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トレーニング

(6)


災害というものは、いつも突然やってくる。

午前五時。窓に薄明かりが差し、部屋の中の様子がうっすらと見え始める頃。朝を告げる気の早い小鳥の囀りが、軽く窓をノックしている。

そこに、震度五強クラスの激震が、真理たちの部屋だけを襲った。

震源地は部屋の扉。

昨夜の気まずい幕切れで、会話もなくそれぞれのベッドに入った三人だったが、入寮初日の身体と頭の疲れは、忽ち若い身体を眠りに引きずり込んだ。その深い眠りを、覚ますと言うよりも脅して立ち退かせると言うような轟音が、部屋中響き渡る。

慌てて身を起こす美枝と恵。頭を振って瞬きを繰り返す真理。

続いて震源地の後ろから、主のナマズの大声。

「真理―! 起きてるか!」

――起きているわけがない。

寮の朝食は七時から八時まで。八時半の始業時間に合わせて設定されている。寮生活は規則正しく、まだ入学式前であっても平日と同じリズムを刻むものだ。身支度の時間を考えても六時半、或いは七時ギリギリに起きても間に合う。そんなつもりで寝付いたのだから目覚ましなどは掛けていないし、掛けたとしても当然こんなに早い時間ではない。

文句を言おうにも鍵の掛かった扉を開けなければいけないので、ここは名指しされた真理が行くのが当然だろう。

首の脇で枕を半分横取りして寝ているモーティを退け、洗って軽く拭いたまま寝付いた所為で少し逆巻いている後ろ毛に手櫛を入れ、欠伸を噛み殺しながらベッドを下りて扉に向かう、あまり急いでいないのは、震源の主に想像が付いているからだ。

朝も早よから他人の迷惑を考えない振る舞い、声を聞かずとも朱鷺と分かる。

「…おはよーございます。会長」

わざとらしく眠そうな声で返事をして扉を開ける。

「会長じゃない、って何度言ったら…、おわっ!」

いつもの呼び名強要の台詞を口にしながら、扉の向こうに現れた真理に目を向けた途端、その姿に視線が釘付けされた。動揺の声を上げて震える指を向ける。

真理の身長は百六十センチ。この年代の少女の中では、それほど高いとは言えない。対して朱鷺の身長は百七十五センチと、かなりの長身だ。当然、真理を見る視線は下に向いている。

寝起き姿の真理は、昨夜の白のカッターシャツ一枚を身にまとっているだけで、しかも着崩れて胸元が大きく空いていた。片手で寝ぐせ頭を撫でつけながら朱鷺の前に現れたのだから、片袖が上がって更に大きく隙間が広がっている。

朱鷺の視線は、その隙間を上から見下ろす恰好になっているので、なだらかな隆起だけでなく、その先のピンク色のものまで見えてしまっていた。

「ま、真理。気持ちはとても有難いが、あ、あたしにも心の準備が…」

そう言いながら慌てて手を出して、真理のシャツの襟を合わせるように閉じる。動揺する視線を部屋の中の彷徨わせていると、ベッドの上で身を起こして朱鷺を見ていた美枝と目が合った。

「美枝、これはどういうことだ? まさか…」

「会長―。真理はさ、ブラ、着けないんだよー」

朱鷺の視線の反対側から声が上がった。恵がモソモソと起き出し、ロフトベッドから下りながら、美枝に向けた質問を横取りして返事を返している。

美枝も一つ溜息をついて起きあがり、ベッドから下りて来た。

「真理、君にはそういう趣味があったんだな? シスター同士、早く互いのことを詳しく語り合うべきだった」

朱鷺は、起きてくる二人を目の端に止めながら、真理に向き直って両肩に手を掛けて話しかけた。

そう言われても返答に困る。朱鷺の言う、そういう趣味の意味が分からなかったし、急に心配げな表情で肩を押さえられても戸惑うばかりだ。

――真理に露出狂とか見せたがりとかいう言葉を教えても、何のことなのか理解しないだろう。

「会長。真理はブラジャーという言葉さえ殆ど知らなかったんです。着けるどころか触ったこともないって」

「なに? す、すると、いつもこの恰好なのか?」

「もっと酷いよー。シャワーの後なんか、すっぽんぽんで出てくるんだから。でも、メグより胸が小さかったから、許すことにしたの」

「すっぽんぽん! し、下も、か?」

「何を言ってるんですか。僕だってパンツくらい持ってますよ。でも、下着ってパンツだけだと思ってたし、それで不自由したことないから、それ以外のものを考えたことがなかっただけです」

