プロローグ
「ここはどこだ?」
青年、速水誠司が目覚めると、そこは見知らぬ土地だった。
町並みがやけに古臭い。煉瓦敷の道、現役のガス灯、木製の電柱等。これらは、誠司の記憶の中にある、写真の中の戦前の日本の風景によく似ている。似ているのだが、誠司が見たのは、華やかなりし銀座や浅草の写真であって、それらと比べると、いささか殺風景であった。
間違いなく、繁華街や下町ではないことはわかる。張りつめた雰囲気は、以前誠司が見学に行った、自衛隊の駐屯地のそれに似ていた。
この速水誠司という人物は、一言で言うなら、平々凡々とした人物だ。まだ大学生であり、来年就職活動をする意思がちゃんとあるので、逆説的にニートという特徴すら持たない。運動も勉強も人並みで、変わったところといえば、他人よりも霊感が少し鋭く、心霊スポット探検に行くことが趣味という程度だ。
この謎の場所に来る前の記憶といえば、夏休みを利用しての、前述する趣味の心霊スポット巡りを行なっていたのが、最後であった。確か、愛知県の某トンネルへと向かったはずである。
トンネルの前に辿りついたときは、見知らぬ土地に初めて来たときの心細さは感じていたが、そもそも現代の日本であるかさえ怪しい場所にまで迷い込むとは、思ってもいなかっただろう。
呆然として、まず何をすべきかを思案していたところ、ふと、誠司は賑やかな太鼓や笛の音を聞いた。驚いて振り返った彼が目にしたものは、百鬼夜行だった。そうとしか言いようがないものであった。それも、茶器や唐笠等に手足の生えた付喪神たちによる、ユーモラスとも言えるような行進などではない。それはまさしく悪鬼羅刹どもであり、見る者すべてに心臓が凍りつくような恐怖をもたらすものだ。
状況が呑み込めないままであったが、早速、誠司に死の危険が迫っていた。彼は霊感が強い。冷気と悪寒を覚えた場所が、後で自殺の名所や心霊スポットだったと知った例がたくさんある。だが、今度はちょっとした心霊スポットの比ではない、全身を虫が這いずり回るかのような、おぞましい気配に襲われるほどだった。
誠司が恐怖を感じたのは、見た目の恐ろしさだけではない。あの軍勢が放つ殺気、各々の手に握られた血濡れの刃物、腰に下げられた刀、獲物を探すかのような目線の動きは、見つかったら終わりと思わせるのに十分だった。悪いことに、それらはただちに誠司を見つけて、獲物として認識している。
誠司は震え、ガチガチと歯を鳴らしていた。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと、彼は恐怖のあまり身動きがとれなくなっていた。それまでの日常生活ではついぞ経験したことのない、間近に迫る死の恐怖があったのだ。
「ほう、ほう」
鬼のうちの1人が、誠司に手を伸ばした。品定めをしているかのような目だ。
「大方、土御門の婆の術にでもかかったか。不憫じゃが、生かしてはおけぬ」
「わしは腕が欲しい」
「では、それがしは足を」
「しかる後、我らの小間使いとしよう」
鬼たちは武器を振り上げ、もはやこれまでと思われたそのとき、旧帝国陸軍の制服に身を包んだ人物が、怪物の前に立ちはだかった。
いつ現れたのか?横から割って入ったというよりも、いきなりそこに現れたと言った方が正しい。
「去れ」
短節な命令だった。そしてそれは、鈴の音の如く澄んだ声だった。
「去れ!」
もう一度強く命じると、悪鬼どもは何かに気付いたようで、立ちはだかった者にうやうやしく一礼した後、まるで蜃気楼であったかのように消え去った。
何が起こったかを頭で処理しきれない誠司であったが、さしあたって、ただちに命を脅かすような脅威が去ったとは判断できた。
「もう大丈夫だ」
