吸血鬼
その日は満月の夜だった。吸血鬼や狼男のような、犠牲者を自らの仲間にする、闇の魔物にふさわしい夜であった。
日出ずる国の帝都たる東京は、ガス灯や電灯といった文明の利器の登場により、江戸の街並みに潜んでいた闇は照らされ、駆逐されんとしていた筈であった。
しかし、闇の住人は決して滅びることはない。きらびやかなネオンサインが、不夜城と呼ばれるに至る地域があちこちに見られる今なお、彼らは姿を変えて居座っていると言っても過言ではない。
浅草の華やかな表通りを、一人の男が走っていた。人通りの少ない深夜のことだ。
彼の名前は田吾作である。衣服だけは帝都の住人らしくハイカラであったが、見るからに田舎者であり、あからさまに田吾作である。そう、あなたが田吾作という名前から思い浮かべたイメージの男性、それがこの田吾作という男である。
田吾作は、いわゆる「お上りさん」であった。地主の残忍な悪意に触れ、閉鎖的な村社会の暗黒面に屈した彼は、新たな希望を帝都に見いだしたのだ。
そのような彼は、今現在、何者かに追われて遁走している。大方、都会のやくざ者とのトラブルを起こし、それから逃げ回っていると言ったところか。
「――!」
「――!」
田吾作は怒声らしき叫び声――われわれの知る日本語ではない――を、その背に受け止めていた。
そう、田吾作は危機に晒されていた。右も左もわからぬお上りさんである田吾作は、人通りの少ない、路地裏の袋小路へと追い詰められてしまっていたのだ。
彼の心中は、今や恐怖と混乱が占有していた。何故、自分がこのような仕打ちを受けねばならないのか? 自分には全く心当たりがない。
確かに、彼は田舎から逃げるようにして都会へとやってきた。だが、その一点だけを除くのであれば、品行方正に生きてきたつもりだ。仕事だって見つかった。新しい職場の仲間とも、上手くやっていけそうな手応えを確かに感じていた。
田吾作は己の不幸を呪った。あらためて思う。何故自分がこんな目に、と。
「――!」
「――!」
奇怪な雄叫び――祝詞や呪文のようにも聞こえる――をあげた、二人の男女が、猛獣じみた眼光を田吾作に向ける。
田吾作を追うのは、二人の欧米人であった。片方は神父、もう片方はシスターだ。前門の虎、後門の狼とは、まさにこのことだ。どちらも、ぎらついた目で田吾作を睨みつけている。口元には残忍な笑みをたたえていた。
なぜ自分がこんな目に? 浮き世はなんと理不尽に満ち溢れているのだろうか? 田吾作は八百万の神々に呪詛を送った。
「――!」
「――!」
二人の欧米人が吠えた。何か意味のある言葉を叫んだようにも聞こえたが、田吾作はその意味を理解することができない。
奇怪な咆哮と獣の眼光に気圧された隙に、雄叫びと共にシスターが田吾作を取り押さえ、神父が腕に噛みついた!
「ギャーッ! 誰か、誰か助けてくんろ!」
助けを求める声がむなしく響き渡る。必死の抵抗も、何ら功を奏することはなく、ただただ空しいばかりだった。
毒牙にかかった田吾作は、薄れゆく意識の中、何か別のものに侵食されていく感触を覚えた。自分が自分でなくなってゆく。しかし、その恐怖でさえも、徐々に失われるのだ。
「――!」
「――!」
「――!」
薄れゆく意識の中、田吾作は「奴等」と同じ言葉を、自らも叫んでいたことを認識した。
「――!」
「――!」
「――!」
こうして、あまりの忌まわしさに歴史の闇に葬られた、未曾有の惨劇が幕を明けることになる。
しかし、その発端となった、この残酷な一場面は誰も見ていなかった――そう、夜空に浮かぶ月と星々、そしてこの話を読んでいる貴方以外には!