かげふみ
彼女、影山千雪が転校してきたのは、ゴールデンウィーク明けのある日だった。
転校生が来るにしては珍しいこの時期に、突如クラスメートとなった影山は、瞬く間に注目の的となった。
彼女は恐ろしく美しい少女であった。流れるような長い髪と妖しげな目元。その独特の色気は、私と同じ高校二年生とは思えぬ、妖艶なものだ。
しかし、私はそんな彼女の美貌よりも、もっと心に引っかかりを感じるものがあった。
彼女は私と似ているのだ。
何となく雰囲気が似ている、というものではない。目元も口元も、背格好や体格まで、あらゆるところが私にそっくりなのだ。
余りにも似ているせいで、私の生き別れの双子が現れたのではないかと疑った程だ。
やはり彼女――影山千雪もそう感じたようで、転校初日の休み時間、真っ先に話しかけた生徒は、他の誰でもなく私であった。
「ねえ、貴女……変な事言うけれど、私に似ていない?」
彼女の薄紅色をした唇から甘ったるい声が漏れる。
私は顔を上げた。そこには私と同じ顔をした少女が微笑んでいた。自分と同じ顔をした人間と対面するこの驚きが、どれほどの衝撃か判るだろうか。私は言葉を失った。
返答に困る私を差し置いて、先に口を開いたのは友人の景子だった。
「やっぱりそっくり!私教室に入ってきた時、幸恵がもう一人来たのかと思ったもん!」
お喋り好きで人懐っこい景子が気さくに話す姿を横目に、彼女は私をじっと見詰める。
「お名前、教えて下さらない?」
差し出された右手を見て、漸く私は我に返ったような気持ちになり、彼女と握手をした。
「山野幸恵です。よろしく……」
「ヤマノ、ユキエさん?わあ不思議!名前も少し似ているわ!よろしくね山野さん」
彼女の顔に笑みが溢れる。
「本当に見れば見るほどそっくり。なんだか生き別れの双子に巡り合えたようだわ」
嬉しそうにはしゃぐ彼女も私と同じように考えていたようだ。顔だけでなく思考まで似ているのは少々不気味……だが、この奇跡的な偶然の一致は、今までに体感した事のない不思議な高揚感をもたらすのだった。
私、山野幸恵と彼女、影山千雪は、瞬く間に学年の有名人となった。なんせ、ある日突然血の繋がりが一切ないのに双子のような顔をした二人が、肩を並べて校内を歩くようになったのだから。
そうでなくても、彼女は人目を惹くタイプだった。
彼女は格段に美しいのだ。廊下を歩けば、男女とも、学年をも問わず、皆がハッとして彼女の方を振り返る。
それでいて性格は気さくで、明るく他人と接するものだから、転校生でありながらクラスメートとはあっという間に打ち解けた。
仮に彼女と双子のようにそっくりな私の存在が無かったとしても、恐らく彼女は学校中からの注目を浴びたであろう。
そう、彼女は美しいのだ。私と同じ顔をした影山千雪は美しい。しかし、何故なのだろう。私は彼女のように美しくはない。
休み時間にトイレの鏡を覗く。そこにはいつもと変わらぬ私の顔があった。
目元、口元、鼻の形、輪郭ですら影山千雪にそっくりな顔。なのに、私は美しくない。瞳の奥は黒く曇っているし、口元は不機嫌そうに歪んでいる。
彼女が瞳を輝かせ、微笑みを放つ一方で、私の顔は醜くどんよりと曇っている。
私は目立たない少女だった。勉強も、運動も、取りたてて得意なものはない。
ほんの僅かな友人との付き合いがある程度で、クラスではほとんど存在感のない平凡な生徒だ。引っ込み思案な性格が災いしてか、高校に入ってからは特にクラスに馴染む事が出来ず、取りたてて楽しい事もない退屈な日常を送っている。
一番の友人と言える景子ですら、一人ぼっちでいる私を気にかけて声を掛けてくれたのが、付き合い始めたきっかけだ。
