怪力乱神
さつきと葵は静かに抱き合っていた。どれだけの時間を、そうして過ごしていたのかわからない。二人は身体を重ねることで、安心感を貪っていた。それは性的交渉を伴うものではなく、二人の身長差から、子が母に甘えるように見える。
「誰か来たみたいです」
先に気付いたのは、葵だった。庭に複数の人の気配がしたことに。そして、そのうちの一人は、明らかに人間ではないことも知っていた。
「そうらしいな……先程の一件もあるし、私が出よう」
ものすごい怒気をみなぎらせながら、さつきは庭へと向かった。
腰の刀に手をかけ、目の前に現れた敵が何であれ殺せるよう身構えた。
さつきが庭へと向かったところ、庭の中心に、一人の女性が立っていた。他の気配の主は、姿を隠しているようだった。
「久しいな、相馬の姫君よ」
その女性は、さつきよりも背が高く、身長は五尺六寸(約170センチメートル)ほど。すらりとした長身で、髪は黒。切れ長の目はややつり目気味だ。服装は特徴的で、上は狩衣、下は忍び装束だった。
さつきは彼女の正体に心当たりがある。
「なるほど、梨花が言っていたちーちゃんとは、やはり貴様か――藤原千方」
藤原千方。朝廷に反乱を起こした伊賀の豪族であり、四柱の鬼神を操る魔人である。そして配下の水鬼、風鬼、金鬼、隠形鬼の四鬼は、忍者の原型になったと言われている。つまり、藤原千方もまた忍者なのは間違いない。
しかし、目の前の美女が藤原千方だというのか? そう思われるのも無理はない。だが稗田阿礼や上杉謙信の女性説が囁かれる昨今なのだから、マイナーかつ実在が疑わしい藤原千方が女性であったとしても、別段驚くには値しないことだろう。
「類稀なる忍者エネルギーがほとばしっておると思えば、やはり相馬の姫君であったか」
藤原千方もまた、相馬さつきの正体を知っていた。しかし、千方が忍者の棟梁であることを鑑みれば、それは驚くに値しない。何故なら、忍者は諜報活動のプロフェッショナルであり、彼ら以上の情報通は存在しないからだ。
ちなみに、忍者エネルギーとは、心技体の三要素の調和によって生まれる、超自然的エネルギーのことである。心技体の鍛練をバランス良く重ね続けると、この忍者エネルギーが全身に駆け巡る感触を覚える。最初は暴走する力のうねりに過ぎないが、瞑想によってその制御方法を身に付けることで、人間はフィクションの中の忍者のように、水の上を歩く、煙とともに姿を消す等の妖術を駆使することができるようになるのだ。古代中国ではこれを仙道と呼び、極めれば不老不死をも獲得することができると伝えられる。
目の前の藤原千方は、強大な悪の忍者エネルギーを体内に宿している。その証として、頭に二本の角が生えていた。かつて四鬼を操ったとされる千方自身もまた、その身を鬼へと変じていたのである。陽の忍者エネルギーを極めた者が、聖人や天使の伝説を作ったのと同様に、陰の忍者エネルギーを極めた者が、鬼や悪魔の伝説の原型となった。
「何の用だ?」
「まずは、謝罪を」
千方は菓子折を取り出した。忍者から差し出された菓子なので警戒したが、嗅覚も、さつきが持つ超自然的な感覚も、菓子には何物も仕込まれていないことを保証していた。
「うちの梨花が本当に失礼した。だが、あんなのでも土御門機関にとっては重要な戦力だ。腕は大丈夫かな?」
「問題ない。こちらこそ、もっと冷静に話し合う姿勢があれば、衝突を避けられただろう。本当に申し訳ない」
さつきもまた、深々と頭を下げて謝罪をした。それと同時に、安心していた。
さつきは藤原千方という人物について、伝聞でしか知らない。だが少なくとも、梨花よりは遥かにまともな人物に見えた。
「なるほど。やはり、梨花がおかしいだけか」
「そう言わないでやってほしい。梨花は性格に問題があるが、あれで有用な人材なのだ。それに、昔はあんな奴ではなかったのだが……」
千方は昔を懐かしんでいる。さつきは興味を持ち、千方が知るかつての梨花にまつわる話に聞き入った。
さつきは、梨花が昔はあんな奴ではなかったという事実に、さつきは驚きを隠せなかった。何が彼女をあんな風に変えたのかについては、また別の機会に語るとしよう。
