少女検閲官
彼女の部屋には儚さが海水のように充ち満ちていて、僕はその雰囲気に溺れていた。
深く、ゆっくりと息を吸う。それでも体に空気が入ってくる気がしない。ここに居るだけで、どうしても胸が詰まって仕方がなかったのだ。
だからその息苦しさを何とか部屋の空気が淀んでいるせいにしたくて、僕は席を立った。歩いて窓辺に行き、冷たい窓のサッシに触れる。
年季の入った曇りガラスの向こうには、開ける前から既にうっすらと銀世界が見えた。
カビの臭いを鼻に感じながら網戸を動かすと、一面の雪野原の先に凍りついた海面が姿を現した。
「いい天気」
僕の後からついてきた彼女が、口の端から白い吐息を漏らしながらそう言って、窓枠から身を乗り出して空を見た。
僕は吹き込んでくる北風の冷たさも忘れて、その横顔を見つめる。
几帳面に編み揃えられた彼女の三つ編み。それはまだ幼い少女特有の硝子細工のような肌を美しく彩り、彼女が別世界の住人であるかのような雰囲気を醸しだしている。
その髪を蓄えている小さな頭には、毛糸で縫われたふわふわのニット帽が彼女の耳を寒さから守っていた。
それだけであれば何のことはないのだけれど、しかし、帽子に取り付けられた現実は、僕に向けて嫌な赤色の光を放ち続けていた。
ニット帽の側頭部に取り付けられた二つのライト。
これは帽子内にある無数の電極と連動している。それは、まるで彼女の心臓の鼓動のように、赤く残酷に脈動していた。
「やっぱり綺麗ですね」
そっけなく呟いた彼女の瞳に映るのは、濃い桃色をした天の川だ。近年、放射線の影響によりこの地域でも見えるようになった、特殊なオーロラの影。
自分の未来を大きく変えるであろうそれを、彼女は潤んだ瞳で見つめていた。
僕はその光景に妙に儚さを感じてしまい、漏れそうになる溜息を喉奥で食い止めた。
出損なった熱い息は、喉から胃の奥へと流れ込み、ひどい胸焼けを僕に感じさせた。
あのオーロラは運命だった。
彼女の人生を彩り、完結させるものだった。
また溜息が出そうになって、僕はこらえる。
口の端から溜息になり損ねた息が漏れる。
その白い息が僕の前を流れ、そして溶けていった。
さすがに冬の空気は寒い。
そう思って、僕は開けたばかりの窓を閉めた。
そうして振り返ると、僕の視線に気付いた彼女が、はにかむように笑んだ。
「そういえばですけど、先生。私、やりたいこと見つかりましたよ」
笑みを湛えているのに、どこか淡々とした口調。
それは彼女らしい冷たい魅力だった。
僕は彼女のこういうところが割と好きだ。
「なんだい、それは」
会話を円滑に保つため、僕は彼女に次の言葉を催促した。
すると彼女はその言葉を待っていたのか、矢継ぎ早に言葉を並べ始めた。
「はじめに考えたのは、途中で終わっちゃうかもしれないことはダメだなということです。例えば料理とか、読書とか、モノ作りとか。記憶がなくなるわけじゃないとしても、いつ私が自分を見失うか分からないですから」
「……うん。中途半端になってしまうかもね」
僕は肯定した。
「はい。だから仮に完成させたとしても、記憶を失う前と後では感じ方が違ったり、最初に作ろうと思ってたのとは別のモノが出来上がっちゃうかもしれないって考えたら、そういうのはちょっといやだなって思って。だから、これにしました」
と言って、彼女は首から提げたデジタルカメラを顔の横に持ってきた。
そして部屋の様子をレンズに映し、カシャリとシャッター音を響かせる。
「これなら一瞬で済みます。インスタントな手段ですけど、今わたしが大切に思っているものを確かな形で残せるのはこれしかないかなって気がして」
少女は、小さな手の平サイズのデジタルカメラのレンズを大切そうに指でなぞる。
「それに、もし『わたし』がいなくなっても記憶だけは忘れずにいられるのなら、写真を見直したときに何か感じることがあるかも、なんて思ったんです。そしたら、人格を失くすことだって怖くない。生きた証は残るから」
彼女は断言した。
それとも、怖くないという言葉で自分に暗示をかけているのだろうか。
「先生も、そう思いませんか?」
彼女に真っ直ぐ目を見つめて呼びかけられ、僕は柄にもなく困惑してしまう。
やはりこの子にも未練というものがあるのだ。
彼女は僕より年も体も一回り若く、まだ精神も肉体も何もかもが未完成だ。
そんな子供が果たして、本当に世のため人のためということでこんな風に自分を見限り、少ない時間で生きた証を遺そうだなんて、心から思えるのか。
本当に、生きることを心から諦めきれているのか。
少なくとも僕には出来ない。
「先生?」
黙ったままの僕に、少女が回答を催促する。
僕は、否定するべきだと思った。
彼女の本心を訊いてみたいと思った。
「なあ。心を失くすことが怖くないなんて、そんなのやっぱりウソなんだろ?」
と言ってやりたい衝動に駆られた。
……だけど。
僕は衝動を飲み込んで、言わなければならない言葉だけを言った。
「そうだね。私も、そうだと思うよ」
それはマニュアル通りであり、予定調和の台詞だった。
しかし、彼女はそんな面白みの欠片もない僕の答えを聞いて尚、満足そうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
彼女は笑う。
なぜなんだろう。
もしかしたら、彼女と出会ってから肯定しかしない、ロボットのような僕の回答には初めから何も期待していなかったのかもしれない。
そのとき、僕は彼女の頭部、生花の装飾がされたニット帽で、ライトの明滅間隔が目に見えて縮まってきているのを見た。
ああ、そろそろ時間切れだ。
だが彼女はそれを気にした様子はない。
アタリマエだ。彼女の帽子のライトは僕からしか見えない。
まるでウルトラマンのカラータイマーのように、ライトはチカチカと明滅する。
僕は何かを言おうとして、しかし何を言っていいのか分からなくなった。
そんな僕を見た彼女は、レンズをいじるのをやめ、僕の方へカメラを向けてきた。
「先生、写真、撮らせてください」
「……いや、私は」
写真に映るのが嫌いな僕は身をよじって嫌がろうとして、でもそれは許されていないことを思い出して、向き直った。
そして、しばらくカメラと向かい合う。
だが彼女はシャッターを切らず、不満げに僕へ声をかけてきた。
「先生、笑ってください。わたし、人間は笑顔しか撮りたくないんです」
きっと彼女から見れば呆けた表情で立ち尽くしているであろう僕に、少女は笑うように言った。
僕は「ああ、うん」と言いよどみながら、口角を吊り上げて、なんとか笑っているように見せようとした。
「なんです、その顔。笑っているつもりですか」
すると、眉根をよせた彼女に頬を抓られた。
「痛いよ」
「へんな顔するから」
痛みに弱く、つい涙目になった僕の顔がおかしかったのか、少女はにやにやと意地悪そうに笑っていた。
そんな彼女に影響され、僕の頬も自然と硬直が解かれていく。
その瞬間の顔を、カメラで撮られた。
「いい顔です」
カメラの履歴を探りつつ、「うん、本当にいい笑顔ですよ」と彼女が言った。僕は佇まいを直しつつ、そうしている自分に少し恥ずかしくなった。
彼女は変わらず愉快そうに笑っている。
「うん。こういうのでいいな」
安心したかのように、ほっと溜息をつく彼女。
「これで、いい」
これは諦めの言葉だと僕は思った。
写真を撮って満足するという、ちっぽけな充足感に浸って彼女は消えていくのだ。
なんのために。
……一体、何のために?