恐らくお節介な性格ゆえの同情心から、私とつるんでいるだけだろう。私は景子とそれなりの友人付き合いをしているが、それ以上に踏み込んだ関係にはなっていない。
千雪は勉強も出来る生徒だ。成績優秀で責任感も強く、転校後間もないにも関わらず、生徒会の仕事まで始めた。
また、音楽や体育の成績も良い事から、連日あちこちの部活動から勧誘されていた。
しかし、彼女は入部を断り続けた。私と同じ帰宅部なのだ。
彼女は私に執着した。転校初日に私と握手を交わしてから、何かにつけて私の傍をくっ付くようになったのだ。
登下校や移動教室の際など、私はいつも影山千雪と一緒である。あれだけ注目を集める美少女なのだから、時に男子からのお誘いがあるにも拘らず、彼女は私を第一に考えていた。
私はと言えば、美しく人目を惹き、それでいて明るく気さくな彼女と友人付き合いをする事には何の不満も無かったし、美しい友人を隣に置いているだけで、何故だか自分がクラスメートより一歩先へ行ったような優越感に浸れるので、千雪との友人付き合いを円滑に進めていた。
「ねえ影山さん」
いつものように、彼女に話しかける。
彼女は体ごと私の方を向き、じっと私の目を見詰めた。彼女はいつも、顔や目線だけでなく、全身で私の姿を見るのだ。
「山野さん、もうお互い名字で呼び合うのはやめにしましょう?幸恵って呼んでもいい?」
「わかった、じゃあ私も名前で呼ぶね。千雪」
私と千雪の仲はますます濃密な関係となってゆく。それは、中学時代の友人や、高校に入ってから出会った景子とも体験していない、深い友人付き合いであった。
千雪はよく人の体を触りたがる。朝登校の待ち合わせをしている際は、いきなり背後から私に飛びつき、驚かせる事もあった。
それは、彼女なりのスキンシップなのだろうが、日頃友人付き合いが気薄な私にとっては少々鬱陶しくも感じる。
しかし、千雪はそんな時決まってとびきり美しい笑みを浮かべるので、私は彼女を許してやろうという気持ちになるのだった。
なるほど、悪女に騙される男性と言うのは、あるいは男性を騙す美しい悪女と言うのは、私たちのようなものかもしれない。
私の頭に、下劣な冗談が過った。そんな私の考えに気付いてか気付いてないのか、千雪は楽しそうに笑い続けたのだった。
千雪は次第に、私のありとあらゆるものを真似し始めた。
お揃いのハンカチ、お揃いのキーホルダー。学校帰りのウインドウショッピングでは必ず同じデザインの服を買う。お蔭でショップの店員からは、「双子ですか?」と言われるほどだ。
まさしく、私と千雪は他人から見たら生き写しの双子であろう。顔立ち、背格好、仕草までもが瓜二つ。なんせ千雪は、スカートの丈からソックスの色まで、私と揃えて登校するのだから。
そんな千雪の姿を見て、私はふとこんな事を思うようになる。
(千雪は私が居なければ生きていけないのではないだろうか)
私が髪を切りたいと言えば彼女も切ると言い出す。私がダイエットをしたいと言えば、彼女もダイエットすると言い出す。
彼女は私の後ろを、延々と追いかけているだけなのだ。
何もかも真似をしようとする千雪の姿に、私はどこか滑稽な感情を覚えた。
(千雪の前に立つのは私。千雪は永遠に私の前に立つ事はない)
そう思うと、急に千雪が愚かな存在に思えてきた。人の後を追い、真似ばかりする愚かな少女。周りから多少チヤホヤされたとしても、所詮千雪は、私より先に自分の意志では動かないのだ。
美しく優秀な千雪に、私は少々コンプレックスを抱いていた。しかし、当の彼女は私の真似をしなければ生きていけない。そう考えると、私の心は意地悪くも清々しいものになるのだった。
