陰陽師
ご存知のとおり、十九世紀末から二十世紀前半といえば、魔術の類が科学によって徹底的に駆逐された時代である。煉瓦敷の街並みを照らすガス灯や電灯は、闇に潜む古代の脅威を一掃しつつあった。事実、人々は昔ほど夜を恐れなくなったのも、この時代からである。
しかし、思い出してほしい。西洋魔術が体系化され、黄金の夜明け団や東方聖堂騎士団のような魔術結社の活動が活発化したのは、他でもないこの時代であることを。そして、もう少し後の時代には、ヒトラーやスターリンのような指導者が、密かに神秘学や超能力の軍事転用を模索する、中世以来のオカルト黄金時代が到来することを。
時は明治三十八年。人々は日露戦争の戦勝に一喜一憂した時期である。この勝利は、日本にとっては苦かった。戦いに勝ったからといって、必ずしも喜びだけがもたらされるわけではないのだ。思ったよりも実入りが少なかったのだ。戦死者の遺族にとっては、なおさら喜べることではあるまい。
そのような日露戦争の悲喜こもごもはさておき、文明開化の足音が更なる賑やかさを増すのは、やはりこの時代だ。いよいよ大正浪漫の時代が目前まで迫ってきている。
だが、今のこの場面、ここはそうではない。ここは軍の施設の敷地内、それも地下秘密基地である。そんな窓すらない場所が、銀座や浅草より華やかであるはずがなかった。そのような、窓すらない殺風景な廊下を、何人かの軍人が歩いていたが、その中心にいる人物は、明らかに場違いな雰囲気を醸し出していた。
土御門梨花と呼ばれるこの少女は、生命の輝きが全く感じられない濁った瞳を除けば、非常な美人だった。しかも、陸軍の地下施設にはおよそ相応しからぬ、モガ(モダンガール)であった。
ショートヘアに洋装といった、典型的なモガが流行するのは、大正末期から昭和初期のことなので、今が明治三十八年であることを鑑みると、明らかに時代を先取りしていた。
そして、自信に満ち溢れた梨花の表情は、時代の先駆者を自負していることを如実に表していた。にも関わらず、彼女の瞳は、死んだ魚のそれのように濁っていた。
梨花に付き添う何人かの軍人もまた、彼女ほどではないにせよ、奇妙である。帝国陸軍の制服に身を包んではいるが、武装はサーベルのみで、拳銃や小銃の代わりに、様々な妖術の道具を持っていた。
そう、土御門機関とは、明治3年に解体された陰陽寮を前身とする、オカルトを扱う秘密部隊である。神秘学の軍事転用という発想において、日本が諸外国に遅れをとる理由はなかった。この時点で、土御門機関は、世界で最も危険な部隊である。彼らにかかれば、たとえどんなに離れた場所にいる標的であっても、速やかに抹殺することが可能だ。そして梨花は、そのトップエージェントというわけだ。
そんな土御門機関にも、人事担当の部署はある。梨花達が向かった先が、その事務室だ。彼女は戸を叩き、返事がないことを確認すると、梨花は慎重にその扉を開いた。返事は無かったが、何かが跳ね回る音と、よくわからないわめき声が聞こえるばかりだった。
ドアを開け、人事部の事務室の光景を見た梨花は、その凄惨な有様に嘆息した。
「これはひどい」
梨花の言うとおり、確かにひどかった。それはまさに、死屍累々と呼ぶに相応しい。激しい戦闘の跡があったが、デスクワーク主体の事務官がどれほど応戦できたことであろうか。部屋は強盗に荒らされた後のように散らかっており、死体も散乱していた。
ただ一人の生存者――速水誠司は、ひわいな言葉をわめき散らしながら、陸に打ち上げられたマグロのように跳ね回っていた。
「ずいぶん派手にやられたようね」
「申し訳ありません。もっと早く気付いていれば、このようなことには……」
