夜道をゆく
長いあいだ眠っていたようなぼやけた思考が、頭のなかを覆っている。ゆっくりと頭を振ると、若干ではあるがそれが振り解かれるよう。明瞭ではない視界で辺りを見渡すと、どうやらいまは夜で、ここはどこかの細い路地であることだけが判った。左右には背丈よりも少しだけ大きな壁が立ちふさがり、まるで迷路のような印象を与える。
風はない。
音もない。
あるのは私と。夜道と。電灯と。そして――。
満月だ。
黒塗りの空には大きくて丸い月が浮かんでいた。青白い明かりを垂らす月は私を見守っているようだった。あるいは、見下しているようだった。そのどとらでも私はよかった。こうして何かがあるということは、少なからず私を安心させる。一人ではないという認識は、少なからぬ勇気を生む。
歩かねばと、ようやく思う。私がここにいる理由というものは判らない。どうしてここにいるのか。どうやってここに来たのか。それらは当然にわいて出る疑問だ。そしてそれらを知るためには、ただ歩かねばならない。その思考は、まるで天からやってくる啓示のように、私の頭のなかにすこんと落ちてきた。
私の前には細長い道が続いている。等間隔に電灯が立ってはいるが、それはおぼろげで、どこか頼りない。どちらかというと、月明かりのほうが勝っているようにも思える。
後ろは――。
振り返ると、そこには左右と同じ壁が立ちはだかり行き止まりになっていた。しかもただの壁ではない。そこには何やらスプレーで描いたらしい、不器用な文字がのっぺりと張り付いていた。
<この先、無。進むべき者だけが進むべし。>
その文字列を見て、少しだけ疑問がわいた。無というのは、つまり何も無いという意味だ。だから行き止まりを無と表現するのは、まあ、道がないという意味で捉えればそこまでおかしくはない。けれどその後だ。進むべき者だけが進むべし、というのはどういう意味だろう。ここは行き止まりで、進むべき道なんてものはそもそも存在しない。試しに壁に手を当て確かめてみても、どうやら隠し扉なんてものは見当たらない。乗り越えろ、ということだろうか。乗り越えてみようかとも思ったが、それは止めた。背丈よりも少しだけ高いこの壁は、背伸びをして手を伸ばせば、乗り越えられそうでもある。けれどその乗り越えた先にあるものが<無>だというのなら、そこは私の向かう先ではないのだから。
私は振り向く。
暗闇の先に、吸い込まれるような長い道。ここが道である以上、そしてそれが二方向に限定されている以上、私の進むべき道はこちら側。そう自分に云い聞かせながら、歩みを進める。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう、終わりの見えない道を心なさげに歩いていると、一匹の犬が少し前から歩いてくるのが判った。
「ダックスフント」と声に出さずに呟く。
その姿を見て、そういえばと、思い出す。
昔、私はダックスフントを飼っていた。色は薄い茶色で、ミニチュアだと云われていたが、それとは裏腹にとても大きく育った。あまり頭が良いほうだとは云えなかったが、お座りやお手はきちんとしたし、大人しくて良い子だった。ドッグフードを食べないことがあり、何度か種類を変えた。しかしそれでもあまり食べることはなく、このままでは死んでしまうと心配した。けれどそれも二三日のことで、ある日、何でもないといった表情をして彼女(そう、その犬は雌だった)は美味しそうに器に盛られたドッグフードを食べた。犬が嫌いで、散歩をする際に通り過ぎる他の犬に良く吼えた。お前は良い番犬になるぞと、私はその子を褒めたことを覚えている。彼女が亡くなったのはいつのことだっただろう、死因は老死だった。四角く縁取られた白い棺のなかにこじんまりとおさまる彼女に手を伸ばすと、それは硬く、とても冷たかった。涙が出た。夜になり、そして彼女が埋葬されてからも、私はそのことでたくさん泣いた。そんな私のことを心配してか、他の犬を飼おうかと母が私に尋ねた。私は首を振った。それでは駄目なのだと私は云った。代わりなんてものは何一ついないのだと。けれどいつからだろう、涙は止まり、私は普段通りの生活を送るようになった。彼女のことは忘れてはいなかったけれど、それで悲しむことはなくなった。きっと涙が枯れてしまったのだと、そのときの私は考えた。
瞬時に頭のなかを通り過ぎてゆくそれらの記憶の情景に足を止め、再びダックスフントの姿を見る。似ていると、そう思った。毛の色、大きさ、顔のかたち。それ以外にも、私にしか判らないような些細な部分が、酷似している。ちょうどその犬が私とすれ違おうとする瞬時、私の口から一粒の言葉が漏れた。
「レモン」
それは本当に、無意識のうちに零れたものだった。そしてその言葉は、私の飼っていたダックスフントの名前、それだった。
けれどその犬は私の言葉に反応しようとせず、そのまま通り過ぎていってしまう。違ったかと思ってから、また追いかけようかとも思った。何故ならその先は行き止まりであり、そして無であるのだから。しかしそれはいけないと、誰かの声が私を止めた。辺りを見回せど、そこには何の姿も見えない。あの犬の姿も、いまはもう闇夜の向こう側に消え去ってしまった。
空を仰いだ。
相も変わらず浮かぶ満月が、私を笑っているような気がした。馬鹿にしているような気がした。見下しているような気がした。
「君、なんだね?」
声に出してみるも、返事はなかった。暫くそうしてみるも変化はなく、仕方なしにまた歩みを進める。