千雪が転校してきてから暫くして、私は大きなミスをしてしまう。英語のテストが近いのに、あろう事か参考書を無くしてしまったのだ。
しっかりと鞄に入れておいた筈なのに、見当たらない。どこかに落としてしまったのだろうか。それとも、誰かが自分のものと間違えて持って行ってしまったのだろうか。
私はこれと言って優秀な生徒ではないが、英語だけは妙に覚えが良く、その気になれば学年でも上位に食い込む事が出来た。今回のテストも、思い切って10位以内に入ろうかと意気込んでいたのだ。それなのに……。
焦る私を見て話しかけてきたのは千雪である。
「どうしたの?幸恵。何か探しているようだけど……」
おっとりとした口ぶりで、心配そうに声を掛ける。
千雪は英語の成績も素晴らしいものだ。きっと千雪は、今回のテストでも優れた成績を残すであろう。私は少し悔しくなった。思えば、学年10位以内に入ろうと意気込んでいたのも、どこか千雪には負けたくないという対抗心から来ていたのかもしれない。
「何でもないわ、でも今日は先に帰っていて」
私は気丈なふりをして、千雪を帰宅させた。必死になって参考書を探している姿を見られたくなかったのだ。こんな無様な姿を見れば、千雪は私を馬鹿にするかもしれない。
参考書の一つが無いだけで、まともにテストの結果も出せない愚か者だと、見下すかもしれない。
今迄私は千雪に馬鹿にされた経験などなかった。むしろ無邪気に私の真似ばかりする千雪を、私の方が見下していたほどだ。
にも拘らず、私は千雪に馬鹿にされるのではないか?と、妙な恐怖心を抱いていた。
いつも明るく美しい笑みを浮かべ、私に絡んでくる千雪。しかしその裏では、同じ顔をしていながら誰からも褒められない私を、見下し、馬鹿にしているのではないかと……。
私は日が暮れるまで参考書を探し続けた。クラスメートの机の中や、職員室の落とし物コーナーまで目を通した。
骨の折れる作業であったが、結局私の参考書は見付からなかった。次のテストに対する不安と今日一日の疲労で、私は落胆して家に帰った。
教科書とノートを広げてテスト勉強するも、何かモヤモヤとしたものが胸につかえて、まるではかどらない。
英語のテストは散々なものだった。10位以内はおろか、予想より遥かに低い結果に、私はますます落胆した。
その横で、学年トップの成績を収めた千雪は、いつものように美しい笑みを浮かべながら称賛の声を浴びていた。
後に千雪は、英語のスピーチ大会で全国優勝をしたとの事で、最早学年どころか学校中の有名人となった。彼女の自信に溢れた美しい笑顔は人々を惹き付けているが、私にはそれが忌々しいものに見えてならなかった。
英語のテストから数日後、私達の学校で開催されるスポーツ大会が近付いてきた。運動が得意ではない私にとっては憂鬱なイベントの一つだ。
競技は玉入れや綱引きといったおなじみのものから、バレーボールやドッジボールなどチーム対抗戦のものまである。中でもリレーは、特に苦手な分野なので、私はますます憂鬱になる。
英語のテスト以来少々千雪に距離を置いていた私だが、それに気付いているのかいないのか、相変わらず千雪は私の傍を離れない。
まあ、やっかみで邪険にするほど私も幼稚ではない。以前と変わらず、千雪と行動を共にした。
「ねえ幸恵、スポーツ大会ですって。面白そうね」
千雪は楽しそうな笑みを浮かべている。そうだ、彼女は勉強だけでなく運動も得意なのだ。きっと彼女は私の憂鬱な気も知らないで、スポーツ大会本番も全力で楽しむに違いない。
「千雪はいいわね、運動が得意だから。私は苦手。特に走るのが遅くって、リレーだって本当は出たくないのに……」
