかなって」
最後の祝儀袋のときは、自分でお年玉を詰めさせられた。風情も何もなかったが、次の日受け取った祝儀袋には、小さく震える字で一言だけ添えてあった。
その一回きりだ。そんなことがあったのは。
もうその一回しかないのだ。
「俺にはアレを殴る理由があって、殴るのを止める理由がない。だから会いたくない」
「ねえ一つ聞いていい」
「何でしょう」
いつの間にか弁当を食べ終えていた先輩が、こちらを見ていた。話すときは基本的に、視線を合わせない斎が。
外して一度拭った後の、眼鏡のレンズの向こうには、責めるでも悲しむでもない、黒く大きな瞳がひたと女を見つめていた。
「どうして言ったの」
「それは、もしも俺が退学するようなことになったら、先に謝っとこうって」
先日退学退部するような事態は、避けろ言ってもらったばかりだから、罪悪感がある。でも正直自信がない。
「いらないよそんなの。馬鹿じゃないの」
「ちょっと、いっちゃん」
はっきりと切って捨てられた。小揺るぎもせずに、真っ直ぐ向けられた眼差しが、今はどこにも目を逸らすなと、訴えてくる。
「殴っても殴らなくても、きっとあなたは後悔するよ。だったら自分を裏切らないことをしなさい。私達の何かに背いたような気になられても、それは私達の気持ちじゃないから困ります」
「ちょっと斎!」
「私達ががっかりするようなことを、すると思ってるならお門違いです。あなたがそうしたいなら、そうしなさいとしか、私には言えません。それに責任は負えないし、私はそこまであなたの大事な人には、なれません。友達っていっても割と関係ないんです」
先輩はそこで一度区切ると、静かに息を吸った。
「今はあなたを大切にしなさい」
突き放されて、叱られた。それはそうだな。俺たちは友だちだけど、それだけだ。
『二人には悪いけど』なんて言うことじゃ、ないんだこれは。ひょっとしたら俺は、心細いから二人を巻き込みたかったのかも知れない。少しだけ視界が滲む。
「しっかりしなさいサチコ! 斎もそういう言い方することないじゃないの。サチコだってほら、え、ちょ、何も泣くこと」
「泣いてない」
ゆっくりと、何度か深呼吸をする。ああ、俺は気弱になってたんだなあ。
「気にしちゃ駄目だよ」
「あーーー! 始めからそう言えばいいじゃないのよもう!」
怒りながらも俺を案じる南の声と、気だるげないつも通りの、先輩の声。
飄々としているようで、俺たちと一緒だと素で接する南。
逃げ腰でいい加減なのに、今は逃げないでいてくれる斎。
よくもまあこんな奴らが、俺の友だちになってくれたもんだな。
「悪い。気にし過ぎた。もうあんまり考えすぎない、大丈夫だ」
そう言って、買っておいたお茶を飲んでから、弁当の残りを平らげる。今は気にしなくて良い。その時になったら、それからを考えよう。
「社交辞令じゃないでしょうね」
「たぶん」
南が心底苛立たしげに舌打ちした。今度暇なときにでも、差し入れをしよう。
そういや未来に帰るなら、年賀状出せないな。そんなことを考えていると、午後の授業のチャイムが鳴る。
「たぶんって、ああもうあんたのせいで、ご飯食べ切れなかったじゃない!」
「ごめんってば」
席を立って後片付けをして、部室を出ようとする。するとチャイムとは別の、お知らせを意味する音が、壁際のスピーカーから流れ出す。
だいたいが生徒の呼び出しの。
『一年○組。○○祥子さん。至急職員室まで来てください。繰り返します』
「サチコ」
振り向くと心配そうな南と、笑っている先輩の顔があった。今の二人の心の声を聞いたら、きっと幸せだろうな。
「ん。なんかあったな。行って来る」
軽く手を振ってから部室を出て、職員室へと急ぐ。不吉な予感はしているけど、逃げようって気にはならない。
大丈夫だ。もしもアレと、会うようなことがあったら、殴ろう。遠慮なく殴ろう。
――職員室。
やたらと机が敷き詰めてあり、教師一人一人が隣り合う、混沌と悪意の苗床。
とはいえ大半が授業に出払うので、ここに大勢が詰めるのは、朝と放課後くらいのものだ。何度か呼び出された経験があるので、担任の席は分かっている。