陰陽師達は、皆一様に苦々しげな表情を浮かべている。当然だ。人事部担当とはいえ、鬼に敗北を喫したのだから。
「気になっていたのですが、彼は一体?」
見苦しく跳ね回る青年を指し、若手の陰陽師が尋ねた。
「わたしが呼んだの。およそ百年後の未来から、西洋魔術の応用でね。彼は英雄の素質を持っている」
「なんと! 西洋魔術は、そのようなことが可能なのですか!?」
「できるわ」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、梨花はその原理を説明し始めた。これは長くなるなと、梨花を知る年輩の陰陽師達は、やれやれと肩をすくめるばかりだった。
「遠い異国のソロモンという古代の王は、七十二柱もの魔神を使役したそうよ。しかもね、その七十二の魔神は地獄の王侯貴族で、それぞれが悪霊の軍勢を率いる大魔神という!」
ソロモン王が使役したという魔神に関する説明は、確かに梨花の説明で合ってはいる。かの七十二柱の魔神は、地獄における爵位や王位継承権を持つ、偉大な魔神が多くを占める。しかし、陰陽師が用いる式神のような、劇的かつ即効性のある恩恵を与える魔神は、実はそう多くはない。何らかの知識や、ささやかな加護を与える程度のものが多く、しかも七十二柱も居るので、能力や容貌の重複が頻繁に見られる。その結果、地味で目立たない、要らない魔神がたくさんいる。
そのような西洋魔術を語る梨花の口調に、際限なく熱がこもってゆく。それでも、彼女の瞳には一切の生気が感じられないので、かえって不気味な有様である。
「これらスーパーパワフルな七十二の魔神を召喚するためには、円を基調とした魔法陣を用いる。わたしはそれに目をつけたのよ」
さらに、妙な横文字を交えての説明が入るまでになると、聞く者の精神に混乱をもたらした。オカルトの専門家である陰陽師にとってすら意味不明である。
「ソロモン王自身に神の加護があったとは聞くけれど、それだけじゃないわ。魔神召喚の魔法陣は、七十二柱がそれぞれ別の図形で表される。そして、図形といえば数式。つまり、ソロモン王の魔術は、数学的な法則性に縛られた科学でもあるのよ。当然、七十二柱のどの魔神とも違う図形を儀式に用いれば、違った霊的存在を呼ぶこともできる。わたしが彼を召喚したのはその応用! 予め占っておいた救国の英雄の素質を持つ若者が未来に存在することを占い、 魔法陣の法則を読み、然るべき儀式を行ったの」
ようやく要点を話すに至ったことで、陰陽師達は安堵した。つまり、西洋の魔神召喚の儀式の応用によって、この青年を呼び出したのだという。
殆どの陰陽師は、既存の魔術にアレンジを施して駆使することができる梨花への畏怖よりも、長話が終わった安堵感に支配されていた。
「どうよ、この西洋から入ってきたばかりの最新鋭の魔術は!」
梨花は自慢げにその胸を張ってふんぞり返る。
「梨花様、西洋魔術の話はそこまでにして、さっさと彼をなんとかしてください。見るに堪えません」
陰陽師にとっても、梨花の熱の入った長話にうんざりしつつあった。また、冒頭でも言われた通り、ひどい状態であり、あまり長時間見ていたいような有り様ではない。
しかし、新米の陰陽師は、彼女に恐怖していた。これだけ多感な年頃の少女らしい表情の変化を見せているにも関わらず、その濁った瞳からは、まるで生気が感じられないのだ。こうした振る舞いが、まるで感情に基づかない紛い物であるかのような印象が、拭い去れないのである。そんな土御門梨花という人物が、不気味に映ったとして、なんら不思議ではあるまい。
それはさておき、その後は、梨花の主導でお祓いが為された。誠司の身体は、数多くの悪霊にとりつかれていた。それらを一人ずつ、丁寧に退散させてゆく。