愚痴を漏らす私に、千雪は一つ提案をした。
「それなら本番まで私と一緒に走る練習をしない?放課後にグラウンドとか、使えなかったら河川敷とか。二人で走って特訓しましょうよ」
千雪の提案に私は猛反発した。
「やめてよ、ちょっと練習したくらいで走れるようになるわけないじゃない。第一、優勝したからって内申に響く訳でもないし。適当にやって本番が終わればいいわ」
まったく出来のいい人間と言うのは、どうしてこう相手の気持ちと言うのを理解しないのだ。
練習すれば出来るようになるというのは、そもそも出来る側の人間が思う事だ。出来ない人間は何をやっても無理な事があるという事実をしっかり知っている。
それなのに千雪ときたら、偉そうに先輩気取りなのか練習しようなんて提案して。どこまでも私を見下している。
私の胸の内に何とも言えない憎悪に満ちた感情が渦巻いていた。千雪はただ素直な親切心で私に練習を提案しただけかもしれないのに。今の私には、そんな千雪の好意でさえ、人を馬鹿にしているようなものに思えてたまらないのだ。
状況を察してか、その日千雪は少し寂しそうな顔をして、私の元から離れていった。
それからも千雪は変わらず私に話しかけ、近付いてきたが、私の対応はどこか以前よりも突き放したものになっていた。
私と双子のような顔でありながら、私に無いものを全て持っている千雪。
そんな彼女が、忌々しく、そして何故だか恐ろしいものに思えてたまらなかったのだ。
いよいよろくな練習もしないまま、スポーツ大会本番の日となった。私も千雪もリレーの代表に選ばれている。私の順番は千雪の前。そして千雪はアンカーだ。
競技前に千雪が私に声を掛ける。
「頑張りましょうね」
彼女はそう言って私の肩を叩いたが、私にはそれが励ましの行為ではなく自分の余裕さを見せ付ける行為に思えた。
そりゃあ貴女は頑張らなくても走れるでしょう。私と違って。私は頑張らなければ、いえ、頑張ったとしてもあなたの実力には追いつけませんから。
そんなひねくれた事を考えているうちに、リレーはスタートした。私のクラスはスタートダッシュが良かったのか、現在一位だ。その後も順調なペースで一位をキープしている。
いよいよ私の順番が来た。前の走者からバトンが渡される。その時だった。
バトンは私の手から弾かれ地面に落下した。
慌ててバトンを拾おうとしたが、弾かれたバトンが私の手元に収まるまでにどれほど時間がかかっただろうか。
みるみる他のクラスの走者が私を追い抜かしていく。漸くバトンを拾い走り出した頃には、私のクラスはビリになっていた。
その時私のクラスから罵声が飛び出したのは、焦りから来る幻聴ではなかったはずだ。
「なにやってんだ」「のろま」「馬鹿」
と私を罵る叫び声が、耳の奥に響いた。
私はその恥ずかしさやみっともなさから、たまらず泣きそうな思いになり、それでも堪えながら千雪にバトンを渡した。
私は汗と流れ落ちそうになる涙をぬぐいながら千雪の後姿を眺めていた。
千雪は颯爽と走り、次々とライバル達を抜いて行く。あっという間に千雪はビリから一位になってしまった。
風のようにゴールテープを切る千雪に、クラス中の生徒が駆け寄った。
「凄いね千雪!」
「千雪のお蔭で私たちのクラスが一番だよ!」
千雪はこの瞬間、クラス中のヒロインとなったのだ。
全員に賞賛される中、千雪はちっとも驕らない態度でこう対応する。
「私一人の結果じゃないわ。みんな速かったもの。みんなで頑張ったお蔭よ。ね、幸恵。貴女もこっちへ来て。あんなに頑張って走ったじゃない」
千雪が声を掛けたせいで、クラスメートの視線が一斉に私の方へ向けられる。