じっと彼女を見つめるだけの僕には、何一つ、分からない。
彼女の決断と、その心の使い方について、僕には何も言えなかった。
だけど。
その間にも、赤い燐光はその脈拍を早めていく。
カラータイマーは寿命を告げる。
彼女の存在を掻き消す、紅い色の終わり。
点滅は既に連続になりつつあって、僕は同じくらい自分の心臓も速くなっていく気がした。
チカチカチカチカチカチカチカチカチカ……。
「これがあれば、もういい」
最後の言葉を彼女が言う。
それと同時にニット帽の赤光が点滅をやめた。
心臓の脈動のように見えたそれは、今では宇宙に浮かぶ赤色矮星のように、薄暗い赤い光を途切れることなく発していた。
耳に付けたイヤホンから、予め設定してある電子音声が聞こえる。
受信開始、という機械の声。
その声の通り、少女は電池が切れたかのようにプツリと動きを止めていた。
崩れ落ちるように膝をつく彼女を、僕は咄嗟に両腕で持ち上げるようにして支える。
「……はあ」
今度こそ、僕は溜息を漏らしてしまった。
それは祖父から渡されたマニュアルに書いてあった、「彼女が僕を認識できない」状態である今この時だけ、許された行為だった。
僕は倒れこんだ少女の顔を、記録のために観察する。
彼女の目は虚ろになり、焦点が定まっていない。
口はだらんと開いている。
全身の筋肉は弛緩し、力が籠もっていない。
本能が最低限、内臓の活動維持などの生体機能は保っているものの、他の機能は完全に停止状態だ。
僕は鼻や口から漏れそうになる彼女の体液をハンカチでぬぐう。
あとで機械に繋がなければ、彼女は生きていられない。
なぜこうなるのか。
その原因は、彼女の脳にある。
今の彼女の脳は、この窓の外に見える桃色のオーロラの彼方から送られてくるメッセージを受け取るために、その全機能を受信のために解放しているのだ。
僕は少女の体をベッドに寝かせ、開いたままだった彼女の目蓋をそっと閉じてから、部屋を出た。
□
ストーブの臭いが染み付いた居間を抜け、狭く薄暗い廊下を通る。
そして古ぼけたカーペットの敷かれた階段を登ったところで、僕はようやくこの家の二階に辿り着く。
そこに至ると、この家の雰囲気はガラリと変わってしまう。温かみのある木造建築の面影は消え、壁一面に白い塗料が塗りたくられた部屋になる。
研究チームが来る前まであったはずの部屋ごとの区切りは工事によって取り払われ、驚くほど広い一つの部屋になっていた。
そうして確保された空間には、放射線を観測するためのアンテナや電磁波対策が施されたPC、人間ドックといった、いかにもな設備が群生していて、どこかの大学の研究室然とした空気がある。
「やあ、お疲れ様」
インスタントコーヒーを手に持った天文学者の老人が、役目を終えた僕に話しかけてきた。
彼が手に持っているのは簡易な脳波測定機械の端末で、少女のニット帽に取り付けられた電極から二階の本体を介した上で、脳波の情報を受け取っているものだ。
つまりは末端の端末。
ただ見るだけのためのもの。
僕と同じ下っ端の機械だ。
「いえ、私は何も……」
僕はコーヒーと端末を皺がれた手から受け取り、現在の状態を確認する。
「いやいや、君が居てくれて助かってるよ。メンタルケアとかはここに居るジジイたちには苦手でね。やはり若者には若者を当てるべきだよ」
そう言って愛想笑いを浮かべた年配の天文学者は、自らの担当スペースに戻っていった。他のメンバーは僕の方を見向きもせず、熱心にオーロラと少女の観測に励んでいた。
彼ら老人たちの多くが、僕の祖父の親友であり天文学のエキスパートと呼べる博士号取得者たちらしい。
だけど、大して勉強熱心でもないただの大学院生もどきの僕にとっては他人でしかなかった。
「来たぞ!」
そのとき、熱心に少女の脳波を観察していた学者の一人が、年甲斐もなく雄叫びにも似た歓声をあげた。
その声に煽られるようにして、他の学者たちも画面の前に転がり込む。
そこには、少女の脳が受け取った宇宙からのメッセージがデジタル変換されて表示されつつあった。
「いつもよりハッキリしているな」
「場所がいいんじゃないか。都会と違ってノイズが少ない」
「そういうものか?」
「科学的根拠はない」
「とにかく分析だ。これはなんだと思う」
「分かるものか。分からないから楽しいんだろう」
禿頭や白髪を突き合わせ、しかし瞳は少年のように輝かせながら、天文学者たちは意見を交わしていた。
僕はその様子を横目で伺いながら、少女の脳波状態を液晶画面で確認しようとして、躊躇した。
どんな状態になっているのかなんて、見るまでもなく知っていたからだ。
目を瞑っていたって、あの曲線の嫌な形は思い出せる。軽くトラウマになって目の裏に染み付いている。
それでも、確認しないわけにはいかなかった。
僕は液晶を見る。
人を診察したことのない僕ですら分かるほど、脳波は少女の頭の中でじたばた暴れていた。まるで痛みを嫌がって、駄々をこねている子供のようだった。
祖父が言うには、遥か太陽系の外から、大気圏に宇宙放射線によって開いていしまった隙間、つまりはオーロラを通って送られてくる、強力な未知の放射線が少女の脳波をかき乱しているのだそうだ。
これだけ聞くと危険極まりない災害現象に思えるが、不思議なことにこの放射線は彼女の脳にしか影響していない。
そして、その放射線に混ざって、謎のメッセージが送られてきていたのだ。
