煩悩即菩提
さつきは侵入者の気配を感じ取った。
「桔梗だな! 死ね!」
そして、侵入者の気配がした方向をめがけて手裏剣を投げた。
「随分な歓迎ですね、さつき」
その直後、額に手裏剣が突き刺さった尼僧が姿を表した。
尼削ぎ(肩辺りで切り揃えた髪型)があまり似合っていないことを除けば、非常な美人である。花や蝶よりは、手入れの行き届いた名刀を思わせる美貌――やや柔和な面持ちではあるが、さつきによく似た風貌に、その場にいた軍人たちは驚きを隠せなかった。同時に、今後はさつきとは距離を置こうと、固く誓うのであった。
なお、警察官は無許可で発砲すると始末書を書かされると言われているが、それと同様に、軍人も無断の発砲は戒められる。戦場は別として、相手に向けて銃を撃つ際には、原則として、口頭による警告などの手順を経る必要がある。手裏剣にしても同じことであり、今回のように、何か気配がしたからといって、普通は警告なしに投げてはならない。もしその方向に民間人が居て、その者に手裏剣を投げて怪我をさせた場合、減給、降任、懲戒免職等の処分が下るだろう。さつきはまたやらかしたのだ。
「やはり桔梗か! 何故こんなことをしたのだ!」
後ろでピースサインをしながら顔芸に勤しんでいる全裸の大川軍曹を指差して、さつきは尋ねる。彼が今の哀れな姿になった原因が目の前にいる。旧知の仲とはいえ、説明がなければ、何故他人にあんなことを強いるのか、問い詰めたくなっても無理はないだろう。
「御仏の教えを説いたまでです」
「何を言っているのかわからぬ……」
さつきは素直にそう思った。さつき以外の全員もそうだった。葵さえ理解できないのだから、他の者に理解できるはずもなかった。より正確に言うならば、御仏の教えを説かれた人間がああなるという説明に、理解が追いつかない者と、納得のできない者とがいた。
「先程の手裏剣を見てわかりました。さつきは相変わらず修羅道から抜け出せていないようですね。この機会に、わたしが救ってあげましょう」
「うわぁ……」
さつきは思わず後ずさった。
桔梗の背から後光が射している。その神々しいオーラは、暗い側面の強い祟り神であるそして、桔梗の瞳は虚空を見据えていて、顔は紅潮していた。口元は大きく緩んでおり、涎を垂らしている。理由は不明だが、よほど誇らしいのか、両手でピースサインをしている。
「あ、あの……相馬少尉、あの人はお知り合いの方ですか?」
「ひょっとして、お姉様かお母様ですか?」
その場にいた葵を除く全員が、哀れみの籠った視線をさつきに向けた。そして同時に、バックステップでさつきから距離をとった。
「や、やめろ。そんな目で見るなよぅ……あんな人を身内に持った覚えなんてないもん」
さつきは他人のふりをしようとしたが、それは無駄な試みだった。何故なら、黙ってさえいれば雰囲気は似ており、顔立ちもほとんど似通っているので、赤の他人とするには無理があったためである。
「あ、葵ぃ……っ」
さつきは目尻に涙を溜めて、葵に助けを求めた。今にも声をあげて号泣しそうなほど、追い詰められているようだった。全ての部下や同僚から距離を置かれることに耐えられないのだろう。葵は慈愛に満ちた微笑みでもって応じた。
「それで、この三百年の間に、何があったのですか?」
葵は右手を虚空に伸ばしながら、変わり果てた姿の桔梗に問いかけた。手を伸ばす動作が合図になったのか、察しの良い千方が走った。何かを持ってこいという意図を理解しているようだった。
それはともかく、今の桔梗は、とても、江戸に魔界都市を築いた頭脳の持ち主とは思えない。知性が全く感じられないのだ。
「アヘェ……葵様、わたしは修行の末、ニルヴァーナ(悟り)の境地に至ったのです!」