(嫌だ……なんでこんな時に私に声を掛けるのよ……)
クラスメートからの視線は千雪に向けられるものとは違い、冷たく、蔑むような眼差しだった。
一人のお調子者男子が口を開く。
「誰かがバトンを落とさなければもっと速かったんだけどな!」
周りの男子が笑い出す。つられて他の生徒達も私を見て笑い出した。
「もう!やめなさいよ男子」
景子が私をかばってくれたが、それがかえって余計惨めになり、もうその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「みんな、幸恵を酷く言わないで。あんな失敗、誰にだってあるじゃない。気にしないで幸恵」
千雪は優しく私の肩に手をかけたが、私はその手を振り払ってしまった。
その後私のクラスはスポーツ大会で総合優勝を果たしたが、それを喜ぶ気にもなれず、私は千雪に黙って一人で帰宅したのだった。
翌朝、私は千雪と登校するのをやめた。
千雪と顔を合わせたくない、話したくない。そんな思いから、私は千雪を避けるようになったのだ。私は登校前に「今日は一人で学校へ行って」と、千雪に素っ気ない文面のメッセージを送り、一人で登校した。
そんな態度を取ったにも関わらず、教室で私を見掛けた千雪は、怒る素振りも見せず笑顔で私に近付いてくる。
「おはよう幸恵。ねえ今朝はどうしたの?」
「別に。ちょっと用事があって一緒に行けなくなっただけ」
私は普段より突き放した態度を取ったつもりだったか、千雪はいつも通り私の傍を離れない。
今迄と変わらず、トイレにまで一緒について来て、その日の昼食は私と同じものを頼むのだ。
私はそんな千雪に対して友情とは違う、歪んだ感情を抱くようになった。
どこへ向かう時ものこのこと私の後ろをついて来て、今日自分が食べるものですら、自分の意志で決められない。
優秀な癖に何もかもが人真似に過ぎない千雪の姿を、いつしか私は嘲笑の目で見るようになった。
しかし、周囲の人間は違う。周囲はどんな時も、私ではなく千雪を評価するのだ。光の中に居るのは、いつだって私ではなく千雪だ。
大勢のクラスメートに囲まれ、嬉しそうに笑顔を振りまく千雪。
自分一人ではなんにも決められないくせに、成績はいつも私より上で、彼女が何かをやり遂げる度、周囲は千雪を褒め称える。
千雪はますます美しくなっていく。称賛の声を浴び、人の輪の中心に立つ千雪は、私と同じ瞳や、私と同じ唇で、私とは違う笑顔を浮かべるのだ。
その日の放課後、私は千雪を避け一人で下校した。時間と共に千雪への嫌悪感が倍増していく。私の中で、酷く恐ろしい魔物が暴れているようだった。
校門を出たあたりで、私は忘れものに気付く。億劫だが仕方がないので、教室まで取りに戻った。
殆どの生徒が下校して、人気が無くなった教室。そこには二つの人影があった。
一人は千雪。そしてもう一人は……。
それはクラスメートの男子であった。彼は顔もよく、勉強もスポーツも出来る人気者で、女子の一番が千雪なら男子の一番は間違いなく彼だと言えるような人物だ。
あの二人が教室で何をしているのだろうか。いや、元々似た者同士の二人だ。何か接点があってもおかしくはない。
私は廊下から教室で揺れる二つの影を眺めていた。その影は醜悪な程に絡み合い、そして間もなく私は目を覆いたくなるような二人を目撃する。
彼が千雪にキスをしたのだ。
私はその場に居られなくなり、たまらず近くの女子トイレに向かった。
嘔吐しそうな程の嫌悪感が胸の奥で渦巻いている。この感情は何なのだろうか?千雪の『女』の顔を見てしまった事に対する倒錯的な感情か?それとも私に黙って男を作っていた千雪に対する、裏切りのような感情か?