「しかし、奇妙ですな」
奇妙というのは、何も猥褻な言葉をわめき散らしながらマグロのように跳び跳ねていた、誠司という青年の状態だけを指しているわけではない。彼を取り巻く状況は、陰陽師たちの常識でも計り知れないものがあったのだ。
「晴明判は、我ら土御門にとっては由緒正しき魔除けの紋のはず。これを身に付けていながら、鬼の群れにこうも手酷くやられるとは」
彼らは、生粋の陰陽師だ。しかし梨花は違った。西洋魔術にも明るく、この晴明判に隠された、恐るべき秘密を看破した。
「よく見なさい。上下逆よ」
上下逆の五芒星の首飾り。見た目には、それだけである。しかし、逆ということは大きな問題なのだ。
「西洋では、これをペンタグラムと呼ぶ。しかも、晴明判と同じ、魔除けの紋章として伝わっているわ」
「なんと、それは興味深い。しかし、それが上下逆だと、何か不都合があるのですか?」
「あるわ。それはもう酷いのが」
梨花は忌々しげに、逆ペンタグラムの効能を語り出した。
「上下逆のペンタグラムは、魔除けの逆。つまり黒魔術の印。外道のまじない師が、邪な力を得るために用いる印だと思ってくれれば良いわ。晴明様なら、危険な式神を使役したり、敵を呪い殺すのに使ったかもしれないけど、素人が不用意にこんなものを使ったら、どうなると思う?」
これを聞いていた者たちは、皆一様にその顔を青ざめた。彼自身の霊的素質が、この黒魔術の道具の力を増幅し、しかも彼自身がその制御方法を知らないとしたら、どんな恐ろしいことになるかは、想像に難くなかったのだ。
「恐ろしいことになりますな」
「彼には英雄の素質がある。生き残ったら地獄パワーを手にして、とてつもないアルティメットダークヒーローになるかも知れないわ」
「……」
何言ってるんだこいつ、という目で部下が見ている。
「何か嫌な予感がするわね。すぐにちーちゃんに連絡をとって」
「その必要はない」
梨花の背後から声がした。陰陽師のうちの1人が、急に飛び上がって宙返りすると、それが1人の美女に変化した。まるで狐狸の類が化けていたかのようだった。
現れた女性は長身だったが、服の上からでもわかる身体の曲線のため、優美な体躯を備えた女性であることはわかる。顔の下半分を覆う覆面、上半身は狩衣で下半身は忍者装束という、奇妙な出で立ちだった。
「ちーちゃん!」
ちーちゃんと呼ばれた人物は、梨花にとっても謎だった。その素性は、土御門機関も完全には把握していない。土御門機関の成立に関わっている人物だということ以外は。
ただ、あまりにも気配を隠すのが上手く、上で描写したとおり、あまりにも神出鬼没であることから、彼女が忍の類であることは推測できる。
「彼――速水誠司が抜けた穴を埋めて余りある人材に、心当たりがあるぞ」
ちーちゃんと呼ばれた長身の女性は、一枚の写真を取り出した。
写真の人物は、年齢は十代前半頃の少女に見える。丸顔で、どこか狸っぽい雰囲気があるが、愛くるしい娘と表現して間違いは無い。嫌味のない美人だった。
「葵ちゃんじゃない。わたしの後輩よ」
梨花はこの人物を知っていた。梨花自身の表向きの身分は、土御門子爵家のお嬢様であり、女学生だ。そして写真の人物は、同じ学校に通う後輩というわけだ。何度か直接話したこともある。
「また、こいつが写ってるのね。お祓いした方が良いのかしら?」
梨花は、写真に映っている葵という少女よりも、むしろ、一緒に映っている別の女が気になっていた。
その女は、単に凛々しい顔立ちの美人というだけではない。額と首に包帯を巻いた、背の高い少女。瞳は赤く爛々と輝いており、首から下が若干透けていることが、最大の特徴であろうか。明らかに心霊写真である。
