紅葉と郷愁
少し長いです。よければお付き合いください。
空港って所はある種独特な雰囲気をもっている場所だ。
時間に対しては恐ろしいくらいに厳粛なくせに、外界からは完全に隔離され全く違う時間の流れ方をしている。
出発する国ではたしかに昼間だった筈なのに、たどり着いた国でもやっぱり昼間で困惑した経験が何度かある。
外国という異世界に旅立つ玄関口だけあってここの印象はいつだって新鮮で、そして何故かとても懐かしい。
俺はこの奇妙な空間がとても好きだった。
だからこそ、煙草と一冊の文庫本があれば何時間でも退屈を知らずに過ごすことができた。
そうして今日も指定された空港のいつもの場所で
俺は待ち人を待っていた。
そうして彼は、いつも通り十五分ほど遅れてやってきた。
「やあマサキ。また会えて嬉しいよ。」
「やあハワード。俺もさ。」
俺は海外から食品などを輸入している会社に勤めている。
ハワードはその取引先相手の一人だ。
ウチの会社にとって、とても大事な仕事相手の一人。
大柄で赤ら顔、短く刈り込んだ茶色い毛にゴワゴワのヒゲが特徴の典型的な中年カナダ人。
見習い中のサンタクロースみたいな男。
それが彼、ハワード・ウィリアムスだった。
スーツを着ていなかったら木こりか漁師にしかみえない。
しかし、彼のその笑顔はどんな不機嫌な相手もつい絆されていまう程に人懐っこく、そういった意味では天性のビジネスマンであるのかもしれない。
彼は話術も実に巧みで、一時もこちらを退屈させない。
「遅れてすまなかったね。免税店でチョコレートを買っていたんだ。」
そう言って彼は手提げ袋をゆすってみせた。
「おいおい。土産なら帰りでいいだろ。気が早いんじゃないか?」
そう言うと彼はノンノンと口をとがらせる。
中年の仕草にしてはとてもチャーミングだ。
「こいつは僕が食べるのさ。ホテルのベッドで食べるチョコレートは、その日を最高の一日で終わらせてくれる。」
ハワードはカナダ人の中でも太っている部類に入る。
とにかく食いしん坊なのだ。
「なんていってもグリーンティ・チョコは最高さ。ほんのりとした苦味がチョコの甘さをより際立たせ、蠱惑的な旨みが絶え間なく口に広がる。僕はとっくに中毒者なんだよ。」
俺はすっかり呆れてしまいこのチョコレート坊やをそそくさと車へ促した。
「心臓病と虫歯の心配がなければ、キミの一生はいつまでも最高の一日で終わるかもね。さあいこう。」
こういった皮肉も慣れたもので
「マサキの人生は退屈すぎる。だから君は意地悪なんだ。」
とわざと大げさにふくれてみせるのだった。
車に乗り込んで色々な話をした。
仕事上の付き合いとはいえ、ハワードとは妙に気があった。
最初の頃は接待のつもりだったが、今ではすっかりプライベート気分だ。
「それで?今回は何が目当てでこっちに来たんだい?今年に入ってもう3回目だぜ?」
新年早々に一回、初夏に一回、そして今回である。
ハワードはすっかり日本にご執心なのだ。
「色々さ。これでも抑えている方なんだ。日本は面白すぎて時間がいくらあっても足りないよ。」
彼はガイドブックを丹念に読みながら片手間でそう答える。
「俺は全然大歓迎なんだけどさ。通訳兼ガイドとしておかげで仕事を堂々とサボった上にキミとこうしてウィットに富んだ会話ができるんだ。毎回上司に接待の内容を報告する義務がなければ言うことなしさ。」
そう言うとハワードは手を叩いて喜んだ。
「そうかい。じゃあ僕からミスターノジマに、君がいかに仕事を忘れてエンジョイしているかをこと細かく伝えておくよ。それで報告する必要はなくなるだろ?彼のメールアドレスを教えてくれ。」
とニヤニヤしている。
「オーケイわかった。それじゃあ日本の税関に、太ったカナダ人の麻薬ディーラーが紛れ込んでいると匿名で垂れ込んでおくよ。逮捕はされなくても君の大事なチョコレートたちは残らず解剖されるだろうね。」
すると彼は泣きそうな顔で天を仰ぎ
「おお主よ!罪なきチョコレートたちを救い給え
!願わくば彼らが無事に胃袋に納まるよう、この男に天罰と残業を!」
そう言って二人で、ゲラゲラと笑った。
俺はこの愉快な中年外国人が、本当に好きだった。
とにかくお互いに、気の置けない相手だと思えるほどの仲だった。
彼は我慢できずに封を開けたグリーンティ・チョコ
をひとつ俺にすすめてきたが、お礼だけ言ってやんわり断った。