メッセージの存在に気付いたのは、彼女の両親が同じような現象に遭って脳死した後、なぜこの子だけが生き残れたのかと詳細な検査が行われている時だった。
病院内で再び人事不詳に陥った少女の脳波の乱れ方に、一定の法則があることに気付いた人物がいた。そいつは、身近にいた本業の医師であり天文学者でもある祖父にそのことを話した。
祖父は半信半疑ながらも少女の脳波を細かく調べ、そこに何者かからのメッセージが隠されていることに気付いた。
しかもその内容は、人類が未だ知らないような超技術、超法則、新しい粒子の存在などを示すものであった。
果たしてこれはなんなのか。
宇宙人から送られてきたものなのか。
あるいは、もっと別の存在からか。
事の重大さに気付いた祖父はとりあえず、この発見を自分の周囲だけの人間で独占しようと考えた。
メッセージ内の情報を全て自分の、ひいては祖父の主宰する研究室が独自に発見したことにすることで、自分の名声を確固たるものにしようとしているらしい。
だが、僕は祖父を責めるなんてことは、しなかった。
いや、できなかった。
祖父に逆らったことなんて、今まで一度もなかったからだ。
僕はマニュアルには必ず従う。
目上の人には絶対に逆らわない。
それが、僕という人間の、拭い去れぬほど矮小な本性だった。
生まれてからこの方、何の大志も抱かず漫然と勉強を続け、生きる意味すら分からず、でも何となく死にたくなくてここに至った僕は、そういう人間になってしまっていた。
つまり僕は、どうしてもそんな自分の生き方を変えられないがために、彼女を消費し続けてしまっているのだ。
□
あれから一日経って分かったことは、少女の脳に送られてきた新たな情報は、未知の素粒子の存在を表す式だったらしい。
だけどそんなことは僕にとってはどうでもよかった。
僕はひたすらに、彼女の脳波の安定を待った。
彼女の脳に送られてくるメッセージには周期がある。なので、時間と共にその影響が弱まっていけば、少なくとも一日で彼女の身体機能も回復するはずだった。
老人たちは既に少女の脳への興味を失い、受け取ったメッセージの更に詳細な解析をと躍起になって画面を睨んでいる。
僕は乱れた脳波が正常な位置に戻ったのを確認してから、二階から離れて階段を降りた。
同時に、別世界のように暖かな風景が僕の視覚野に戻ってくる。
木で出来た天井。
錆び付いた窓枠。
砂埃の溜まった二重扉の玄関は、冷気を室内に入れないためのもの。
家中に張り巡らされた銀色のパイプは、居間にある大きなストーブから暖気を分け与え、温もりを廊下の隅々にまで与えていた。
彼女が育ったこの世界は、こんなにも暖かい。
しかし、階段正面に設置された鏡に映る僕の白衣姿は、どこまでも冷たかった。
世界を侵食して歩く白い異物は、廊下を音もなく横切って彼女の居る寝室へと向かう。
傍目から見れば、僕の通った後のカーペットが凍り付いて、彼女の家を犯していくように見えるだろうか。
彼女の精神状態をなるべく元のままに保つために、この家が選ばれたわけだけど、それを僕は台無しにしているのではないか。
それでも歩みを止めない僕は馬鹿なのか、もしくは利己主義者なのか、あるいはタダの人でなしなのか。
そんなとりとめもない考えに浸りながら僕は寝室のドアノブを回す。
バネの緩んだ金属製のノブは軋みながら扉を開放し、彼女の部屋に僕を招き入れた。
少女は既に起き上がっていて、ベッドの上に座ったままボンヤリと外を見ていた。
僕に気付いた様子はなく、無言で夜空に浮かぶ青色の河を眺めている。ニット帽のランプはもう点灯していない。
彼女の雰囲気が違うのは、放射線に晒された脳が変質をきたしているからだった。
人格を形成する脳細胞の結合がアベコベになって、波を受ける前と後では確実に違う人格が生まれてしまう。
元の人格だった頃の記憶は正常に残っているそうだが、それはきっと、別人の思い出のように感じられてしまうに違いない。
だが、彼女が昨日までと違うのはそれだけの話ではなかった。
僕は気付いた。
あれだけ几帳面に、枝毛が見えないほどしっかりと編み込まれていた三つ編みが解かれ、今やヘアゴムで二つ結びにされているだけだったのだ。
それで、本来彼女が持つ髪の美しさがより強調され、少しだけ子供っぽさが薄れている。
僕がその髪に引き寄せられるようにして一歩を踏み出したとき、彼女が勢いよく僕の方を振り返った。
「あっ、先生! おはようございます!」
昨日までより一オクターブほど高い声が部屋中に響いたかと思うと、彼女はベッドから飛び降り、まるで飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってきて、僕の腰に抱きついた。
首から提げたデジタルカメラが腿に当たって痛い。
「先生~、わたしご飯たべたいなぁ。お腹減っちゃったあ」
欲求を誤魔化すことなく晒す彼女に、僕は言葉なく立ち尽くした。
豹変という言葉では足りないくらい、彼女の変化が大きかったことに胸が締め付けられる思いだった。
以前は「あまり喋らなかった子がよく喋るようになった」程度だったのに、今回の変貌っぷりは深刻だった。
「お腹、空いたのかい」
僕は彼女の頭、ニット帽に手を触れながら言った。にっ、と白い歯を見せて、彼女は笑った。それは、今の今まで僕が知らなかった彼女の表情だった。
「うん、美味しいのが食べたいなぁ」