そう言って誠司の方に振り向いた人物は、目を奪われるほどの、印象的な美貌の少女だった。身長は五尺三寸(約160センチ)と、戦前の日本人女性だとすれば、かなり高い。その美しさは、花や蝶のそれよりも、手入れの行き届いた名刀が持つ美に近い。しかし、そんな美貌以上に目につくのは、まず、彼女が帝国陸軍の軍服を着ていることだった。しかも、その襟元には、少尉の階級章が輝いている。女性の社会進出の機会が限られている時代であるから、原則として、戦前には女性の軍人は存在しない。ましてや、女性の将校などは存在しないはずなのだ。少女の愛らしさとは不似合いとも言うべき、厳つい軍服にばかり気をとられていると、もっと強烈な特徴を見落としそうになる。彼女の頭と首には包帯が巻かれている。特に、首に巻かれている方は、赤黒く汚れているのだ。包帯を赤く染めているものの正体を明示するかのように、鉄錆のような臭いがする。それと香水の香りも混ざって、いよいよ形容しがたい匂いを漂わせていた。こうした外見の怪しさ以前に、目の前の人物も危険であることには変わりないと、誠司自身の鋭敏な霊感が警告していた。
「さっきのは何だ? それと貴女は? 俺は何故、こんな所に?」
警戒心をあらわに、一定の距離を保って質問をした。呼吸も荒い。とにかく情報が欲しいという欲求の発露が見て取れる。
「あー、何から説明して良いのか……」
彼女はまくし立てられるように説明を求められ、少し迷った。目の前の彼にとって、最も重要な情報が何であるのか?それを吟味してから発言する必要があった。
「まず、わたしは相馬さつき、階級は少尉だ。多分、明日から君を徹底的に鍛えることになる。今後ともよろしく」
誠司はぽかんとした表情で、目の前の女軍人を見つめた。見たところ、自分よりも年下のように見えた。
「女の軍人は存在しない。そう思っているな。嘘だと思うのなら、後で土御門機関の人事担当の部署に確認をとってみるがいい。どの道、そこまでは案内をするつもりだ」
彼女の言うとおり、原則として、この時代には女性の軍人は存在しないことになっている。もちろん、公には存在しないことになっているような、秘密の任務を帯びた諜報員などは別かもしれないが。
だが、目の前の女将校が、その秘密部隊の一員だとしても、何ら驚くに値しない。何せ、公には居ないことになっている魔物の軍勢を相手にしていたのだから。
「三番目の質問だが、君は呼ばれたのだ。西洋魔術の儀式でな。恐らく、戦力として期待されているのだろう」
いよいよ現実味の無い話になってきたが、元々、誠司は幽霊の存在くらいまでなら信じていたし、ましてや先ほどの百鬼夜行を目の当たりにした今、魔術的な力の実在を疑うことはありえなかった。
だがそれでも、戦力として呼び出されたというのが釈然としない。誠司は自分が平凡な人間だと思っている。もっと言うなら、平均よりも体力は無いほうなので、軍事機関で戦力にはなれないだろうと判断している。
「あと、最初の質問だが、先程の化け物の群れは、百鬼夜行というやつだ。今の帝都には珍しくない」
存在しないはずの女性軍人の存在と、先程の魔物の群れ。これらは、誠司が知る戦前の大日本帝国とは、全く異なるものだった。しかも、ああいう百鬼夜行は珍しくないらしい。
「君にも、いずれああいうものと戦ってもらうことになるだろう。そのために鍛えるのが、わたしの仕事になる。何、わざわざ呼ばれる時点で、ちゃんと鍛えればそうそう死なないだけの才覚はあるはずだ」
本当かよ。誠司は一瞬そう思ったが、目の前の人物の只事ならぬ気配を感じ、すぐに考えを改めた。相馬さつきという少女が、本当に少尉の階級章を身に着けるに値するような人物で、しかもオカルトを専門に扱うのなら、先ほどの妖怪などよりも、よほど恐ろしい人物に違いないのだ。下手に刺激しないほうがいい。
