狐狸精
無事に自宅へと帰ることができた葵は、そこまでエスコートしてくれたさつきに対して、うやうやしく一礼した。
「ありがとうございました」
「礼には及ばぬ。最近はああいう変質者が多いからな、夜道は特に気をつけた方がいい。葵はその、かわ……絡まれやすそうだしな」
「あれは土御門先輩が特別に変なだけでしょう」
葵は苦笑した。
そんな葵は、狸の耳や尻尾が要所から覗いている。その正体が狐狸精であることを物語っていた。
狐狸精というのは、年を経て神通力を得、人を化かすようになった狸や狐を指す。金毛白面九尾の狐が有名であろう。中には、佐渡の団三郎のように、神として奉られているようなものもいる。
もちろん、獣の耳や尻尾を出すなどという、自らの正体が露見するような失態をする狐狸精は、そう多くない。敢えてそれらを見せるのは、自信もしくは信頼の証である。
「梨花のことはともかく、土御門機関からの誘いだが、あれは断って良かったのか?」
さつきは葵に尋ねた。土御門機関からのスカウトを断ったことを後悔していないのかと。それも、利害ではなく感情で断ったのだから、尚更、改めて考え直す必要があろうと考えたのだ。
「……さつき様の計画のお邪魔はしたくありませんから」
勿論、あの場で言ったことも、紛れもない葵の本音であった。今葵が言っていることもそうだ。感情に基づいた主張でしかない。
「わたしも一応は土御門機関に所属しているから、その辺りは構わないぞ。先ほどの一件も、いつも通り癇癪を起こした梨花に灸を据えただけと主張すれば、まあどうとでもなる」
実際に、梨花に対して暴力を振るったことについては、そんな弁解で事なきを得られかねない。梨花はそういう奴として認知されているのだ。そのような問題児である梨花が、何故その地位を保ち続けているかについては、単にその力が強いことと、土御門機関の重鎮の師であるという点による。
「日露戦争は終わったが、今の平和は、葵たちが築いたあの三百年とは違う。戦の準備期間としての平和だ」
葵たちが築いた平和、という言葉には違和感を感じるかもしれない。
だが、徳川家康影武者説というものがある。家康は人生のある時点で、別の人物と入れ替わったというものだ。つまり、葵は狐狸精としての変化の術をもって、家康の影武者を勤めあげたのだ。実際、彼女を匿っている華族は、徳川家所縁の一族であった。
実際の事情はどうあれ、彼女はその変化の術をもって、徳川家康に成り代わるという離れ業をやってのけた。この偉業のため、彼女は全ての狐狸精の憧れの的となっている。
葵自身のそのような経歴からすれば、彼女が土御門機関からの誘いを断った、本当の理由が察せられよう。自分の天下を終わらせた者に協力したくないと言ったところで、誰が責められよう。あるいは、もっと別の思惑もあるかも知れないが。
「わかっています。近いうちに、また再び大きな戦争が起こるでしょう。今度は、この国全体が戦火に包まれるような」
日露戦争が過ぎ去ったとしても、日本は未だ時代の激しいうねりの渦中にある。そして、その中で溺死しないように必死に頑張っている。そして、葵の懸念が正しいことは、賢明な読者諸君であれば、既にご存知のことであろう。
「義を見てせざるは勇無きなり。頭では分かっているのですが……」
だからこそ、葵は悩んでいた。土御門機関の戦力拡充は、諸外国の脅威に晒されている以上、国の存亡にも関わる問題である。それを感情だけで断って良かったのかと、何度も自問した。
「少し考える時間が欲しい、ということだな」
「はい。優柔不断で、申し訳ありません」
葵は、自分が本物には遠く及ばないことを自覚している。本物なら、もっと頭の回転が速く、今回の件でもすぐに結論が出せたはずである。このような問題であれば、感情と完全に切り離して結論を出すだろう。
「いや、葵は頑張ったんだ。誰かに甘えられる時間も無かっただろう。少しくらい、わがままを言ってもいい。わたしが葵の分も頑張るから」
さつきは愛おしそうに葵の髪を撫でた。
葵は今でこそ狐狸精の憧れの的だが、本物の家康が良くないタイミングで亡くなったために、そのときたまたま家康に化けて悪戯をしていた葵が、無理矢理に影武者の仕事をさせられたというのが実情である。