この子は誰だろう。
残酷だとは分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
確かに外見は知っている。本当によく知っている。
それでもこの子は僕の知らない子だった。
「なら、ご飯にしよう」
僕は少女と目線を合わせるため、少し身を屈めて提案した。すると彼女は僕の頬に軽くキスをして、屈託のない好意を僕に向けて、こう言った。
「やったあ。先生、大好き」
□
まだ心臓がバクバクと悲鳴をあげていた。彼女の唇が触れた頬が、熱した鉄で焼かれたみたいにひりつく。
僕はそんな自分の節操の無さに呆れ、自虐的な気分になった。
何を期待しているというのだ。
そりゃ好意は素直にありがたいけれど、しかし僕は彼女を「消費」するだけしかできない人間だ。
そんな人間が彼女の心を受け取る資格なんて、あるはずがない。
「おいしいなあ」
僕の作ったクリームシチューを一心に喉に掻っ込みながら、単純な単語で感想を述べる少女。
ジャガイモのアク抜きを忘れてしまったので美味しいはずがないのだが、それでも彼女はおいしい、おいしいと連呼してくれていた。
「ごちそうさま!」
食べ切れなかったのか、平皿の端にシチューを残して彼女がスプーンを置いた。
「もういいのかい」
僕が片づけをしようと皿に触れると、その手を彼女が止めた。
「これ、先生の分だから」
「……私の分?」
言葉の意味が分からず僕が呆然としていると、彼女は一度置いたスプーンを再び手にとって、シチューを掬い上げると僕の口元に差し出した。
「はい、あーん」
ひどく気恥ずかしい行為を要求されて、僕は凍りついたみたいにカチリと固まった。
無意識のうちに周囲を見渡して、誰もいないことを確認する。だが心配しなくても、台所に監視カメラなどの類はない。
それに、彼女の要求には実現可能な限り応えなければならないと、マニュアルにも記されていた。
「じゃあ、いただきます」
彼女が口をつけたスプーンをくわえて、一口にシチューを飲み干した僕は、ぎこちない笑顔を彼女に向けた。
「ありがとう」
お礼を言うと、少女は満足そうにしながら、
「おいしかった?」
と、感想を訊いてきた。
「……」
予想外の質問に、僕は言葉に詰まる。
自分で作っておいて難なのだけど、やはり、とても美味しいとは言い難い出来だったのだ。
イモのアク抜きをしていないのはさっきも言った通りだが、実際に食べてみるとスープそのものも塩味がやたらと濃く、塩かバターの入れすぎなことが伺えた。
しかし今の僕に、否定の回答は許されていない。
彼女の言葉を否定する権利が僕には無い。
それはマニュアルにない。
「うん。おいしかったよ」
僕は心に蓋をして肯定の言葉を贈る。
会話における否定は絶対にしてはいけない。それが、僕が遵守するべきルールだった。
「先生が作ったんだから当たり前ですよ」
まるで自分が褒められたみたいに、彼女は自慢げに胸を張る。その頬にシチューがついていたので、僕は白衣のポケットからハンカチを出して拭ってやった。
「きゃ」
くすぐったそうに彼女が目を細める。
こうしていると、娘ができた気分だった。
昨日までの彼女だったら、絶対にそんなことは思わなかったのに。
「あ、写真、撮らなくちゃ!」
突然、思いついたかのように彼女が立ち上がり、首のカメラを手に持ってキョロキョロと周囲を見渡した。
「これだ」
そして、なぜか水道の蛇口に目をつけ、カメラを向けた。古いステンレス製の蛇口からは絶えず水滴が漏れていて、ひたひたと聞こえないくらい小さな音を立てていた。
彼女は慣れた手つきでカメラを傾け、一心不乱に蛇口を撮影し始めた。カメラを操作している間だけは無言になって、顔をしかめて被写物との距離を測っている。
「あ」
その姿が以前の彼女と重なって、僕の口から思わず音が漏れた。
何かを言いかけた僕に、彼女は不思議そうな視線を向けている。僕は誤魔化すように頭を掻きつつ、そっぽを向いた。
「む?」
しかし、今の彼女がそれで納得してくれるはずがなかった。目を輝かせながら、いま何を言おうとしたの? と訊きたげな顔をしている。
「……」
思わず「何でもない」と言おうとした僕の喉を、本能という名の鎖が締め付けた。
こんな何でもないような「否定」すら僕にはできないのだ。
自分の無駄な几帳面さに腹が立つ。
いっそのこと、もっと適当な人間だったら彼女と接することはこんなに辛くはないのだろうか。
□
「諸君」
数週間ぶりに顔を合わせた祖父が発した第一声がそれだった。
「太陽の磁場が復活した。活動周期が予想よりも早かったようだ。つまりは、恐らく先日のが最後のメッセージとなる」
ざわ、と空気が揺れ、場は騒然となった。
無理もない。
これで最後と言われれば、そうだろう。
僕にしても、さすがに驚きが隠せなかった。
「では、今までに発見された数々の新発見……そして、現在調査中の未解析部分で終わりだということかね」
老人の一人が眉をしかめながら言う。
祖父は背筋をのばしたまま、質問者の方に目だけを向けた。
「次の周期で、放射線の中にメッセージがなかった場合はそうなる。少なくともあと数日、受信状態が来なければ撤退だ。どちらにしろ、今回ので彼女の脳はもう耐えられないことが分かった」
「彼女が限界?」
「ああ。むしろ、四回も脳波を乱されて人格を保っていたことが奇跡だ。もっとも今は、かなり破滅的状態のようだが」