自分を差し置いて、目の前で交わされる自分ネタの話題が妙な方向に盛り上がっていくのを聞いて、真理は堪らずに口を挟んだ。

「でも、スタイル良かったわ。贅肉は無いし、腰の位置が高くってお尻がキュッと締まっていて。肌もスベスベで、ほんのりと桜色のなだらかな隆起が、ああ、思い出しても…」

「美枝! 思い出さなくて良いから。僕もブラジャーの必要は分かったよ」

美枝は、まだ昨夜の妄想の余韻を引きずっていた。真理も昨夜の身の危険を思い出して止めに入る。

「た、楽しそうだな。あたしもこの部屋に越してきたいんだが、誰か換わってくれないか?」

羨ましそうに指を口にあてて聞いていた朱鷺が、手を挙げて交代を申し出る。

「「「却下!」」」

全員の声が揃った。

ガックリと肩を落とした朱鷺だったが、何かを思いだしたのか、ガバッと顔を上げた。

「今、ブラジャーの必要が分かったって言ったな。買いに行くのか?」

「ええ、美枝とメグが付き合ってくれるらしいので、午後から一緒に買い出しに行こうと思ってますが…」

「あたしも行く! これは義姉の務めだ。天があたしに与えてくれた、嬉し恥ずかし初めてのお買い物!のチャンスと言い換えても良い。真理! あたしも参加するからな!」

「会長―。何だか、美枝とキャラが被ってるかも…」

夜が明けたばかりの寮の部屋の前でこんな会話を繰り広げていれば、巻き添えになって目を覚ます寮生も少なくない。あちこちの部屋からガタガタと音が聞こえ始めたので、慌てて全員が部屋に避難した。避難と言うより迷惑の掛け逃げだ。

「ところで、こんな朝早くから何しに来たんですか?」

真理の言葉で、やっと朱鷺が部屋に現れたという本題に話が戻る。

「おお、そうだった。あたしとしたことが、すっかり本題を忘れていたぞ。それだけ真理の寝起き姿の破壊力が高かったと言うことだな。……真理、昨夜のミーティングで、君の体力を試させて貰うと言ったのを覚えているか?」

「はい」

「あたしは毎朝自主トレーニングを行っている。これからアポロと一緒にドッグランを走るつもりなんだが、君も一緒にどうかと思ってな、誘いに来たのだ。どうだ?」

朱鷺は、自分の朝練に真理を付き合わせようと思って扉を叩いたらしい。

「はい、喜んで。僕も山では毎朝走ってたんですが、ここでは何処を走って良いのか分からなくて、お聞きしようと思ってたんです」

身体を動かすことが好きな真理も異存はなかった。

「なら、話は早いな。あたしは飼育棟に行ってアポロを受け取ってくるから、君も着替えて飼育棟前に来てくれ。待ってるぞ」

「会長。私もご一緒して良いですか? 昨日はクーとあまり遊んでやれなかったから、朝から散歩に連れて行こうと思ってたんです」

「おう、良いぞ。だが君たちにドッグランは無理だな。サーバントの運動場は芝が敷き詰められていて広いから、その辺りを歩かせると良いだろう」

「メグも行くー。アゲハも散歩が好きなんだよー」

残る二人も、朝練ではなく散歩という注釈付きで同行を申し出た。

「分かった。先に飼育棟の前で待ってるから、三人とも直ぐに支度しておいで。あまり遅くなるなよ」

飼育棟の場所は、昨日、美枝がクーを預けに行ったので知っている。三人は大きく頷いて朱鷺を見送った。それから、それぞれのベッドの前に戻って着替えを始める。

真理は、カッターシャツを脱ぎ捨ててからゴソゴソと箪笥を漁り、白のTシャツを引っ張り出して首を通す。次いで、学園制定の水色のジャージを身に着けた。

当然の如く横目でしっかりと着替えを見ていた美枝は、ゴクンと息を飲みながらジャージを後ろ前に穿いたりしている。時々、フラフラと吸い込まれるように真理に近寄って行っては、にっこりと笑顔で撃退された。