どうしてだろうと、私は考える。どうしていけないのだろうかと。万が一あの先に何かがあるのだとしても、犬があの壁を乗り越えることは不可能だろう。だからきっと行き止まりに直面したあの子は、その道を引き返して来るに決まっている。あるいはやはり隠し扉のようなものがあったのだろうかと思い直してから、私は視界の先の人影を認め、立ち止まる。
薄闇のなかに融けてゆきそうなほど弱々しいその姿は、電灯の明かりを持ってしてようやっと認められる。その足取りは不安げで頼りないが、確かにこちらへと向かってゆく。
老人だった。
私の姿を認めると、老人は曲がった腰を少しだけ正して片手を挙げた。
「やあ、こんばんは。今夜は随分と冷えますね」
ええと曖昧に肯いてから、私は先ほど出た疑問について尋ねる。
「その先、行き止まりなんですけれど」
「ええ」と老人はしっかりと肯いて、「判っています。でも、それでいいんです」
そう云われるとどうしようもない。はあと、これまた曖昧に肯いて、脚を前へ向かわせようとする老人を止めるよう、きっと最後であろう問いかけを投げる。
「無――その先にはいったい何があるのですか?」
すると老人は振り向くことなく、
「それは誰にも判らない。私にも。君にも。そしてあの子犬でさえも。何故ならそこは――」
そこで言葉を区切って、老人は咳をするように笑った。
「そこにはきっと、何も無いのですよ」
そう云って、老人は足早に姿を消す。暫くその場で呆然としてから、私は半ば無意識的に、もうそこにはいない老人に問いかける。
「あなたの来た道の先には、いったい何があったのですか」
そしてその呟きを再度心のなかで言葉にしてみてから、私はようやっと、本当に尋ねたかったのはそれだったのだと気づく。私はあんなことを尋ねるべきではなかった。何故なら私は、その質問の答えを知っているのだから。
「そう。その壁の向こうには――」
そこまで言葉にしてから、何故だろう、いまのいままでは確かにそこにあった記憶が、砂のよう、さらさらと頭のなかから抜け落ちてゆくような気配があった。いけないと、私は思った。けれどそれに応えるように、声がする。
「それはとても正しいことなんだ。何も焦る必要はない。君はただその足を前へと向けて。ほら、もう、すぐそこだから」
咄嗟に空を睨んだ。すると、月は笑った。
「ほら。もうすぐ。その先。君にも見えるだろう? いいかい? しっかりと、眼を凝らすんだ」
ため息をついて前を向きなおすと、確かに、少し先に壁のようなものが道を塞いでいるのが判った。壁、と私は思う。どちらにせよ、この道は壁によって閉じられているじゃないか!
「違うね」と月が云う。
「何が違うのさ」
「違うんだよ」
「だから何が……」
「まずはその眼で、しかと確かめて見るんだ。そこにはいったい何があるのか」
私は私の思うよりも素直に肯いたことに驚きつつも、月の言葉の正しさを実感してから前へ進む。それは本当に短い距離で、たぶん一分もかからなかった。明瞭でない視界を模索するように進んでゆくと、果たしてその行き止まりには、ひと一人が入ることが出来るくらいの穴が空いていた。
「穴」と私は呟く。「ここに入ればいいのかしら?」
尋ねるも、返事は無い。空を仰げど、月の表情なんてものは判らない。笑っているのか。泣いているのか。怒っているのか。それとも月に表情なんてものは端から存在しないのか。
あるいはと、私は思う。その沈黙は、月なりの返答を意味しているのではないのかと。
きっとそうなのだと、根拠も無く確信する。あの犬が、そして老人がこちら側からやってきたということは、きっとそういうことなのだ。ここには一つの穴があり、そして私はそこを通り抜けることが出来る。その選択肢は、目の前の壁を乗り越えるよりも何やら確信めいている。そんな気がする。
「それじゃあ月さん。最後に質問なのだけど」どうせ返っては来ないのだろうと諦めつつも、それでもやはり聞いておかないことにはいかないだろうと、私はやや形式的に、空に浮かぶ彼に問う。
「私たち、何処かで逢ったことありましたっけ?」
その返事を待たずして、私は穴のなかへと落ちてゆく。明かりの無いそこは酷く怖く、そして淋しくもあったのだけど、緩やかな落下の感覚を覚えながら、私は、彼の返事が聞こえたような気がした。
「××」
私は空を仰いでいた。不思議なものだ。こうして空を眺める以前、果たしていったい何をしていたのか、私は何一つ覚えていないのだから。記憶はすっぽりと抜け落ち、まるで私は、生まれたての赤ん坊のようだと思った。けれど思えば、空ばかりを見ている人生だったのだと思う。悲しいことがあるたびに、私はこうして河原に腰掛け、きちんと意識を集中しないことには気づかないくらいの、空の流れを見ては泣いていた。だからもしかしたら、いまの私には、何かしらの不幸があったのだろうか。試しに指先で目元を撫でてみても、しかしそこに湿った感触はなかった。
空を眺めていると、何事かを忘れてしまう。思い出そうとしてみても、いまの私には、それが果たしてどんなものだったのかが判らない。だから私は、既に空の暗示にかかってしまっている。それは嬉しいことなのだと思う反面、何処か悲しいと嘆く自分もいる。けれどそれは正しいのだと、私はうんと肯いてみせる。
《それはとても正しいことなんだ》
何処かの誰かの声が蘇る。けれど私にはそれが誰なのかは判らない。眼を瞑って深呼吸をしてみても、それ以外の記憶は何処にも無い。潔く思い出すことを諦めた私は空を眺め、スローモーションのような空の気配を感じてみる。いくつかの雲が通り過ぎ、何度目かの太陽が顔を現す。そうしてゆくうちに穏やかな眠気がやってきて、私の思考を優しく包む。通りで犬の鳴き声がしたけれど、私はもう、このままそっと眠ってしまいたかった。このままずっと、永遠に――。