僕は部屋の隅でその話を聞きながら、ひとり静かな高揚感に酔っていた。
これで終わり。
よかった。それなら彼女は消えずに済む。
元の彼女はもういないけど、磨り減りすぎて人格が消えるよりずっとマシだ。
限界だろうと、そうでなかろうと、本来は来るはずのない終わりがきた。
それだけで、どれほど得難い幸運だろう。
彼女は彼女をやめずにすむのだ。
「それで、ここからが大事な話だが」
祖父はそのまま言葉を続けようとしたとき、僕は定期の時間が来たことを白衣に入れた端末のバイブレーションで知った。
時間だ。
僕はいつも通りに立ち上がって、祖父たちが集まる脇を一礼しながら通り過ぎようとした。
大事な話というのが何なのかは気になるが、どちらにしろほとんど雑用係の僕には関係の無い話だ。
そう思いながら階段を下ろうとしたところ、祖父が僕の肩を掴んで止めた。
「こら、どこへ行く」
咎めるような目をされて、僕は緊張する。
祖父が僕を呼び止めるなんて、今までにあったことだろうか。
「休憩明けです。彼女の定期健康診断に行きます」
僕は幼い頃から教え込まれてきた通りに、偽ることなく、簡潔に内容を述べた。
祖父は意表をつかれたように眉を寄せ、呆れたように息をついた。
「……そうか」
祖父の「そうか」は、もう行っていい、という合図だった。
「では……」
腰を低くして身を引く僕を、祖父はもう引き止めなかった。
□
「それでね、たくさん写真をとったの」
身振り手振りを交えながら、少女が今まで一人で何をしていたのかを僕に語っている。
「一番とったのは外の写真かなあ。空もキレーでしたけど、海も好きですね。水平線が見えてたら、なおいいです。あ、でも、雪のかけらもいいなあ」
とにかく自分の好きなものを、また自分がカメラに収めたものを、指折り数えながら挙げていく彼女。
風景を愛する彼女だが、生まれてから故郷を離れることはなかったらしい。
家が農家であったため、雪深いこの土地では農地の手入れを欠かすことができない。彼女の両親はたった二人でこの広大な農地を管理していたようなので、遠出をする機会に恵まれなかったのかもしれない。
僕はふと、もうすぐこの縛られた生活から解放される彼女に、「どこか行きたい所があるか」と訊いてみたいと思った。
だが、こちらから質問をしていいかどうかは、マニュアルにはなかった。
ないということは、やってはいけないことだ。
「でも、やっぱり一番素敵なのはオーロラだなあ。今までみたことない色のオーロラだし、まるでコンロの火みたいに透き通ってて、すっごくキレイ」
彼女はカメラに保存した画像を見つめながら、ふと視線を窓の外に逸らす。しかし僕はそんな彼女の言葉はどこか上の空で、考え事にふけっていた。
きっと今の彼女なら、きっと嬉々として自分の行きたいところを語るだろう。
だけど、昨日までの彼女なら何て答えたのか。
今の彼女のように、満面の笑顔を浮かべながら夢を語るだろうか。
あるいは、更にそれ以前の、引っ込み思案だった頃の彼女なら。そして更にその前の、僕と出会う前の彼女ならば。
僕の出会ったことのない、彼女は。
「先生も、そう思いませんか?」
その澄み渡った声に、僕は一気に現実に引き戻された。
「ね」
無邪気な疑問を向けてくる少女の顔が、目の前にあった。
それはいつか、以前の彼女にされた質問だったか。
あのときと同じ声が聞こえた気がした。
「オーロラ、きれいだなあって、思いません?」
僕が見たくない風景を、綺麗だと言う彼女。
僕はそれで思い出した。
いつだって、そうだった。
彼女は僕の見れない物を見て、触れられないものに触れる。
なんてことはない。
以前も今もない。
彼女は、どこまでも彼女じゃないか。
何を悩んでいたのだろう。
そう思うと、なにやらさっきまで別人扱いしていた自分が、ひどく恥ずかしかった。
「ああ。綺麗だって、思うよ」
僕は初めて、空を見上げてそう言った。
肯定の言葉だったが、自分の心の内からきちんと出た言葉だと思えた。
「君は風景が好きなんだな」
思わずそんな言葉が口をついて出た。彼女はそれに大袈裟に頷いて、「はい」と元気に返事をする。
「風景も好きですけど、先生も大好きですよ」
それはとても自然なことのように、彼女が言った。
「そうか」
受け流すように、僕は肯定する。しかし彼女は、それだけで言葉を止めるつもりはないようだった。
「ううん」
彼女はなぜか、自分の言ったことを取り消すように首を横に振る。
「先生、わたしと付き合って下さい」
そして真剣な眼差しで彼女は告白した。
「一緒にいたいんです。前の私も、その前の私も、そう思っていました。でも言えなかった。でも、今は言える。今だからだから言えることだから、わたしは言っておきます。先生、わたしはあなたが好きです」
その言葉は僕の目から飛び込んで来たように感じた。
「先生はどうですか。わたしのこと、好きですか」
僕は言葉に詰まる。
胸も詰まる。
「……」
答えられない。
でも、僕は頷かなければいけない。
彼女の提案は全て肯定するべきだと、マニュアルにはあったからだ。
例えそれが、自分の本当の意思でなくても肯定しなくちゃいけない。そして、肯定してしまう。
それが、僕という人間の本性のはずだった。
だけど答えられないのは何故なんだろう。
それは、それは、それは、それは。
それは?