「マサキ、今回も君を待たせてしまって申し訳なかったね。時に君は今日は何を読んでいたんだい?」
俺はいつもハワードを待つ時に文庫本を携えていた。
ハワードは日本の文化として、俺が読む日本人作家の小説にも興味があるようだった。
しかし今回は残念ながら、海外の作品を読んでいたのでご期待には添えなかった。
「今回はミヒャエル・エンデさ。知ってるだろう?『モモ』を読んでいたんだ。」
俺は好き嫌いなく何でも雑食に読む人間なので児童向けでも関係ない。
いつもなら日本の作家以外にはあまり興味を示さないハワードだったが、今回は少し違っていた。
「ああ。エンデか。良いね。とても良いよ。僕もエンデは大好きさ。」
彼の内面がいかに子供のように純真でも、児童文学は彼の趣味には合わないように思えた。
「キミが?児童文学が好きなのかい?」
そう言って笑うと、彼は少し真剣な面持ちをした。
その表情も、陽気なハワードには不似合いに感じた。
「マサキ。君はひょっとするとエンデが児童向けの作品だけしか世に送り出していないと勘違いしているんじゃないのかい?だとすればそれは、大きな間違いだよ。」
少し怒ったような口ぶりで彼はそう言った。
「そうなのかい?そりゃ悪かったよ。俺は全然知らなかった。」
「確かに『モモ』や『果てしない物語』は優れた作品だが君は必ずその他の彼の短編を読むべきだ。特に『遠い旅路の目的地』は素晴らしいよ。エンデに対する評価がきっと大きく変わるだろう。」
「わかったよ。今度読んでみる。」
俺はなんだか不思議な気分だったが、俺の知らない彼の一面が見えた気がして少しだけ嬉しかった。
「さて!真面目な話をしていたらすっかり腹ペコさ。早くヤキトリで乾杯して、その後にトンコツラーメンを食べに行かなきゃ!」
途端にいつものハワードに戻っていた。
俺はオーケイと頷くと彼のお気に入りの焼き鳥屋を目指してアクセルを踏んだ。
そこからは一貫していつもの食いしん坊で陽気な彼だった。
とにかく日本びいきで暇さえあれば色々な店に入りたがる。
そしてどこで調べてきたんだか、もの凄い知識量で常に日本人である俺をも圧倒した。
俺が少しでも
「へえ。それは知らなかった。」
などと言おうものなら
「マサキ!君には日本人としての誇りがないのか!日本人はもっと、自分たちの民族を敬うべきだ!どうしてそう無関心なんだ!」
と、説教がはじまってしまう。
一度彼にどうしてそんなに日本が好きなのか聞いてみた事がある。
「確かに色々と便利だけど、物価は高いしみんな働き蟻みたいで息が詰まりそうだ。俺は正直、日本がそんなに好きじゃない。」
それに対して彼はいつもの説教ではなくどこか悲しそうな顔でこう言った。
「マサキ。それは贅沢というものだ。日本には世界が羨む物がたくさんある。料理や文化はもちろん、保険や医療のシステムだって素晴らしい。君は日本の政治はダメだというけれど、この国の最高権力者は自分の意見に従わない者を処刑したりしないだろ?」
彼はこうも言った。
「もちろん僕の住むカナダだって素晴らしい所さ。でも、日本の様に奥深さがあるわけじゃない。日本には独特の雰囲気がある。カナダはいつだって、アメリカにつまらないコンプレックスばかり抱いている。」
「僕はね。日本の『他の国なんてどうでも良い』というスタイルが好きなんだ。ただ自分たちの在りたい様に生きる。そんな自由な生き方が好きなんだ。僕もそんな風に生きてみたいと思ってるんだ。」
彼は嬉しそうに話していてが、同時になぜかとても遠い目をしていた。
それが本当の気持ちなのかどうか、その時の俺には解らなかった。
ひとしきり日本の秋を堪能し、彼はとても満足気だった。
中でも京都は大のお気に入りの様だった。
「京都は実に素晴らしい。建物や道や橋の造形に至るまで、君たち日本人のスピリッツを感じるよ。利便性と様式美という二つを兼ね備えた家具のひとつひとつがまさに芸術品と言える。」
「それはちょっと言い過ぎじゃないか。」
俺はなんだかくすぐったくて、つい笑ってしまうほどだった。
「そんなことはない。更にはあの自然との調和はどうだ。四季を見事に取り込んで、まるで生きたスクリーンショットを見ているようだよ。僕はまた春に必ず京都に行くぞ。」
もうすでに、次の来日の口実ができてしまった。
これはまた上司に報告をしなければならないだろう。