「美枝―、暴走を始めてるよー」

恵は美枝を監視しているらしい。さっさと着替えて、アゲハにリードを付けていた。

三人の立ち位置が、二日目にして早くも確立されつつある。


それなりに急いで身支度し、寮の隣にある飼育棟の前に行くと、既に朱鷺はアポロを連れだして待っていた。

「会長はさー、リード付けないの?」

「朝練の時だけはな。こいつは穏和で普段でも必要がないくらいなんだが、この巨体がリード無しで歩いていたら怖いだろう? いくらミストレスがノーリードを許されているって言っても、他人を脅かす趣味はないからな」

恵の質問に、頭の後ろを撫でながら答えた。

アポロの頭は屈まなくても手の届く高さ、朱鷺の腰の近くまである。美枝や真理なら腰の上、恵なら殆ど胸の高さに達するくらいの体高だ。これがリードもなく歩いていたら、気の弱い者でなくとも、叫び声を上げる方がむしろ普通だろう。

光沢のある黒一色の身体。断耳はしていないが、わざわざ耳を立てる必要もない程、精悍な顔つきをしている。長身の朱鷺の脇で前足をすっと伸ばして立っている姿は、黒の毛色と相まって、主人の命令を待つ忠実な執事のようだ。

「美枝、君も飼育棟に預けているんだな? 飼育係の方に言って置いたから、連れ出しておいで」

「あ、はい。有り難うございます」

美枝は、朱鷺に促されて飼育棟に入っていった。美枝を待つ間、朱鷺は二人を近くに呼んで、学園内の施設を紹介する。

「この飼育棟と寮は、校舎の前庭に面して立てられているんだ。正門を入って右手に池があっただろう? そこを塀に沿って迂回する小道がここに続いている。君たちも通ってきたはずだな。校舎は正門の正面。左手の駐車場の先に体育館と図書館がある。図書館にはマンガは少ないが、映画のDVDや音楽のCDを借りることが出来るから、寮生には有難い施設だよ」

朱鷺は一々建物のある方向を指差しながら、簡単な説明を加えた。

「寮と校舎の間にある、あの尖った屋根の建物が礼拝堂だ。学園長が司祭を兼ねているが、信仰を強制されているわけではない。以前は聖書の授業があったらしいが、今は召喚実習に時間を取られてそれどころではないと言うのが実状だな。礼拝は行われているから興味があったら行ってみるが良い」

前庭周りの施設の紹介が終わったところで、美枝がクーを連れて戻ってきた。朝練ではなく散歩が目的なので、きちんと赤いリードを付けている。

「戻ったか。じゃあ、訓練場に移動しよう」

朱鷺は三人を促して、寮と礼拝堂の間の通路から校舎の裏手に向かった。

「クーとアポロって、何だか似てるよねー。親子みたいだよ」

「い、色だけよ! 顔も体つきも違うでしょ」

美枝には、さっきキャラが被ってると言われたことがショックだったらしい。一生懸命に否定するが、艶のある毛色だけでなく被毛の長さや締まりのある体型も似通っている。顔付きはアポロが貴族的であるのに対して、クーが庶民的と、少し違う。身体の大きさもかなり違うが、つまるところ、被ってると言われても仕方ないくらいの相似性はあった。

アポロを見て美枝もそう思ったからこそ、即座に否定したのだ。

礼拝堂の脇を抜けると、左手の校舎の裏手にグラウンドが見えてくる。

楕円形の二百メートルトラックが引かれた赤土色の運動場で、斜めにギリギリ百メートルのトラックも引かれていた。

その先には部活棟らしい小さめの建物と、五十メートルプールが設置されている。

右手の寮の裏手に当たるところには、四階建ての鉄筋の建物が建てられていた。窓が少なくかなり頑丈そうに造られているので研究所のようにも見える。

ここが召喚実習棟、と朱鷺に教えられて、一同、神妙な顔付きで頷いた。

その更に裏手、プールの先から運動場・実習棟の先まで、丈夫そうな鉄柵に区分けられた広大な広場が、目的のサーバントの訓練場だ。

一面に芝が敷かれた訓練場には、幾つかの施設がある。

一つは、芝をはがして四百メートルトラックを引いた、ジャイアント・シグナルチェイスのコース。その隣にあるのは、同じ四百メートルトラックが引かれているが、コース中に生垣や水濠、急坂、巨大なハードルなどが設置された障害コース。更にその二つを併せたくらいの広さの総合運動場。