彼女の顔を見る。
ちがう。
そこじゃない。
その上だ。
そこには花の臭いのするニット帽がある。
視線が上がる。そこにあるのは側頭部の二つのランプだった。それがおかしい。
それが目の毒になっている。
様々な言葉が流星のように点いては消え、そして、そんな中で、最後に残った言葉があった。
「……残酷だ」
赤が点いている。
赤のランプが、柔らかに点いていた。
せっかく希望が見えたのに、終わりが来てしまった。
僕は泣きそうになって、彼女を自分の腕の中に抱き寄せた。
「先生?」
何が起こったのか分からず、彼女が声をあげる。
抱き寄せた彼女の心臓の鼓動が、僕の胸に響く。それと同じ早さでランプが点灯する。
来てしまった。あと一日で彼女の終わりは避けられたのに。あと数時間で終ったのに、宇宙人のメッセージが一方的に押し付けられるようにして、来てしまった。
僕は考えた。
僕にしかできないことを。
なにができる。
僕は彼女のために何ができるんだ。
彼女を殺さないために、彼女の人格を守るために、一体僕は何をするべきなんだ。
僕は考えた。頭の中を必死で探した。
今まで何となくこなしてきた、「できそうなこと」じゃなく、行動に移せることを。
可能性を探した。
このままでいいのか。
消費し尽くされて、消えてしまう彼女を見送るだけでいいのか。
いいわけがない。
誰にも知られないまま、ただ廃人になってしまうこの子を見過ごせるはずがない。
彼女の存在が、このまま世界に飲み込まれて消えていき、意味のない生で終わってしまっていいのか。
彼女ほど素直で素敵な女の子が、路傍の石のように無くなってしまうなんて、そんなの、あまりにもアイがないじゃないか。
なら、せめてどこかへ逃がしてやればいい。
オーロラの見えないところまで行って、そこで、彼女が今まで見つけてきたものを世間に公表して。
彼女の生きた意味を、残して。
残して。
で、どうする?
それから、どうする。
彼女はそれを、望んでいるのか?
「点いてしまったか」
僕がそこまで想像したとき、背後から、あまり聞きたくない声が聞こえてきた。
「しかし、喜ぶべきことではないのだろうな」
振り返るまでもない。僕は彼女を抱きしめたまま、目の前にある窓に映った祖父の姿を見た。
「お爺さんは誰?」
直接会ったことはない彼女が、祖父に問うた。
祖父は年老いてなお逞しい右腕を彼女の頭に伸ばす。
僕にはその光景が窓の反射越しに見えていた。
「医者だよ」
祖父はそう言って、彼女が被っていたニット帽を脱がす。
その予想外の行動を、僕は何も言えずただ見守っていた。
電極でありアンテナの役目も果たしていた帽子を奪われた彼女は、一瞬だけ目を白黒させたかと思うと、力が抜けたかのようにゆっくりとうなだれ、気を失った。
祖父は帽子を胸に抱き、僕の肩に手を置いた。
「この気絶は電磁波から解放されたショックによる一時的なものだ。一時間もすれば目を覚ますだろう。その間は、脳が眠りについているので受信状態に移行することはない。このニット帽を被ってさえいなければ、少しはまだチャンスがあるかもしれない」
祖父は僕に道を示すように、そんなことを言った。
「それでお前はどうしたいんだ」
そこで初めて僕は祖父の方を振り向いた。
問いかける瞳は、真っ直ぐに僕を見ていた。
期待をかける目。
十数年前に向けられたのを最後に、二度と向けられることのなかった視線。
懐かしくて、重たい雰囲気。
「……おじいちゃん」
僕は、子供の頃のように祖父を呼んで、答えに詰まる。
「僕は……」
僕がいま、やるべきことってなんだ。彼女の尊厳を守ることか。それは本当に僕にしかできないことなのか。
そう、例えば。
このまま、彼女と共に、どこかに逃れたとしていったいどんな未来がある。
例えば彼女と隠遁生活を送り、僕は働いてお金を稼いで、彼女にごく普通の生活を取り戻してあげながら、幸せに暮らす、とかか?
例えば自分を失った彼女に絶望して、失望に包まれながら、悲しみを背負いながらも生きていく、とかか?
あるいは彼女の遺伝子から新しい命を育んで、本当に彼女が消えてしまったわけじゃないんだと思いながら、その子を育てながら生きていく、とかか?
そんな未来がなんとなく予想できる。
僕の行動でこれから起こるかもしれないことたち。たくさんの未来。
でもそれらは、全て彼女のためにやることじゃない。
僕のために、僕が行うことだ。
僕が僕を慰めるために、することだ。
それはなんて、なんて、なんて独善的だろう。
自己満足でしかないじゃないか。
「じいちゃん、僕には、何もできないよ」
生まれつきの暗い瞳で、僕は祖父を真っ直ぐ見据えた。
「僕にできることは、初めから何もないんだ」
僕は無能だ。ただ人に言われたことに頷き続け、努力もせず、漫然と今を過ごしてきたような、下らない人間だ。
そんな僕なんかにできることなど、結果は行動する前に見えている。自己満足以上のものを、彼女に与えられるはずがない。
自意識を慰めるだけの行動。自分のためだけならそれでいいが、とても人を救うことなんてできない。
「やれることはあっても、できることなんてないよ」
僕に道を示した祖父は、そんな僕の意志を聞いて、なぜか悔しそうに唇を噛んでいる。
それは僕が生まれてから初めて見た、彼が感情を発露している顔だった。
「実に賢明な解答だ」
祖父はそれだけ言うと手に持ったニット帽をベッドの上に放り出し、踵を返して、僕に背を向けた。
「貴重な最後のメッセージだ。眠りについたままでは不安定になる。帽子を被せた上で、二階にまでこの子を運べ。ドッグに入れて経過を待つ」
いつも通りの命令に、僕は「はい」と肯定の言葉を返す。
「それと……さっき言えなかったことだが。昨日、この少女が受け取るメッセージは、正真正銘、地球外の知的生命体からだと判明した」
祖父が付け加えるように言う。
「未知だった放射線の実態が分かり、発信源を逆探知したのだ。その結果、彼らの惑星はどうやら我々の太陽系と同じ、天の川銀河内に所属しているとも分かった。分かるかね。つまり彼女のもたらしてきたものは、掛け替えのない、まぎれもない、人類全体の宝だということだ」
人類の宝。
僕は、彼女が触れてはいけないもののように思えてきた。
「そのため我々研究チームは、今までの発見を全て彼女の名前で公表することにした。彼女の決意と類稀なる才能と哀れむべき運命は、歴史に残されなくてはならない。あらゆる天才たちと共に、天文学史に永遠に刻まれるべき」
そこで言葉を区切って、祖父は息をついた。
「偉大な名前だ」
祖父が何を思って、そう決めたのかは分からない。
「お前は知らないだろうが、彼女には初めに何が身体に起こっているのか、そしてそのメッセージの重要性も、説明してあった。実験に参加することで、自分がどうなるかも、な。それでも、彼女は自分の意志でこうなることを選んだのだ」
そして祖父は最後に、「だから、お前の選択は、図らずも彼女の意志を守る結果になった、というわけだ」とだけ言って、黙り込んでしまった。
「……」
僕は祖父の言葉の意味を考えた。
彼女の意志を、僕が守った?