「さて、ハワード。君にはあと五日ほどの時間が残されているよ。どうする?また例のごとくそこら中を食べ歩くかい?秋葉原や浅草に行ってみるのも良い。」
俺はこの中年外国人が子供のように無邪気に喜ぶ姿が本当に見ていて飽きなかった。
彼の思うように、今回も素晴らしい旅にしてあげたい。
本心からそう思って尋ねた。
「いや、食べ物はまた今度で良いさ。なんだか京都で見た景色にとても感化されてしまってね。あれ程とは言わないが、マサキ。君がオススメする日本の景色を見せてくれないか?」
とハワードは言った。
正直そんな要望が出てくるとは考えていなかったので少し悩んでしまった、
「ちょっと考えさせてくれ。明日の朝、またホテルに迎えにくるよ。」
そう言ってその場を収めたものの、彼の期待が申し訳ないほどに伝わってきた。
どうするか。
俺は自分の部屋のベッドでタバコをくわえながら頭を悩ましていた。
色々とネットでも検索してみたのだが、どれもイマイチピンとこなかった。
実はもう答えは出ていた。
しかしそれが彼の期待に添えるかどうかは甚だ疑問でしかなかった。
でももう時間がない。
ここにきてあのチョコレート坊やが、大事な仕事相手だという現実が俺にプレッシャーを与えていた。
大丈夫。
きっと気にいるさ。
そう自分に言い聞かせ、俺はタバコの火をねじ消した。
次の日の朝。
ハワードはきっかり約束の時刻にロビーで待っていた。
「おはようマサキ。今朝はゆっくりだね。」
「おはようハワード。キミを待たせる日が来るなんてね。」
軽口を叩いていたが内心はドギマギしていた。
もしかすると彼は、俺を試しているのかもしれない。
「チケットを買っていて遅れてしまったんだ。列車のチケットさ。」
「なんだい、またシンカンセンに乗るのかい?まさかもう一度京都へ行くなんて言いやしないだろうね。」
彼がやたらと挑発的なので、今回は俺も行き先を秘密にして出発することにした。
「まあいいから行こうじゃないか。急ぐ旅ではないにしても、あまり時間のある方じゃない、」
そう言うと彼もいつものように笑って頷いてみせた。
新幹線の中で彼はいつものくだらないお喋りに興じていたが、思っていたより移動時間が長いのでそのうち飽きて寝てしまった。
疲れているのか、随分な音量のいびきをかいていた。
無理もない。
いくら旅慣れているとは言え、異国の地でのここ数日の活動は着時に彼に疲労を蓄積させたに違いない。
俺はしばらく、その寝顔を見守る事にした。
目的地に着いてハワードをゆすり起こし、俺たちは駅に降り立った。
そこは未だかつてハワードが立ち寄った事のない場所で、かつ彼の情報網にも引っかかっていなかったようだ。
「マサキ、ここは一体どこなんだい?」
彼は心底不安そうに尋ねた。
「まあいいから。レンタカーを借りてくる。宿はもうとってあるから心配しないで。」
ハワードは駅をぐるりと見回していたが物珍しいというよりも、自分がどこに立っているか解っていないという顔していた。
しかしそれこそが本来異邦人がする表情なのだろう。
彼は日本に来る前から日本の側面に触れ過ぎていたのだ。
レンタカーに乗って駅前から遠ざかると、いよいよ何もない田畑ばかりが広がる景色になってゆきそのうちに今度は山が見え始めた。
「マサキ。本当に君が見せたい景色がここにあるのかい?」
相変わらずハワードは不安げである。
俺は彼にもう少し意地悪をする事にした。
「まあもう少し寝ていなよ。まだ少し移動するからさ。」
とだけ言って、あとはラジオのボリュームを大きくしてしまった。
ハワードはまったく困惑していた。
得意の冗談も言えないくらいに。
「さあついたよ。今日はここに泊まるんだ。」
俺が案内したのは有名な高級ホテルでも情緒ある老舗の旅館でもなかった。
ただの寂れたペンションビレッジだった。
「マサキ。そろそろ教えてくれ。ここは一体どこなんだ。」
いい加減に彼がしびれを切らしたようなので俺も素直になる事にした。
「ここは岩手県と秋田県のちょうど県境にあるところさ。空気が澄んでるだろ。冬はスキーリゾートになるんだぜ。」
そう言うと彼は少し怒ったような口ぶりになった。
「そうかもしれないね。だが僕はスキーをやりにきたんじゃない。それに今は秋だ。雪はないだろ。」
「ああ。そうだね。俺もそのつもりはない。」
そう言うと彼は呆れたという顔つきになった。