しかし、ここの一番巨大な施設は、この訓練場の先にある武蔵野丘陵の地形を活かして造られたドッグランだ。

起伏の激しい雑木林の中を、縫うように造られた全長三キロのコース。平均斜度三十度の急坂から、長さ二百メートルに及ぶ丸太の一本橋、大木の間に吊されたブランコ状の浮き橋、岩を積み上げた登坂路や湿地に設えた飛び石の通路など、コースの中に様々な障害が造られている。

朱鷺は、鉄柵の扉を開いて中に入ると、それらのことを一通り説明した。

「あたしの朝練は、アポロと一緒にこの運動場を一回りして、ドッグランを一周することだよ。全部で五、六キロくらいかな。だが、サーバント用に造られたドッグランはかなりキツいぞ。美枝と恵は止めておいた方が良い。運動場で散歩させるだけでも君たちには良い運動だ」

愛犬を連れて付いて来た二人に声を掛け、朱鷺は真理を見据える。

「真理、君はどうする? 初回だから運動場のランニングだけでも構わないんだがな」

「いえ。最後まで付き合います。ドッグランの方が楽しそうだから…」

「そうか。だが、無理はするなよ」

朱鷺は真理の答えに満足そうに頷いて、ストレッチを始めた。

「筋を伸ばしておけよ。いきなり走ると怪我をするからな」

真理を横目で見て同じ体操を促す。その言動から真理は、今から付き合う朝練がかなりハードなものだと予感した。

相手に合わせるわけでなく、自分がいつも行っているストレッチで入念に身体を解し、そろそろ良いだろうと思ったところで朱鷺を見る。朱鷺も準備が済んだようで、真理のスタンバイを待っていた。他の二人も、真理のストレッチに見よう見まねでつき合い、せめてスタートだけでも一緒にと、朱鷺の横に並ぶ。

「ここから鉄柵に沿ってドッグランの入り口まで半周、ドッグランを一周したら、二つの競技コースの外を廻ってここに戻ってくる。遅れても構わないから、きちんとペース配分をして最後まで付いて来いよ。良いな?」

「はい!」

朱鷺は、真理だけに視線を向けてコース説明をした。力みのないはっきりした返事に、思わず顔をほころばせる。横に並んでいる二人には無理だと分かっているので、わざわざ目を合わせることもしなかった。

「準備は良いな? いくぞ!」

かけ声と共に一斉にスタート。

だが、十メートルも走らないうちに二人が脱落した。

「真理、早すぎるわ!」

「メグ、もう無理…」

諦めるには早すぎる距離だが、スタートの段階で一気に二、三メートルの間を空けられては、付いていく気も失う。

美枝は、真理たちに付いていこうとするクーにリードを持った手を引っ張られたらしく、腰を落として両手で押し止めている。恵の方は、意外に俊敏に走ったアゲハをリードで抑え、諦め顔で二人の後ろ姿を目で追った。

初めからそうなることを予想していた二人は、振り返ることもなく互いの呼吸を合わせるように併走していく。

最初の半周、芝の総合運動場の奥には、救助実習で使われる廃屋のようなビルや鉄塔などが設置されていた。その辺りには実習用の資材が置かれているので、そこをショートカットしてドッグランのある雑木林の前に進む。入り口までは四百メートルほどの距離だ。

「真理、足馴らしはここまでだ。いつものペースに上げるから、無理して付いてくるなよ。ドッグランには矢印の道案内がある。その通りに走れば迷わないからな」

これまでスピードをセーブしていたらしく、朱鷺は余裕のある声で話しかけた。

そのまま、振り向かずにスピードを上げて真理を引き離していく。当然のように、朱鷺と併走していたアポロもスピードを上げる。

「大丈夫。ドッグランで、追いついて見せます!」

真理は朱鷺の背に声を掛ける。

「楽しみにしてるぞ!」

朱鷺は真理の声に振り返って、ニヤリと意地の悪そうな笑顔を見せた。

朱鷺がドッグランの入り口にさしかかった時には、既に三、四十メートルの距離が開いていた。急坂を滑るように下り、岩をよじ登って、丸太の一本橋を渡り始めたところで、朱鷺はスピードを緩めて後ろを振り返る。

運動場での単純なスピード競争ならともかく、複雑な地形のドッグランで人に負けたことはない。二年間、殆ど毎日走ってきたコースで、障害物の場所だけでなく岩登りの足場の位置まで頭に入っている。初めてここを走る者に追いつかれるわけはないと思っていたが、真理の言葉が気に掛かった。意地で口を利いたにしても嘘を言う奴ではない。