違う。
そんなんじゃない。
僕はそんな殊勝な考えは持ち合わせていない。ただ、僕は僕の無能さを受け入れただけ。
それに、何より、おじいちゃん自身も証明してくれた。
彼女の生を無駄にしないことについて、やっぱり僕は何もしない方がよかった。つまり、これでよかったのだ。
僕は窓の外を見た。
奇妙な色をした天の川が、水平線の果てまで蛇行しながら伸びている。
「だが私は、お前の存在が彼女の心の救いになっていたはずだと思う」
頭の後ろから、祖父の声が掛けられた。
僕が振り返る前に、祖父は部屋から静かに出て行ってしまった。
□
二階のベッドに寝かされた彼女は、棺に納められているみたいだと思った。
静かな眠りに包まれた彼女は、再びニット帽をかぶせられていた。彼女の長い髪は最早ゴムで留められることすらなく、ベッドの上に羽のように広がっていた。
その上から、機械が彼女を飲み込んでいくように覆い隠していく。
やがて僕の立っている場所から見えるのは、足の先と髪の一部だけになった。
「脈拍、心拍安定。あと一五四秒で受信完了予定」
「脳波異常値、前回の数値を超えたぞ。イオンによる脳細胞結合維持も限界値」
淡々と事実を告げる声が、どこかから聞こえてくる。
興奮しているような、もしくは残念がっているような、そんな声。
誰の声かは知らない。
分かったとしても、他人の声だ。
僕は開けっぱなしの蛇口のように入り込んでくる声を全て聞き流す。
意識するのは目の前の現実だけ。
それ以外はもう、どうだっていい。
「あと一〇〇秒」
「装置Aには反応なし」
「あと六〇秒」
「依然反応なしか?」
「あと三〇秒」
「信号確認できず」
「まずいな」
「おい。止めた方がいい」
「無駄だ。今更どうにもならん。帽子を取って、ドッグから出したところで、今のあの子に逃げ場など、この地球上にはどこにもない」
「あと五秒」
「……」
「三、二、一、時間だ」
「信号は?」
「脳波異常は今までで最大だが」
「いや待て。こっちの数値が増大している」
「本当か」
「彼女の記憶分野への干渉かもしれない」
学者の一人が何かを発見したようで、祖父たちはその男の周囲に集まっていく。
場の視線が彼女から離れたことで、僕はようやく彼女の傍に行くことを許された気がして、おぼつかない足取りで歩み寄り、彼女の入った人間ドッグに触れた。
覆いかぶさるようにして彼女を閉じ込めていたドッグはゆっくりとベッドを吐き出し、彼女の穏やかな寝顔を僕の前に差し出した。
ロングヘアになった彼女。
また、雰囲気が変わったと僕は感じた。
いつものニット帽についたライトも、今までの暗く陰鬱な赤ではなく、今は鮮烈で鮮やかな黄金色に輝いている。
それはまるで、人の領分を失って、生ける神秘となった彼女を象徴するかのようだった。
そうしている内に。
彼女の薄紅色の唇が突然、開かれた。
「……ア」
零れ落ちるように音を漏らす。
ただ一言、「ア」、と。
「A――」
呟くように響く単音。
しかしその音は一言で終わらず、続けざまに紡がれた。
「A、A、A――、A、A、A――」
呆気に取られて、その場にいる全員が立ち尽くす。
「AAA、AA――、AA、AAA」
虚ろに目を開けながら、ロボットのような動きで彼女は上半身を起こした。
その口からはずっと、「あ」という言葉だけが吐き出されていて。
やがて僕はそこに、旋律めいたものがあることに気付いた。
「……歌?」
感情がこもっていないから分かりずらいけれど、それは確かに歌のようだった。
「歌だ!」
瞬間的に事態を把握したらしい老人の一人が、鞭で首筋を弾かれたように立ち上がり、叫んだ。
「歌だって?」
「なんだそれは、歌?」
「歌だよ! 分からないのか、君たち。宇宙人は、我々と同じように空気の振動で言葉を交わすのだということじゃないか! しかも、娯楽の概念まで持っているぞ!」
数秒間の沈黙の後、「おお……」と歓声のような溜め息が老人たちの間に流れた。
「なら、相手は全く未知の存在などではなく、違う星に住む外国人ぐらいに考えられるのか?」
「それはまだ分からない。しかし、少なくとも彼らと我々は共通の意思交換手段と、概念を持っている。友好を結ぶことは、相互の努力さえあれば、きっとできるだろう」
再び歓声が巻き起こる。
まさしく歴史的瞬間に、彼らは沸いていた。
祖父や他の人間たちの、彼女の未来を犠牲にして得られた、新たな希望を歓迎する言葉が耳から滑りこんでくる。
だけど僕には、どうしても虚しく思えた。
最後の、彼女の「人」としての何かを捧げた引き換えに貰えたのが、ただの歌だということが胸にしこりをつけていた。
目の前には「AA、A――」と途切れることなく口ずさむ彼女がいるだけなのが淋しかった。
「主任」
僕はハッキリとした発音で、祖父の役職を呼んだ。
祖父は学者たちの輪の中に居たが、僕の呼びかけに驚いて振り返る。
「どうした」
大いに盛り上がっている学者たちの輪から抜け出した祖父が、僕の隣に立って彼女の歌う姿を見た。