ゼエゼエと荒くなる息と高鳴る鼓動を必死に抑えながら、私はトイレの鏡を覗く。
そこには酷く醜い顔をした私の姿が映っていた。
眉間にしわを寄せ、憎悪に満ちた瞳。奥歯を噛み締め、恐ろしく曲がった口元。
その夜叉のように歪んだ表情が、私にはどうしてだか、あの美しい千雪の本当の姿に見えてたまらないのだ。
千雪、どうして貴女は美しいの?私と同じ顔をした少女。なのに貴女は美しく、私の顔は酷く歪んでいる。
貴女は私の真似をしているだけ。なのに、光の中に立つのはいつも貴女。
誰もが貴女を評価する。誰もが貴女を褒め称え、賞賛の声を向け、愛情を注ぎ込む。
そんな時、貴女はいつだって、私に勝ち誇ったような目をして笑顔を振りまくのだ。
「貴女は私に勝てない」と、そう言いたいような顔をして。
鏡の奥に目を向ける。憎しみに狂ったような私の顔。それは私の顔であり、千雪の顔でもあった。
「そんな顔で見ないでよ千雪!」
私は鏡に向かって声を上げた。
その瞬間、背後から声が聞こえた。
「幸恵」
そこに居たのは千雪だった。
「千雪……」
「見ていたのね。さっきの教室での事」
千雪は何の感情も抱いていないような、能面のような表情で私に近付く。
「彼とはね、なんて事はないの。ただのお友達よ。それなのに幸恵ってば勘違いしちゃって」
私は声を張り上げた。
「馬鹿にしないでよ!ただのお友達?友達があんなふうに抱き合ったり、キスしたりする?そうやっていい加減な嘘をついて、私を誤魔化そうとでもしているの?」
千雪はゆっくりとした足取りで、私の目の前に立つ。
「どうして幸恵がそんなに怒るの?私が彼と仲良くするのはまずかった?それとも、まさか幸恵は彼の事……」
「いい加減な事を言わないで!」
千雪のひょうひょうとした言葉が、私をますます苛立たせる。自分でも、何故こんなに怒っているのか判らないのだ。
千雪が言うように、私は彼に憧れていたのだろうか?だから、そんな彼を奪った千雪が憎いのだろうか。
違う。私は千雪の、千雪の行動全てが憎いのだ。
私がどんなに苦労しても手に入れられないものを、何の苦労もなく手に入れてしまう千雪。何一つ持たない惨めな私を嘲笑うように、千雪は全てを取り込んでいく。
私は千雪自身が、千雪の全てが憎いのだった。
千雪はいつものように穏やかな微笑を浮かべている。
「幸恵、苦しそうな顔をしているわ。可哀相、きっと何か辛い事があったのね」
聖母のように優しい口振りで、千雪は私の目の前に立ち、両手を私の頬に添えた。その手はまるで氷のように冷たかった。
「触らないで!」
私は千雪の手を振り払った。千雪の表情から微笑みが消える。それは、私が初めて見る千雪の表情であった。
「なによ、その顔。同情でもしているつもり?」
私の口から刺々しい言葉が吐き出される。
「私の事、可哀相って言ったよね?」
千雪がうなずく。
「本当はずっとそう思っていたんでしょう?可哀相だって……ううん、そんなの綺麗事。私の事、哀れだって思っていたんでしょう!?」
抑えきれない感情が私の心を支配する。私は今まで胸の内に溜めていた、何かどす黒いような感情を目の前の千雪にぶつけ始めた。
「どうして?どうしてあんたはそうなの!?私と同じ顔をして、私の真似ばかりして、いつも影みたいにぴったりと後ろをついてくる。なのに、光の中に居るのはいつだって私じゃなくてあんたばかり!」
千雪は悲しそうな顔をしながら私の顔を見詰めている。
「私と同じ顔なのに、綺麗だと褒められるのはみんな千雪。沢山の人に囲まれて、賞賛されて、その度にいつも得意げに笑っていたわよね?あんたとは違うって、私に言うように!勉強も運動も、何でもできる癖に、いつも私に引っ付いてばかり!私の真似ばかりしている癖に、最後に笑うのはいつもあんた。私、そんなあんたが憎くてしょうがないのよ!」