そうした世間話を交えて談笑していたが、不意に、さつきは目付きを変えて千方に質問を投げかけた。
「しかし何故だ、鬼神使いの鬼よ。かつて朝廷に反旗を翻した貴様が、何故、土御門ごときに尻尾を振るのだ?」
さつきの声には、静かな怒りが含まれていた。先の一件よりも、藤原千方が朝廷の下についたという事実に憤慨しているのだ。
「奴らなど、我々の計画を進めるための駒に過ぎぬ。それは、お主にとっても同じであろう?」
恐るべきは、鬼神と化した藤原千方だ。土御門機関を、あくまで駒の一つとして扱っている。そして、その発言からは、彼女の背後に、より強大な存在が居ることを暗示していた。
「いかにも」
さつきは首を縦に振る。目の前の忍者を相手に、隠し事をしてもあまり意味がないため、素直に認めたのだ。
彼女もまた、独自の目的を持って、土御門機関に潜入している。梨花はそれを、国家転覆やら東京都独立計画だのと言いがかりをつけたが、それらはあながち間違いではないのかも知れない。
もちろん、土御門機関の一部の者も、このような不穏分子が紛れ込んでいることを察知しており、その摘発に力を注いでいるし、そもそも彼ら自身も危険な陰謀に手を染めている。
「だが、あの頃の世界は狭かった。今や大和の国は、大勢の列強諸国に悩まされておる。今更わしがとって変わったところで、押し潰されるだけよ」
千方の言うことは間違ってはいない。列強諸国の脅威については、つい先程、さつき自身が葵に話したばかりである。
確かに、日露戦争には勝利を収めたものの、未だ列強諸国と互角以上に渡り合える国力を持ってはいないのだ。資源や技術を、何らかの手段で補わなければならない。
「今の日本には、力が必要だ。しかし日本には資源が足りぬ。日本が諸外国に勝ちうる唯一の資源は、霊的資源に他ならない」
千方の言うように、物質文明という名の盤上で戦えば、当時の日本が欧米諸国に対抗することは難しい。しかし、強力な国ほど神秘学の軍事利用という観点が欠如しているという点に隙が生まれると、千方は主張している。
「来い、相馬さつき! 我らが『陛下』のため、共に歩もうではないか」
千方はさつきに歩み寄った。その右手は握手を求めている。
「断る!」
だが、陛下という言葉を聞いたさつきは、殆ど反射的に、握手を求める手を振り払った。脳からの命令が口へ伝わるよりも早い。まさに脊髄反射である。千方の言う『陛下』と言う言葉に、さつきの皇室アレルギー体質が過剰反応したのだ。明らかに明治の世の天子ではないことを察しつつも、プライドがそれを許さないだろう。
「皇軍に頭を下げるなど願い下げだ。それに、わたしには野望がある」
さつきの計画は不明だが、梨花が言うように、実際に国家転覆を目論んでいても、さほど不思議ではない。
しかし、何より大きな失敗は、やはり禁句を口にしてしまったことだろう。さつきはまつろわぬ神である。朝廷との相性は最悪と言ってよい。
それでもなんとか梨花の失敗を取り返せないかと腐心するが、どうも駄目なようだった。むしろ、千方自身の失敗の方が致命的だったのかも知れない。
「そうか、残念だ――」
千方が指を鳴らすと、庭の植木の陰に、鯉が飼われている池の中に、あるいは屋根の上などに、複数の気配が急に現れた。その数はざっと十人ほど。さつきは腰の刀に手をかけた。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
怪鳥のごとき叫びとともに現れたのは、黒装束の人物だった。
「この忍者語……やはり伊賀者を潜ませていたか。面白い」
奇妙に思うかもしれないが、標準的な伊賀忍者は、このような獣じみた鳴き声だけで意思疏通を図ることができる。単語は一つしかないが、彼らはその発音の長短や強弱を微妙に変えるだけで、意思疏通に用いることが可能な言語として成立させているのである。
骨の髄まで密偵である忍者は、秘密を口頭で扱う際にも、その漏洩の防止に腐心する。自分達がしている会話を、他の誰かが聞いていないとは限らないからだ。彼らにとって、行動とその意図を秘匿することは、至上の命題のひとつであった。その結果、自分達以外にはわからない独自の言語を作り出した。それがこの忍者語である。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