葵が写っている写真には、必ず彼女も写っていることで知られるのだが、この謎の女性を直接見たという話は聞かない。恐らく、彼女は不可視の霊の類で、常人には見えないか、自在に姿を隠すことができるのだろう。しかし、一部の者は、葵の近くに居ると、妙な寒気や悪寒を覚えるという話をすることもある。梨花も、彼女が写っている写真を見ると、言いようもない不安に駆られる。
梨花は自身の記憶の海を探る。土御門機関には、彼女と同じ外見的特徴を持った人物が確かに在籍していた。名前は確か――相馬さつき。梨花の記憶では、そんな名前だった。速水誠司を、土御門機関の人事部の事務所まで連れてきた人物だ。素性までは覚えていない。
「誰がどう撮っても心霊写真になるのは確かに怪しいが、口頭で話すやつがあるか。誰が聞いているかわからんのだぞ」
梨花の言葉は短かったが、言ってから梨花自身も気付いた。この少女が葵という名前であり、しかも梨花の後輩であるという、かなり重要な情報が。
ちーちゃんと呼ばれた忍びに指摘された梨花は、はっと何か思い当たって、沈静化した誠司の腹部に目を向けた。かすかに蠢いてていたのだ。
「吐け! 吐きなさい! キエーッ!」
「オゲェーッ! オゲェーッ!」
梨花の拳が誠司の腹に突き刺さると、その身体がくの字に折れ曲がった。彼の体にめり込んだ拳の角度と深さから言って、胃をはじめとする臓器に深刻なダメージを与えているように見える。その証拠に、鉄錆の臭いがする赤黒い吐しゃ物を吐き出した。
「吐いてしまえば楽になるわ! とっととブツを吐きなさい!」
「オゲェーッ! オゲェーッ!」
その場にいる者全てが、一歩引いて見守っていた。この剣幕の彼女を止める勇気が無いのだろう。元々梨花を恐れていた若手の陰陽師にとってはなおさらである。
やがて、青年の口から、血と吐しゃ物にまみれた、気持ち悪い塊が吐き出された。
梨花を除く若い陰陽師は、あまりのおぞましい光景に、顔をしかめた。吐しゃ物とともに吐き出されたため、悪臭も酷い。濃厚な血の臭いもする。梨花は吐き出された塊に、点火されたマッチを投げて燃やした。
「やっぱり! 腹中虫まで仕込んでいたのね!」
腹中虫とは、読んで字の如く、腹の中に存在する寄生虫である。ここでの腹中虫は、呪術的な使い魔であり、何らかの方法で対象の体内に寄生させ、宿主を通じて術者に情報を与えたり、思うように操るといった、外道の所業に用いられる。なお、そうした腹中虫を降すには、猪の毛が有効とされるのだが、都合良くそんなものは持ち合わせていなかったので、ボディブローで吐き出させたのだ。
いつ、誰が、どのように、速水誠司に腹中虫を仕込んだのか?賢明な読者諸君であれば、思い当たる節があるはずである。
「おのれ外道の術師め、許さん!」
梨花は、この外道の所業を行った術師への報復を誓ったのだった。
なお、誠司は梨花の殺人ボディブローによって死亡したので、後日、土御門機関の手で埋葬された。
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「その発想はなかった」
腹中虫の気配が消えたことを察知したさつきは、驚きを隠せなかった。まさか死ぬほど腹を殴打して腹中虫を降すとは、夢にも思わなかったのだ。
「もっと手段があったのに……なんてことをするんだ!」
さつきは自分の行いを棚に上げ、計画が失敗したことと、無為に命が失われたことに憤慨した。
「土御門梨花、やはり一筋縄ではいかない強敵か」
さつきもまた、土御門梨花という強敵との対決に備える決意を新たにしたのであった。