常識?
(5)
実際に時計を見れば一時間程しか掛からなかったが、自室に戻った真理たちは精も根も尽き果てたという感じで一斉にテーブルに突っ伏した。モーティとアゲハも疲れたらしく、それぞれベッドの上と机の下に戻って丸くなる。
話したいことは山ほどあった。互いのこと、役員になったこと、会長たちのこと、監事のこと、サーバントのこと、進路選択のこと、今後のこと、…そして、明日のこと。
しかし疲れ切って頭が回らない。考えがまとまらない。言葉が紡げない…。
取り敢えず、と真理は行動を起こすことにした。
「順番でシャワーを使わない? こんな時は、さっぱりするのが一番だよ」
思い切り肘を張ってテーブルから身体を引き剥がすと、出来るだけ明るく声を掛ける。
「賛成だわ。とにかく、疲れを流したいわね」
「メグも、変な汗かいちゃった。何だか、身体がべとべとする気がするー」
美枝と恵も真理につられて身を起こし、忽ち意見に賛同した。気分転換と言うことだけでなく、一日中朱鷺に引きずり回されたおかげで脂汗のようなものも気になっている。
「じゃあ、ジャンケンでもする?」
誰しも汗を流したいのは同じだろうと、真理は公平な順番決めを提案した。
「私は後で良いわ。ほら、髪が長くて洗うのに時間掛かるから」
「メグも後で良いー。真理が一番短いから、真理が先!」
提案に対し、美枝と恵の返事は揃っていた。髪の長さはともかく、ゆっくり入りたいのだろうと察して、真理は素直に頷く。急かされているような気もしたが、風呂でもシャワーでも身体を洗えば終わりという性格だから、さほど気にならない。
「ふふっ、有り難う。じゃあ、先に使わせて貰おうかな。僕は烏の行水って言われているくらいだから、直ぐ出るよ」
「ちゃんと洗うのよ。後でママが検査するからね」
軽口を叩きながら自分の整理箪笥に着替えとタオルなどを取りに行く真理に、美枝は珍しく際どい冗談を口にした。シャワーという自分たちの日常行動に戻ったことで、重荷から解放された気分になったのだろう。
「洗ってくれる? ママ」
冗談をもっと際どい冗談で返されて、美枝は忽ち真っ赤になった。
「ば、馬鹿言ってないで、さっさと入りなさい」
浮かれたような足取りでシャワールームに向かう真理の背を、照れ隠しの大声でどやしつける。少し噛んでしまったので、動揺していることがバレバレだ。
「はーい」
真理は軽く振り向いて返事を返し、追及することなくシャワールームに消えた。
「まったく、もう! からかわれたわ」
「美枝が先に仕掛けたんだから、自爆だよー」
「何にも知らないような顔をして、結構、真理も際どいことを言うのね」
「もしかしたら、本気かも」
「えっ!」
からかわれた憤懣を愚痴にしてこぼす美枝に、相づちを打っていた恵がとんでもない台詞を返した。絶句して固まった美枝が目を向けると、ニヤニヤした恵の顔が映る。
「もう! メグ、からかったわね!」
そう言って、もう一度テーブルに突っ伏す美枝の顔に、恵のミカンがぶつかった。
「ミカン、食べる?」
「…うん」
シャワールームから、水の流れる音とともに、フン、フン、と鼻歌らしきものが聞こえる。そのバックミュージックを聴きなから、まったりとミカンを食べる二人。
「今日はさー、いろんなことがあったよね」
「そうね。おかげでメグも真理も、今日、知り会ったばかりとは思えないわ」
「そうだよねー。もう何日も一緒に暮らしてた感じ」
互いにミカンを一つ食べ終わり、美枝が自分もシャワーの支度をしようと身を起こしたところに、
「お待たせー!」
と元気良く、真理がシャワールームの扉を開いた。
「次は、誰?」
二人に声を掛けて、タオルで頭を拭きながらベッドのところに戻る真理。
真理の視線が二人を捉えるのと同時に、真理に向けられた二人の視線が、何故かそのまま凍りついた。
「どうしたの?」
真理の呑気な言葉に呪縛を解かれた美枝が、一気に顔を赤くして叫んだ。
「ま、真理―! 服、服を着なさい! せめて下着を、下着くらい付けなさい!」
忽ち浴びせかけられる罵声、というか注意の連呼。
真理は、何を言われているのか分からないと言う顔で、キョトンとしている。美枝が自分の身体を指差しているのを見て、初めて言われたことに気付いたというふうに、
「下着なら付けてるじゃないか、ほら」
と、自分のパンティをつまみ上げた。
「な、何をしてるのよ。下じゃなくて、上! ブラジャーぐらい着けてきなさい!」
「ブラジャー?」