彼女の言葉を信用したとしても不安が残る。彼女が一番マシという可能性だ。首から血を流す美女以上の際物が現れないとも限らないのだ。
「ちなみに拒否権は?」
「わたしは構わんが、今の君は戸籍が無いし、恐らく知り合いも居ないだろう。となると、職探しが困難だな。生きていく手段が無い。もっと言うなら、わたしが話したとはいえ、秘密を知ってしまったのだから――」
そこから先は、さつきも口をつぐんだ。目の前の人物は、必要とあらば、ただちに自分を即座に殺すだろう。誠司はそう判断していたのだ。
「なんてこったい――腹をくくるしかないのか」
藁にもすがる思いとはこのことだ。とにかく明日の飯と、今日寝るところが課題となる。誠司はそう思ったが、頭の中を整理してみると、このまま妖怪退治の仕事をするほかないと、納得せざるを得なかった。さつきの言うとおり、今の自分には、戸籍もコネもない。ましてや、元の時代に戻ることができる保障さえないのだ。ここで働かないのなら、秘密保全のために消してやると、脅迫さえ受けている。だから、従わざるを得ないというのが現状だった。
「話が早くて助かる。そうだ、これを持っておけ」
そう言ってさつきが手渡したのは、上下が逆の五芒星をあしらった首飾りだった。上下が逆でなければ、実際に晴明神社辺りで売っているようなものに見える。
「それは晴明判という魔除けだ。困ったことがあったら、使うといい」
「使ったらどうなるんだ」
「フフフ……心配することはない」
含みのある笑み。肝心なことは何も教えてくれないということに、不満と恐れを覚えつつも、それ以上の追求はできなかった。
「近いうちにまた会うことになるだろう。そのときには、全てを教えてやる――おっと、その前に名前を聞いておこうか」
「……速水誠司」
「そうか、速水誠司」
相馬さつきと名乗った女軍人は、値踏みするように誠司を見ている。その瞳は、血のような赤色だった。柔和な笑顔であってもなお、何かを激しく憎悪しているように感じられる、異常な瞳だった。
このとき、誠司の心には、彼女に対する恐怖が再び沸き起こっていた。先ほどの魑魅魍魎どもが、彼女に対してうやうやしく一礼したという事実を思い起こすことで、その恐怖は何倍にもなる。この女もあれと同類なのではないかと。
「そう怯えなくても良い」
無茶を言うなと思った。見た目は可愛らしい少女であっても、首から血が滴っているという異常な特徴を持ち、近寄ると異常な悪寒がするような奴なのだから。
しかし、さつきはそんな誠司の心の動きを全く気にも留めず、互いの息遣いが分かるほどに距離を詰める。
「では、次に会うときに、わたしのことを忘れていることのないよう」
恐怖で硬直していたところを、不意を撃つかのように、唇に唇を重ねられた。
心臓の鼓動が高まるのを感じる。出会って間もない女の子、それもかなりの美人と口づけを交わすなど、それまで考えもしなかったに違いない。
誠司は、そのとき、時が止まったかのように感じた。
どれほどの間、そうしていたのかは、誠司には判断がつかなかったが、やがてさつきの方から唇を離した。
「ふむ……こうしてやれば、殿方は相手のことを簡単には忘れないと、先輩が言っていたのだが」
誠司にしてみれば、恐怖とは別の意味で心拍数を上げるような行為であったが、その行動をとった本人は、きょとんとした顔をしていた。この表情を見ることで、彼女の血の臭いと赤い瞳に感じた恐怖も、今や大分薄れてきていた。
「では、わたしは別の仕事があるので、これにて失礼する。今後ともよろしく……」
さつきは敬礼をした後、背を向けてその場を去った。誠司もまた、反射的にそうするべきであると判断し、その背に敬礼を行なった。敬礼の作法はよく知らなかったが。
誠司はこのとき、軍服姿の謎の少女の後ろ姿に、どこか運命的なものを感じていた。