恐ろしいほどの罵声が響き渡る。私の心に眠っていた、妬み、憎しみが全て解き放たれたようだった。 何故こんなにも、千雪が憎くなったのだろうか。鏡のように、双子のように、私と同じ姿を持ちながら、私に無い物を全て持っている千雪。彼女が光だとしたら、私は影なのだろうか。称賛される事も、注目される事もなく、光の中で微笑む千雪を、ただ恨めしい気持ちで見詰めるだけの。
「……私は影じゃない」
それは、千雪に向けたものではない。自分自身の心に向けた言葉だった。
「私はあんたの影じゃない!あんたさえ居なければ、あんたさえ居なければ、私はきっと……!」
その時、千雪は私の両腕を掴んだ。
「千、雪……?」
千雪は人形のように表情を凍らせている。その刺すように冷たい瞳が、私の顔に向けられた。
「そうね、貴女は影じゃない」
冷淡な口調で、千雪はそう言った。
「今日までは」
普段の顔とはあまりにも豹変した千雪を見て、私は思わず千雪の掴む手を払った。
「貴女は光に憧れていた。注目され、賞賛され、誰よりも輝き愛される、特別な存在になりたいと思っていた」
「ち、違う……」
千雪の言葉は遮る私の声にも反応せず、淡々とした口調で続いた。
「なのに貴女は、いつだって他人を羨むばかり。自分から変わろうともせず、こうなればいいと自分の理想を思い描くだけ。臆病で嫉妬深くて、その癖自信家で何にも出来ない癖に理想ばかりを追いかけていた」
「違うわ!私、そんなんじゃない!」
千雪の両手が私の首を掴んだ。
「わたしはもうひとりのあなた」
千雪の両手に力が入る。
「私は貴女が思い描いた理想の貴女。貴女が鏡を覗き込むたびに空想した、貴女がなりたかった本当の姿」
「く……苦しい……」
私はやっとの思いで必死の声を絞り出した。
「貴女は光に憧れていた。だけど、光になろうとはしなかった。貴女が生み出したのは私。理想と現実逃避を重ねるうちに、貴女はもう一人の自分を作り出した。貴女自身が影になるのと引き換えに」
目の前が霞みだし、歪んでいるように感じた。それは、蜃気楼のように揺れながら、私の体を包み込んだ。
「だから私は影を踏んだ。貴女の住む世界で、貴女が思い描いた光を浴びる為に」
千雪の手が私の首を離れる。私は眩暈に襲われたような感覚のまま、その場に倒れ込んだ。
「さようなら、幸恵」
そう言って千雪は、またいつもの美しい微笑みを浮かべるのだった。
「ま、待って千雪……」
私は千雪に手を伸ばした。目の前にひんやりとした、見えない壁のようなものを感じた。
これは鏡だ。鏡の向こうには、さっきまで居た女子トイレの景色が広がっている。
「嫌あああ!千雪!お願い!ここから出して!」
どんなに力強く叩いても、その鏡は一向に壊れる事が無い。
「千雪!」
鏡の向こうから声がした。それは、景子の声であった。
「一人で何をしているの?私、部活が終わったところだから一緒に帰ろうよ」
ニコニコと笑いながら、景子は千雪に話しかける。
「景子!ねえお願い!ここから出して!お願いよ景子!」
私の声などまるで耳に入っていない様子で、千雪は景子に言葉を返す。
「一人……そう、一人ね。私は一人。ずっと一人しか居なかった」
「やだ、千雪ったら何を言ってるの?早く帰ろうよ」
景子は千雪にそう声を掛けると、足早に女子トイレから出ていった。
「景子!景子!ねえ、行かないで!」
泣き叫びながら呼ぶ声も、景子にはまるで聞こえていない。
透明な鏡越しに、千雪は再び私の顔を覗き込んだ。
「さようなら幸恵、もうここは貴女の居場所じゃない。貴女は影、私は光。お互いの世界で生きましょう」
千雪はそう言って、最後にとびきり美しい笑みを見せた。それは、誰からも称賛を浴び、愛され、全てに勝ち誇った表情で笑う千雪よりも遥かに美しく、残酷な笑みだった。
やがて、私と千雪を隔てる一枚の鏡は闇に包まれ、千雪の姿も闇の中に消えていった。
私は最後に見せた千雪の笑みを思い出しながら、ゆっくりと闇の中に飲み込まれていった。