「ブラジャー、知らないの?」
なにそれ?と言う顔で美枝を見つめる真理に、恵が声を掛ける。
「…乳当てのことかな?」
「と、とにかく、タオルで良いから胸を隠してちょうだい! 話はそれからよ」
上半身裸のまま、のんびりと考えながら答えている真理に、真っ赤な顔をした美枝が業を煮やして懇願した。
不思議そうな顔をしながらも、懇願を入れてタオルを胸に巻き付ける真理を見て、美枝は明らかにホッとした顔付きで胸をなで下ろす。
「…これで良い? でも、何故?」
「真理。あなた、冗談で言ってるんじゃないわよね?」
「冗談も何も…、何でそんなことを言われるのか、分からないのは僕の方だよ」
美枝には、先程の際どい冗談の余韻が残っていたらしい。
十五歳にもなってブラジャーを殆ど知らないと言うのは非常識に過ぎる。早い娘は小学校の頃から着け始めるのだから、真理の言葉は冗談としか思えない。しかし、同性とは言え、上半身むき出しで知り合ったばかりの者の前に現れるのは、冗談にしても質が悪過ぎた。
真理がそんな悪趣味だとは思えないから確認したのだが、真顔で答えられて、美枝は却って当惑した。
「ブラジャーを着けたことないの?」
「うん。名前は思い出したけど、触ったこともない」
「はあ…」
脱力感で肩が落ちる。何から話したら良いか、小学校一年生に初めて算数を教える先生もこんな気持ちなのだろうかと、現実逃避気味に考えた。
「メグ、先にシャワーを使ってて」
「うん」
ゆっくりと真理に常識を教えるために、取り敢えず恵をシャワーに入れることにする。恵も長くなりそうな気配を感じたのか、二つ返事で直ぐに支度に向かった。
「真理。そのままじゃ風邪を引くから、上に何か着てきなさい」
「…はい」
真理は、何か言いたそうな顔で美枝を見ていたが、真剣な目つきに押し返されてすごすごとベッドに向かう。美枝はその後ろ姿を目で追った。
少女にしては少し広い肩幅。贅肉のない均整の取れた身体。お尻の肉も引き締まって、後ろ姿は少年のように見える。
(初めてあった時、少年と間違えたわけだわ)と、美枝は、駅前での初顔合わせの時を思い出していた。同時に、その時のトキメキも思い出して顔が熱くなる。
真理の後ろ姿は少年のようだったが、透き通るように白く滑らかな肌は、明らかに少女のものだった。胸は、なだらかな丘陵程度のふくらみで、本人がブラジャーの必要を感じないのも分かる。しかし、同性からしても美しいと感じる肌に包まれた柔らかなそうな隆起は、目のやり場に困るほど美枝を刺激した。
素肌の上から大きめの白いカッターシャツを着ただけの恰好で、真理は美枝の前に戻ってきた。そのまま、テーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろす。シャツの裾は太股の辺りまで隠していたが、妙に意識してしまった美枝には、これも刺激的だった。
「真理、誰かに教えられなかった? 今までの同級生の女の子とか、先生とか…」
顔を赤らめたまま、声だけは落ち着いて聞こえるように、わざとトーンを落として話す。
自分がブラをしたのは、小学校の時にふくらみ始めた胸が気になって母に買って貰ったのが初めだったが、誰かから聞いたという記憶はない。それでもブラを着け始めてから、同級生と秘密の話題として話し合ったこともあったから、友達から教えられるのが自然だと話を向けたのだ。
「同級生って言っても、僕以外は男の子だけだったからね」
「どんな学校なのよ!」
真理の返事は、かなり意外だった。つい声を荒げて突っ込む。
「山育ちって言ったよね。山間の分校で、生徒は小学生も合わせて二十三人。女の子では僕が一番年上で次は小学生だったから、そんな話はしたことがないよ」
「…立ち入ったことを聞くようで悪いけど、お母様は教えてくれなかったの?」
これまでの会話で、真理の口から両親の話は出てきていない。
年頃の少女が身に着けるものに、母親が関心を持たないなどということは考えられなかったので、何か事情があるのだろうと思って美枝も話題にしなかった。しかし、ここまで話を進めたら聞かないわけにもいかない。変な言い方をして傷つけないようにと、言葉を選んで尋ねた。
「両親は僕が小学校四年の時に亡くなった。それからは、香母さんに育てて頂いたんだ。山の中の自宅兼研究所で殆ど一人きりで仕事してたけど、僕には優しくしてくれた。でも、身の回りのものには無頓着だったね。このシャツも香母さんのお下がりだよ」