少しは自信があるのだろうと、差を確かめるべく振り返ったのだが、明らかに距離が縮まっている。一本橋はこのコースの中で一番見通しの利く場所だ。そう考えて、初めはここで少しだけ真理を待つ気でいた。しかし、振り返って見れば二十メートルくらいまで、その姿が後ろに迫っていた。

運動場で引き離した距離の半分近くを、このコースだけで縮められたことになる。

慌ててアポロの背中を軽く叩いてスピードを上げさせ、緩めた速度と緩んだ気持ちを元に戻す。一本橋ではそれ以上差を縮められることはなかったが、ブランコや飛び石、急坂の登坂、岩場の下りなどをこなして出口にさしかかった辺りでは、真理の激しい息づかいが間近に聞こえるほど迫られていた。

そこから二つの競技コースを回り込むようにして半周。

スピードでは朱鷺の方が勝っているので、ゴールに着いた時には三十メートルほどの距離を開けていた。ゴールしたアポロを労るように背を撫でながら振り返ると、ラストスパートに入った真理の、口を一文字に結んだ厳しい顔が見える。

「真理! あと少しだ!」

声を掛けて手を広げる朱鷺の胸に、倒れ込むように真理が飛び込んできた。

「君は、凄いな…」

息を整え、タオルで顔を拭いている真理に、朱鷺は感嘆の言葉を掛ける。

正直、ここまでやるとは思ってもいなかった。競争を始める前までは、運動場一周だけなら、或いは自分より早いのかも知れないとは考えたが、慣れたドッグランの三キロで、百や二百メートルは引き離すつもりでいた。

ところが、走るスピードは明らかに自分より遅いのに、自信のあった場所で追いつかれる、こんな展開は予想もしていなかった。しかも、真理には初めてのコースなのだ。

朱鷺が驚いたのは当然だろう。

「いえ、会長には、追いつけませんでした」

しかし、朱鷺の感嘆に対し、真理が口にしたのは敗北の言葉だった。

「いや、完全に追いつかれたぞ。ドッグランであたしより早い奴は初めて見たよ」

「でも、待っていてくれたから…」

「待とうとは思ったがな、そんな余裕はなかった。途中からは必死だったぞ」

真理は、ドッグランで朱鷺が振り向いたのを見て、加減してくれたと思ったらしい。

朱鷺にも最初はそのつもりがあったのだが、手加減出来なかったことを正直に言った。

それから真理の背を一つ叩いて、

「本当に、たいしたものだよ。……だがな、真理。あたしのことは、お姉さまと呼べと言ったはずだが?」

と、感想のついでに、いつもの言葉を口にする。

「は、はい、…お、お姉さま」

恒例になったやり取りの結果に満足して、朱鷺は笑みを浮かべて大きく頷いた。

そこに、散歩組の二人が戻ってくる。

「会長、早いー!」

「真理。残念だったわね」

ゴールの瞬間しかしか見ていない二人は、当然の感想を口にした。

朱鷺と真理が雑木林に消えて二十分、雑草だらけの芝生に短い足を取られてよろけるアゲハを追い回したり、久々の広場で興奮気味のクーに引きずり回されたりして、自分の愛犬とのスキンシップを楽しんでいた二人には、ドッグランでの息詰まる展開など知るよしもなかったのだから仕方ない。

「いや、今日のレースはあたしの負けだよ」

最後に朱鷺が締めくくって言った言葉に、揃って首を傾げた。


「じゃあな、管理室で待ってるぞ」

「有り難うございました」

「お疲れさまー」

と、飼育棟の前でアポロを預ける朱鷺に手を振って別れ、三人はゆっくりと部屋に向かった。クーを預けなかったのは部屋で留守猫をしているモーティに会わせるためで、部屋飼いするのでなければ寮に連れてきても良いと、朱鷺に聞いたためでもある。

大型犬は、その外見に反して静かで従順な犬が多い。飼育棟に預けるのは、主に適度な運動の出来る環境で飼育するためで、犬の健康を考えてのことだ。

部屋に戻ると、真理のロフトベッドの上で丸くなっていたモーティが、扉の開閉音を聞きつけて耳を向けた。薄目を開いて真理の姿を確認し、安心したように直ぐに目を閉じてそのまま眠りをむさぼる。クーの姿も目に入ったはずだが関心を示した様子はない。