それ以降、葵は本物の家康に近付こうと必死になった。当然ながら、正体が露見すれば、たちまち調伏されてしまうからだ。また、能力の不足があれば、敵に討ち取られる可能性だってある。そのため、完璧な徳川家康を演じ続けなければならなかった。その苦労は計り知れない。
「そう言っていただけると、こちらも嬉しく思います。ですが、さつき様には、大変お世話になりましたから、こちらも御恩を報いなければなりません」
さて面白いことに、実際に家康は、関東一帯に眠る地霊を祭ることで、江戸の町がその加護を得られることを祈願した。月鏡の世界において家康に相当する葵もまた、同じことをしている。
いずれにせよ、200年以上も続く平和な時代という形で報われ、その後も日本の中心地として栄えるに至っている。
「礼は良い。それに、葵には申し訳ないが、わたしにも野望がある。葵はその手伝いをしてくれたのだから、何ら気にしなくてもいい」
もちろん、そこに地霊たちの思惑が無いわけではなかった。江戸の町に人が増えて栄えることで、地霊たちもその影響力を強める。
だが、そういった地霊としての思惑以上に、さつきは葵のことを可愛がっているようにも見える。可能な限り、葵の意思に沿い、なおかつ負担をかけまいとしているのが、見てわかるだろう。そうでなければ、葵の分も頑張るなどという言葉は出てこない。
「さつき様……」
葵は、潤んだ目でさつきを見つめていた。その頬はほんのり紅潮している。さつきの心遣いに感動しているだけではなかった。
葵は、さつきに依存していた。見た目と違って、彼女は子供ではないが、その経歴上、誰かに甘えることに慣れていない。今の立場でも、甘えられる相手はさつきしか居ないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ええと、つまり……」
「そう、葵という最強の狐狸精と、相馬さつきという太古の地霊は、とても親しい関係にある。葵が地霊を祭り、地霊は葵と江戸の町に加護を与え、この地を富ませた。三百年続くその信頼関係を断ち切るのは、まず不可能と言えよう」
「ええ、そこまではわかるのだけど」
「然るがゆえに、葵を引き込むためには、かの地霊も交えて交渉する必要があった」
「……あっ」
やっちまった、と思った。刺激しなければ大丈夫だったのではないかと。しかし梨花は首を振って否定する。
「い、いえ、きっとさつきちゃんは悪いことを考えているわ! 国家転覆とか、東京都独立計画とか考えてるに違いないわ!」
梨花は自分に都合のいいように考えて、現実逃避を始めた。病的なまでに前向きな梨花のこのような言動は、残念ながら、いつも通りである。
ちーちゃんと呼ばれる人物は、最初に会ったときはもっと大人しかったのにと、昔を懐かしんだ。どうしてああなったのだろうと。そう思った途端に、心に熱いものがこみ上げてきたが、涙は流すまいと堪える。
「……まあ、過ぎてしまったことはしょうがない。本当だったら彼女の先輩を通じて交渉した方が良いのだが、まずは彼女の怒りを鎮める方が良かろう」
それはまさしく正論であった。太古の地霊といえば、大半が祟り神であり、怨霊であり、まつろわぬ神である。早く怒りを静めないと、酷いことになるのは目に見えている。
「悪いが、梨花には大人しくしていてもらう。わたしはこれからあの二人に謝罪をしてくる。本当は君も行った方が良いのだが、確実に話がややこしくなるから、今日は留守番をしてもらうぞ」
そう言って、ちーちゃんと呼ばれた人物は、影に溶けるようにして姿を消した。
「可愛くて最強の狐狸精……素敵だわ! わたしのペットにしたい」
ちーちゃんと呼ばれる人物が居なくなると同時に、梨花の口から本音が漏れ出た。
梨花は梨花で、独自に良からぬことを考えている。ちーちゃんの懸念は正しかったと言えよう。
「待ってて、葵ちゃん!」
そのため、ちーちゃんと呼ばれた人物の部下の黒装束の男が、梨花を食い止めていた。言うまでもないが、上の台詞は、羽交い締めにされてじたばたしながら言いはなった台詞である。