「分かったわ。ごめんなさいね、嫌なことを聞いて…」
「気にしなくて良いよ。亡くなったのは五年も前のことだし、香母さんも本当の娘みたいにしてくれたから。伯母さんと呼ぶのが禁句だったくらいにね」
思いがけず重い話に及んで美枝は息を飲んだ。それでも、真理が何でもなさそうな顔で正直に話してくれたので救われたと、ホッとして頭を下げる。真理も、本当に何でもなかったことのように手を振って、美枝に頭を上げさせた。
しかし、ブラジャーを着けさせるための説明が済んでいない。
真理の過去や、これまでの生活の一部を聞けたことは嬉しかったが、本題が全く進んでいないと、体勢を改めて真理に向き直った。
「じゃあ、改めて教えてあげる。ブラジャーは女の子の大切なところを守るためのものなの。ただの下着じゃないわ。あ、赤ちゃんを育てるんだから、大事にしなくちゃいけないところなのよ。だから、必ず身に着けて守りなさい」
本題を進めようと決心したものの、改めて説明しようと思うと妙に照れくさい。それでも基本的なことを話して説得し始めた。
「でも、布を巻き付けるなんて、窮屈なだけじゃない? 僕は嫌だな」
「布? 真理。あなた、本当に何も知らないのね」
真理の反応が、どうもおかしい。これは現物を殆ど知らないからだと気が付いたが、実際に自分のものを持ってきて見せるのもどうかと思う。内心で葛藤を重ねながら真理の興味なさそうな顔を見ているうちに、段々と腹が立ってきた。
真理に裸を見せられたんだから同じようなことをしても良いだろうと、腹立ちが手伝った勢いで、自分の服に手を掛けて一気にまくり上げた。
「ほら!」
「へえ、美枝のは、随分大きいんだね!」
自分のブラジャーを見せたつもりが、真理は胸のふくらみを見て呑気そうに感想を述べている。
「何処を見てるのよ! これ。これよ。これが、ただの布に見える?」
既に腹を立てていた美枝は、その言葉に逆上して自分の胸を指差した。
「紐? 紐で吊してるんだね」
指の位置が肩に近かったせいか、真理はブラジャーを吊す肩紐を見て驚いている。
布を巻き付けているくらいの印象しか持っていなかった真理にとっては、胸のふくらみを紐で吊すという機能が、余程珍しかったのだろう。
「馬鹿―! ちゃんと見なさい! 大事なところを包んでるでしょう。こうやって赤ちゃんが吸うところを守ってるの! よく見なさい! サ、サイズが合わなくて貸すわけにはいかないから、明日、買いに行くわよ! 絶対に連れて行くからね!」
しかし、その真理の感嘆の言葉は、逆上気味の美枝の神経を逆撫でした。
プツンと切れて、自分の胸のあちこちを指差しながら説明し、最後には声を荒げて買い出しに行くことを宣言した。
「美枝、何やってんの」
その声に驚いてシャワールームから出てきた恵は、服をたくし上げて、真理に胸を見せつけている美枝を見て首を傾げた。
「メグ。こ、これは、その…。そう、メグも付き合って。真理のブラジャー、明日、買いに行くからね。とにかく着けさせなくっちゃ、こっちの身が持たないわ。ハア、ハア」
美枝は狼狽して言い訳を考えたが、直ぐには思いつかない。そこで、言い訳の代わりに一緒に買い出しに行こう恵を誘ったわけだが、興奮のあまり息継ぎを忘れて喋ったので、当然息切れした。
「発情してる?」
「息が切れただけよ。…真理! 分かったわね!」
恵の誤解を解きながら、自分の狼狽を、八つ当たり気味に真理に押しつける。
「僕は、あまり気が進まないな…」
真理の方は、依然として関心が薄い。
その薄い反応で、ついに美枝の逆上が暴走した。
「あなたね、私の妄想を暴走させるつもり? ベッドが隣なんだから、夜ばいを掛けるわよ? 理性なんてものは紙切れ同然なんだから、二、三日もこの状態でいたら粉々に破いて紙吹雪だわ。絶対、襲うからね!」
「…分かった。守るっていうのは、美枝からなんだね」
かなり怖い台詞の羅列に、真理は溜息をつきながらも曲解気味に納得する。
「もう、どうでも良いわ。あなたのベッドに潜り込んで、あんなことやこんなことを色々してあげるから。真理、あたしもう我慢出来ないわ。美枝、僕もだよ。ああ! 二人で幸せになりましょうね! …ハア、ハア」
美枝の逆上暴走は、結局、いつもの妄想の暴走に落ち着いた。
「完全に発情した!」
「…メグ。明日、付き合ってくれる? 身を守る必要っていうのが、よく分かったから」
真理の説得?に成功した三十分後、シャワールームから、水音に混ざって美枝の嗚咽が微かに聞こえていた。