僕は自分より背の高い祖父の顔を見上げて、問う。
「いいんでしょうか」
質問の意味が分からなかったのか、祖父が首を捻る。なので僕は、自分の目の前にいる彼女を見ながら、再度、言い直した。
「彼女はもう、触れてもいいものなんでしょうか」
□
全てが終わった後、僕はマニュアルから解放され、用済みとなった。
発表会や表彰会などに呼ばれることもなく、初めから居なかった人間として扱われていた。
でも別に構わなかった。
僕にその場は見合わないと自覚していたからだ。
そんなことより、取り残された彼女の世話の方がずっとずっと大事だった。
僕は結局、未だにあのときの返事を言えないままでいた。
それだけが心残りだとは言わないけれど、抜け殻となった彼女の介護を任されたとき、少しだけホッとしたのを覚えている。
いつか約束を果たせる時が来る、なんて甘い事は考えちゃいないけど、このまま彼女と別れてしまうというのもまた考えられない事だった。
それから、僕にとっては生まれて初めてのルールもマニュアルも規則もない生活が始まった。
だけどやることは大してない。
毎日、簡単に家事をこなしながら彼女と穏やかに過ごすだけ。
今までの人生と比べても、難易度はそこまで変わっていない。
ただ一つだけ、この胸に残った大きな罪悪感と戦い続けなければならないことを除けば、だけど。
僕は正解した。
彼女の心は彼女が思う通りに使われて、成功を奏した。
だけど、僕は逃げたのだ。
彼女からも、自分からも逃げて、それが正解だと思い込んで自分を守ったのだ。
自分にできることを放棄した罪。
エゴイストにならないようにして、僕は結局、エゴイストになってしまった。
だからその罪は償わなくちゃいけない。
逃げたことへの贖罪は、しなくてはいけない。
「A、A、A――」
リビングルームから彼女の歌が聞こえてくる。
僕は使用済みの茶葉を片付けた後、洗濯機のスイッチを入れて彼女の元へ向かった。
夕方の陽が差し込む八畳のリビングには、一つの安楽椅子がカーペットの上で外がよく見えるように配置されている。そこに、彼女は行儀よく腰掛けていた。
「A」
長い髪をばっさりと切り、ショートカットにした彼女の顔は変わらずの無表情。
彼女は温かみのない冷たい視線を、ずっとカーペットに刺繍された花へと向けている。
「AA、A」
彼女はもうニット帽を被ってはいなかったが、その胸には使い古されたデジタルカメラが変わらずあった。
衣服が変わり、髪型が変わり、住まいが変わっても、彼女はカメラを手放さない。
時折、何かに憑かれたようにカメラを構えてはいるが、シャッターを切ったところは見たことがない。
「A――」
ひび割れてしまった彼女。
これでも想像していたよりは症状が軽く、人間としての最低限の常識がある。
歩こうと思えば歩けるし、喋ろうと思えば喋れるのだそうだ。
ただ、彼女からは、「現実と関わろうとする意志」が無くなってしまった。
「天の川銀河に橋を渡した、彗星から生まれた星の子」
世間は彼女をそう呼んだ。
しかし、そんな彼女へ最後に与えられたのは、この1LDKの狭いマンションの一室と、月に数万の生活費。
そして、世話役に一人のダメ人間。
たったそれだけだった。
「A――」
彼女は掠れた声で歌をうたう。
「A……」
僕は彼女に使い尽くされなければならない。
今度は僕が『消費』される番だから。
僕は彼女の目の前にある小テーブルに、淹れてきた紅茶のカップを置き、安楽椅子の向かいにある背もたれのない椅子に座った。
そして、誰ともなしに語りかける。
「私が君を使った分だけ、君は僕を使う権利がある。私が君を使い尽くしてカラッポにしてしまったように、君は僕が磨耗し消えて無くなるまで使うことができる」
「A――A」
「ずっと、ここにいるから」
「……」
「だから」
……だから。
許して欲しいのか。
僕は、彼女にどうして欲しいのだろう。
「A――」
ここまで語りかけても、彼女からの反応はなかった。
当然だ。
そもそも彼女は僕を見ていない。
僕は自嘲気味に、苦く笑った。
結局、あれだけ自己嫌悪しておいて、こうやって自己満足なことしかできずにここに居る自分が可笑しくて仕方なかった。
僕は実のところ、こうやって彼女を独り占めしたかっただけなんじゃないかとさえ、思えた。
そのとき、小さく「かしゃり」という音がして、僕は驚いて顔をあげた。
そこにはカメラを構えた少女がいた。彼女は僕にレンズを向けて、シャッターを切ったのだ。
無表情のまま僕を撮った彼女は、やはり興味なさげに手に持ったカメラを放した。
首からひもで提げられたそれは、床に落ちることなくダラリと宙に垂れる。
胸が一杯になって、僕は何か言おうとした。
しかし彼女は視線を僕から逸らしてしまった。
ふと誰かに呼ばれたみたいに、窓の外を見ていた。
僕もつられて外を見る。
そこでは太陽の風を受けて緑色に輝くオーロラがあった。
それは街の夕景を横切って、僕らの世界に一日の終わりを告げていた。(了)