もっとも、日直の日誌を返すのもここなので、生徒は月一で来ることにはなるのだが。
「失礼します。臼居出頭しました」
「ん、ああ、○○先生。臼居君来ましたよ」
こちらに気付いた教師の一人が、担任に声をかけた。この人は確か数学の先生だ。
周りからは校長の腰巾着とか言われているが、生徒とも教師とも一定の距離を置いており、観葉植物や校長室にある熱帯魚の、水槽の手入れが好きという、変わった好人物だ。
担任でもないのに俺の事情を知って、名字は臼居で呼んでくれる。
温厚な人柄に加え、オールバックに臙脂色のベストと、服装は結構決まっている。だが職業上履かないといけない安っぽい室内靴が、美観を損ねていて可哀想。
「おお、○○。こっちだ。お前宛てに親御さんから、電話がかかって来てる」
それに対して担任なのに、俺のことが何一つ引き継ぎされてない男は、配慮の『は』の字もない様子で、俺を呼びつけた。
今時は携帯電話を持っているのが当然であるが、学校としては建前上、携帯電話の持ち込みは禁止であり、しかし没収もしないという半端な状態にある。
なので学校側からは、親御さんに携帯にかけろとは言えず、俺のようにそれを本当に持っていない生徒に対しては、取り次ぐより外にないのである。
「どっち」
「は?」
「いや、いい」
この分だと全部忘れてると見ていいだろうな。しかし親か、アレの親権は喪失していたはずだが。
「もしもし」
電話の受話器を受け取ると、担任は自分の授業のために、この場を後にした。
こういうときは付き添っておくものなのだが、代わりにさっきの数学教師、がそれとなく寄って来たので頭を下げる。
『もしもし。祥子さん』
聞こえてきたのは女性の声だった。先日別れたばかりの人。すっかり関係が決着したものとばかり思っていたが、まだやろうってのか上等だよ。
「その節はどうも」
昔は全員敵に回すよりはと、できる限りのことをしてやったのに、最期の最後でこれか。つくづくだな。
『あの、この前はごめんなさい』
「それで何の御用ですか。もう授業が始まってるんですがけど」
『あ、そう、そうよね、ごめんなさいあのね』
何だ。
『二十五日に会えないかしら』
「どうして」
『私たち、その日に引っ越すの。それで、その見送りに来て欲しいの』
…………………………………………なんだそれ。
「どうして」
『あなたに謝ろうと思って、それにあなたの妹のことも、紹介しておこうと』
…………………………………………なんだそれ。
『その、本当はそっちに出向くべきなんだけど、あなたも私とは会いたくないでしょ。だから、最低限で済ませようと思って』
「謝りたいならお好きに。俺を付き合わせるな」
そのまま受話器を置こうとすると、慌てた声が聞こえてきた。どうして切ろうってのが分かるんだろう。俺はもうお前の人生に付き合いたくない。
『待って。一度あなたの家に行ったけどいなかったの。あなたに責められた日のことを、周りの人にも相談してみたし、それでその、確かにひどいことをしたんだと、思う』
あの日のことを言い触らした挙句に、周りから言われて自分が肯定されなくなって、慌てて保身に走ったのか。なんて奴だ。
『私、私はただ『そんなことないって』私は悪くないって、頑張ってるって言って欲しかっただけで』
…………。
『それだけで、それしか考えられなくて、ごめんなさい』
そう仕向けたのは俺か。本当にどこまで行っても、地獄のような家だな。
「何時」
『え』
「何時だ」
『! っ一時! 一時に小田原駅を出て空港まで行くの』
「分かった。でも見送りだけだ。謝らなくていいし、紹介もしなくていい。じゃあね」
受話器を置く寸前、待ってるという言葉が聞こえたような気がした。何もかもがちぐはぐで、あべこべで、ふざけてる。俺の立場ってなんだよ。
「お疲れさま」
近くにいた誰かの声が拍子になって、俺はそっちに頭を下げてから、職員室を出た。
二十五日。あの人に会ったらそのときは、今度こそさよならを言おう。
そう考えながら廊下を歩くと、もう自分の足音しか聞こえなかった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