そのように語る桔梗の瞳は、虚空を見据えていて、顔は紅潮していた。口元は大きく緩んでおり、涎を垂らしている。悟りを開けたことがよほど誇らしいのか、両手でピースサインをしている。
それを見た葵は、部下の一人の肩を叩いた後、桔梗の方を指し、親指で首の前で切る仕草をした。殺せ、という意味である。
「まるで意味がわからんぞ!」
さつきはあまり頭が良くないとは述べたが、今回のような出来事については、彼女を責めることはできない。誰だって、桔梗の言うことは理解できないだろう。
「この喜びを皆と分かち合い、衆庶の一切を苦しみから解放する……そうすることで、真の救世が成るのです!」
つまり、桔梗の救世の結果が、あのかわいそうな人達という訳だった。世界中をあんなにすることで、救世は完遂されるというのが、彼女の主張である。
そのように語る桔梗の瞳は、虚空を見据えていて、顔は紅潮していた。口元は大きく緩んでおり、涎を垂らしている。悟りを開けたことがよほど誇らしいのか、両手でピースサインをしている。確かに嬉しそうだ。いろいろと大事なものを失ってしまったが、一切の苦しみから解放されてはいる。
「ふざけるな!」
さつきは怒りに任せて吼えた。
全人類があんな有り様であれば、なるほど、少なくとも戦禍は起こるまい。あんな状態の人間同士が争った記録は、古今東西、どこの国の歴史書にも記されていない。これから先も、恐らく起こることはないだろう。
それに、最大限に好意的な解釈をすれば、あれは一切の苦しみから解放されたことを表す、歓喜の表情ととれなくもない。
「こんなものは悟りではない! ただ単に畜生道に堕ちただけではないか!」
しかし、全くもって、さつきの言うとおりである。筆者も、どちらかと言えばさつきの立場だ。
もちろん、われわれは知っている。免職を免れたときのさつきの表情が、今の桔梗によく似ていたことを。葵も梨花も、それは知っている。
「ぬうう……だが、流石は桔梗だ。これでは近寄れん」
さつきは警戒して、桔梗とは一定の間合いを保った。普通の人は、前述の状態の人間に近付きたいとは思わないので、まあ道理であろう。それに、近寄ったら自分もああなると思えば、なおのこと近寄りたくないだろう。
「葵! 今すぐここから離れろ! 今の桔梗は危険だ!」
「わかります」
さつきの言う通り、桔梗は危ない。わざわざ言われずとも、誰だって、桔梗に近寄りたいとは思わないだろう。
「さあ、さつき! 貴女も六道輪廻から抜け出して、一緒に苦しみから解放されましょう!」
「や、やだぁ……」
さつきは涙目になりながら後ずさった。恐怖の感情がありありと見え、素が出ている。
怯んだ隙に、桔梗は目から変なビームを放った。さつきは恐怖にかられて、咄嗟に近くにいた陰陽師を盾にしてそれを防いだ。
「アヘェ……」
すると、盾にされた男は、あのかわいそうな状態になった。
「一時撤退だ! 各人散開して被害を最小限に留めよ!」
散開を命じたところ、その場にいたさつき以外の全員が予想していた通り、真っ先にさつきが標的になった。桔梗はさつきを追って何処かへ行ってしまったので、しばらくすると、散開した兵士たちは戻ってきた。
「待ちなさい、さつき!」
「こっちへ来るな!身内だと思われたらどうする!」
「今更他人という訳ではないでしょう! 冷たいことを言わないで、まずはわたしの話を聞きなさい!」
二人の言い争いの内容を注意深く聞いた周囲は、やはりさつきと桔梗が他人ではないことを再確認した。
「……」
葵は二人を見送った後、新聞を見た。そして、目的の記事を確認した直後、その右手を伸ばしていた場所に、電話機が現れる。正確には、使用準備の整った電話機を持った忍者が立っていた――藤原千方である。
「ありがとうございます、千方さん」
「いいえ、お気になさらず」
葵はそっと受話器を取り、交換手を呼び出した。
それぞれの思惑が交差する。