「モーティ」

真理の声に迷惑そうな顔で首を上げたが、睡眠の魅力に勝てないらしく首を捩って頭を布団に潜り込ませ、拒否の態度を示した。

「真理、もう良いわ。眠いところを起こしてクーに会わせても、却って嫌われそうよ。朝食の時までここにいるから、起きたら会わせることにしましょう」

真理も美枝の言葉に頷いて、モーティを起こすのを諦めた。

「アゲハとは仲良くなったから、ずっーといてもいいよ」

恵の言葉通り、クーとアゲハは仲良く寄り添っている。散歩の時に互いに臭いを嗅ぎ合い、暫くじゃれ合っていたから、部屋に来るまでにかなり打ち解けていたのだろう。

「じゃあ、少し早いけど、僕たちも着替えようよ。汗をかいたジャージのままで食堂に行くわけにもいかないし、シャワーも浴びたいからね」

「先に言っておくけど、裸のままで歩くのは禁止よ!」

七時の朝食までは三十分以上あるが、シャワーを浴びて着替えればそれくらいの時間は直ぐに経つ。真理の提案は当然だったが、シャワーという言葉で美枝の脳裏には昨夜の衝撃映像が蘇った。

「分かってる。また、美枝に襲われそうになるのは嫌だからね」

「襲わないわよ! …妄想はするけど」

「暴走もするよねー」

美枝が蘇らせたのはヌード映像だったが、真理たちに蘇ったのは美枝の暴走シーンだ。

「あ、あんたたちねぇ、馬鹿言ってないで、さっさと入ってきなさい! 真理はいっぱい走ったんだから、良く汗を流すのよ。あ、洗ってあげたいけど…」

形勢不利と見て、美枝は真理を追い立てることで体勢を取り直す。

「はーい」

妄想が入りかけたことをスルーして、真理は元気良く返事をしながらシャワールームに向かった。

「私は汗もかかなかったから、顔を洗うぐらいでいいかな。メグはどうする?」

「メグも、それだけにする。あと、歯磨きー」

「そうね。じゃあ、順番で洗面所を使わして貰いましょう」

「あっ! メグ、アゲハにご飯やってなかったから、美枝が先に使ってて」

気を利かせたのか、本当に忘れていたことを思い出したのかよく分からなかったが、慌てて机の下からドッグフードを引っ張り出しているメグにお礼を言って、美枝はシャワールームに声を掛けた。

「真理―、洗面所を使うわよ。入って良い?」

「いいよー」

何だか(いいよ)と言う言葉が(ひーよ)と聞こえたが、了承したのは間違いないと思って扉を開く。シャワールームとの間にはアコーディオン式の簡易扉があるので、シャワーの飛沫が飛んで来ることもないし中が見えることもない。相手が異性ならこんな事は出来ないが、同性の、しかも共同生活をする身ならば今後もあることだと、美枝は自分に言い聞かせて中に入った。

「ご免ね、顔を洗うだけだから直ぐに済むわ」

「了解―」

真理の返事が(ひょうはい)と聞こえる。

「あなた、中で何やってるの?」

「…頭を洗って身体を洗ってシャワーで流しながら、歯を磨いてるとこ。うっ、ペ!」

返答に間が空いたのは、歯ブラシを口から外していたからだろう。おかげで言葉はハッキリ聞こえたが、喋ってる間に歯磨きが喉に入ったらしく最後に擬音のおまけが付いた。

「器用なんだか、面倒くさがりなんだか。ちゃんと床も流しておいてよ」

「はーい」

返事の続きは、ガラガラと口を濯ぐ音に変わった。

(まあ良いか。…本当に男の子みたいよね)

美枝は呆れたように首を振り、洗面台に向かって独り言に感想を漏らす。そのまま、バシャバシャと荒っぽく顔を洗っているのは、自分が真理を異性みたいに意識したことを洗い流すためもあったかも知れない。

「お先にー」

歯磨きも終わって声を掛け、洗面所を出て行こうとすると、

「あっ、僕も出るよ」

と、シャワールームから真理の声。美枝の返事を待たずにアコーディオンを勢いよく引き開けた姿は、今度こそ本当のスッポンポンだ。頭にタオルを巻いて、手に歯ブラシを持っているだけ。

「馬鹿―――!」

美枝は顔を真っ赤にして飛び出していった。


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