忍者の凶刃が、さつきに迫る。忍者は殺しのプロだ。その技術をもってすれば、乱戦のさなかに敵の肋骨の隙間に刃を滑り込ませて、そのまま心臓を一突きにすることくらいは容易い。
しかし、さつきが得意とするのは、魔術だけではない。彼女は武芸百般に通じ、しかも忍者と違って、人間の限界を遥かに超えている。忍者を相手取ってもなお、振りかざされた刃を視認してから、左手で摘むことさえ可能であった。
さつきは刃への反撃として頭突き、チョーパン、パチキ、ヘッドバットといった武術の技を駆使して、忍者を次々と打ち倒してゆく。
「やはり下忍では時間稼ぎにもならぬか」
「フフフ――来い、藤原千方! 貴様ならば、相手にとって不足はなし!」
「ならば怪力乱神イガニンジャーが、忍術の神髄を見せてやろう!」
千方は手裏剣を取り出して構えた。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
下っ端の忍者と何も変わっていないと、あなたは思うかもしれないが、そうではない。藤原千方は、先程までの忍者とはすべてが違った。
忍者語は、単に会話を秘匿するためだけの言語ではない。内なる忍者エネルギーを爆発させ、己の力を最大限に発揮するパワー・ワード(力の言葉。祝詞や呪文の類)としての機能も併せ持つ。
見よ、千方が放った手裏剣は赤熱して輝いている。刮目すべし、彼女が振るう刀を覆うのは、青白い破邪の光だ。そしてこれらは、標準的な鬼程度にとっては必殺の技であっても、相馬さつきという魔神を仕留めるには不足であり、あくまで牽制に過ぎないことを、千方は理解していた。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
「アイーッ!」
さつきは頭突きなどで応戦した。手裏剣はさつきの額に命中したが、金属音とともに弾かれて地面に落ちた。彼女の石頭は、手裏剣を無効化する。きっと銃弾やもっと重みのある打撃等でも、結果は同じだろう。
小太刀は胸板を間違いなく突き通していたが、こちらも効果は無いようだった。実体を持つ人間や鬼の心臓を貫いたときとは、明らかに違う手応えだった。しかも、血液が付着していない。
「やはり」
異常を察知した千方は、間合いをとった。梨花と対決した際も、さつきは首から下は影が無かった。
「首から下が無いのだな。実体があるように見せかけている」
「その通り。下忍を相手取るのに不自由はしないがな」
さつきと千方は、互いに獣を思わせる笑みを浮かべ、間合いを計りながら睨み合っている。
そうして、二人は互いの隙を伺っていたが、先に動いたのは千方だった。
「今日のところは、引き上げじゃな。あまり遊んでいる時間も無いのでな」
千方は印を結び、呪文を唱えた。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
藤原千方の全身が光り始める。これぞ忍法微塵隠れ!爆発によって周囲の脅威を一掃しつつ、自分はその炎と黒煙に紛れて姿を隠し、まんまと逃げ仰せる忍術である。
それを察知したさつきは、咄嗟に千方の身体を掴んで、上空へと放り投げた。
「ニンジャーッ!(忍者の鳴き声)」
藤原千方は空中で爆発四散して姿を消した。
だが、さつきは知っている。千方は滅びた訳ではないことを。
彼女は、虎の子の四鬼を見せていない。手の内の全てを見せぬうちに仕留められるほど、千方は甘い相手ではない。
さつきは、差し迫った脅威をが去ったことを確認すると、再び葵の部屋に戻った。
◆今日の怪人:No.01 藤原千方
藤原千方は、四柱の鬼神を使役する伊賀の豪族である。親しい者はちーちゃんと呼ぶことが許される。
千方の四柱の鬼神は、忍者の原型になったと言われている。つまり、実際には千方自身も忍者であった可能性が非常に高い。
千方はその妖術をもって朝廷に反乱し、四柱の鬼を操って皇軍を苦しめたとされる人物である。本来ならば、さつきと志を同じくする逆賊のはずだった。そのような人物が、一体何故、軍属の機関で暗躍しているのか?