「君には少しがっかりしたよ。楽しくやってきたが、君にとっては仕事の一環だろう?もう次の機会は無いかもしれないね。」
ハワードは肩をすくめ車に戻ろうとした。
「帰ろう。東京に帰って美味しい物でも食べれば今回も無事に終わったと上司に報告できるかもしれないよ。」
そう言ってドアに手をかけたので俺は彼を制止した。
「待ってくれハワード。君に見せたい景色は本当にここにある。黙ってついてきてくれ。」
俺の真剣な表情に仕方なくといった風にハワードは渋々ついてきてくれた。
俺はペンションの裏にある広場に彼を連れてきた。
針葉樹が赤く染まり、澄んだ空気に青空がひたすらどこまでも高く伸びていた。
秋の風が東京よりいくらか肌寒く、落ち葉を運んでは落とし運んでは地面に落としていた。
「どうだいハワード。良いと思わないかいここの景色は。」
俺は静かに彼に語りかけたが彼はしばらく無言で俯いていた。
そうして5分ほど景色を眺めてから、彼は大きなため息をついた。
「ずるいなマサキ。まったく君というやつは。こんなところ、ちっとも趣がないじゃないか。」
「お気に召さないかい?」
俺はそういたずらっぽく尋ねた。
「ああ。気に入らない。まるで自分の国にいるみたいだ。ここはカナダにそっくりだよ。」
彼は悔しそうにそう言った。
「でもね。なぜだろう。ひどく胸が締め付けられるんだ。今僕は、どうしてかひどく悲しい。」
そう呟いた。
「それが恐らく郷愁というやつだろうハワード。」
そうかもしれないと言った彼の目には、なぜか涙が浮かんでいた。
「君はエンデの小説にでてくるシリル少年のように故郷を持たない人間じゃないってことさ。もちろんここも君の故郷じゃない。」
「どんなに日本を賞賛したって君の根っこにあるのはその気持ちさ。いくら自分の国が好きじゃなくても、そんな簡単に捨てきれるものじゃない。」
「ああそうだね。僕は少し馬鹿だった。」
彼は見たこともない様な表情でそう言った。
恐らく今まで彼が俺に見せてきた顔は、俺に合わせていたに過ぎないのだろう。
そうと感じさせないのが彼の器用さであり、欠点でもあるのだろう。
「大馬鹿さ。上司から聞いたよ。君は移住を考えているんだろう?前も言ったけど、日本はそんなに住みやすい国じゃないぜ。」
上司からハワードがこちらに本格的に移住を考えていると聞かされ、驚いた。
しかもその為に俺を連れ回していると、上司には言っていたらしい。
「別にカナダを捨てれるならどこでも良かった。日本じゃなくてもどこでもね。たまたまここにしようと思っただけさ。」
「僕はねマサキ、本当はアメリカ人なんだよ。僕が生まれて間もなく親の仕事の都合でカナダに移住したんだ。僕は物心ついてからずっとカナダで育ったからカナダ人のつもりだった。」
「けれども周りはそうは思わなかった。彼らはみな僕がアメリカ人だからと、心からは受け入れてくれなかった。」
「なら僕は一体何人なんだ。育ってきた場所から拒絶されたら、人は一体どこに帰ればいい?」
彼の訴えは切実で、日本人の俺には全て理解することは不可能だった。
「だからと言って、どこでも良いってのはないどう。日本にも失礼だ。」
そういうとハワードは笑ってみせた。
「それは済まなかった。だけどやっぱり君だって、なんのかんの言っても日本が好きなんじゃないか。」
「嫌いだなんて一言も言った覚えはないさ。」
青空の下、俺たちは大きな声で笑いあった。
「ありがとうマサキ。この景色を見て無性にカナダが恋しくなった。やっぱり僕は、誰がなんと言おうとカナダ人だ。」
そう言って彼は大きな手を差し出した。
同じ様に手を差し出すと、少し痛いくらいに俺の手を握ってこう言った。
「僕は帰るよ。多分もう、日本には来ないと思う。今生の別れだよ、マサキ。」
俺も負けじと強く握り返した。
「寂しくなるなハワード。」
そう言うと彼はいたずらっぽい例の顔つきをした。
「本当にそう思ってるのかい?僕のこと煩わしく思っていたんじゃないかい?」
冗談とも本気ともつかない顔で言うものだから、答えに少し困ってしまった。
「本当さ。キミが来ないと、仕事がサボれないからつまらないよ。」
と言ってやった。
ハワードは大きな体を揺すりながら、涙がでるくらいいつまでも笑っていた。
あの秋の日に寝転んで見た景色を今でも鮮明に覚えている。
あれ以来、彼とは一度も会っていない。
了