解放された人々
土御門機関の地下秘密基地は、今日も奇妙な冷気に包まれていた。さもありなん、日本中の優れた霊能者が集まって、恐るべき呪殺法の研究や、霊的パワーの開発に勤しむ場所なのだ。背筋も凍ろうというものである。
忘れられがちな事実であるが、相馬さつきは帝国陸軍の少尉である。彼女は強力な狐狸精である葵を巡る事件のために、昇任の機会を逃したが、それでも立派な将校である。
そんなさつきは、本来は少尉として、呪殺を生業とする小隊を率いている。この時代に起きた怪事件、特に有名人の変死を伴う類のものは、彼女とその指揮下の陰陽師が関わっていると見て良いだろう。
当然、指揮官であるさつきには、自分の指揮下にある部隊で何か異常があった場合は、直ちに原因を究明し、適切な対策をとる義務がある。
さつきは呪殺小隊に与えられた事務室で部下を集め、作戦会議を開いていた。彼女は今、土御門機関で最近起きている、奇妙な事件について調べているのだ。
「今月だけで三件目か」
三件。そう、今月だけで三件も、同じような事件があったのだ。部下からそのように報告を受けたさつきは、頭を抱えた。
「はい。巡回警備中の軍曹二名が、こんな姿で発見されました」
報告者――少年の姿をした軍人――中神曹長は、一枚の写真を見せる。
写真には、二人の若い男性が写っていた。二人とも白目をむき、顔を赤らめ、口をだらしなく開いた軍曹の姿が映し出されていた。写真の彼は、もちろん全裸だ。知性は感じられないが、妙に誇らしげで、両手でピースサインをしている。
このような人間が、今月だけで何人も発見されているのだ。頭痛の種にもなろうというものである。
「これはひどい」
さつきは思わず嘆息した。
全くである。これはひどい。平易すぎる表現ではあるが、完全に的を射ている。それ以上の言葉が思い付かなかったところで、誰が彼女を責められようか。
「中神曹長、後生だから撮らないでやってくれ。その、あの、ふ、二人にも名誉と言うものがあるからな」
さつきは頬を紅潮させ、顔を背けながら、横目でその写真を見ていた。男性の身体に対する恐怖と興味が、彼女の胸中で戦っているのが、誰の目から見ても明らかだった。
「すみません。表現しがたい有り様でしたので……ンフフ」
中神曹長は、さつきの方を極力見ないようにしながら、笑いをこらえていた。
そう、彼は嘲笑っているのだ! 処女をこじらせたために行き遅れた女が、今ここにいることを!
そう考えていたのが見透かされたため、中神曹長はさつきの頭突きによって打ちのめされた。
「最近、あんな状態で発見される男性兵士が多いようだが、その……殿方は、気持ち良いとああなるのか?」
「なりません」
「わかった、今後の参考にする。それで、何が原因でこのようなことに? 誰か知っているか?」
さつきは、同室にいる何名かの陰陽師に尋ねた。しかし、誰も答えない。何がどうやったらこんなことになるのか、誰も知らないようだった。
あるいは、この前の休日の息抜きで行った、いかがわしい夜のお店で、自分や相手の女がこんなになっていたときの姿を想起したのであろう。その証拠に、黙っている者たちの細かい仕草は三者三様だった。
そうして、部屋が気まずい雰囲気のまま静まり返って、三分ほど経った頃のことである。
「さつきちゃん! さつきちゃん!」
戸を激しく叩く音と共に、必死な叫びが聞こえる。
「うるさいぞ、梨花。お前は実働部隊じゃなくて訓練教官だろう。早く持ち場に戻れ」
そうは言いつつも、明らかに異常事態であったため、さつきは梨花を部屋に入れる。
梨花はお転婆が過ぎたため、現在は訓練教官の地位にまで降格している。しかも、正式な階級は剥奪されており、指揮権は持たない。とても土御門本家やその他の重鎮のコネがある人間とは思えない有り様であるが、陰陽師を育てることに関しては、実力と実績がある人物(人格的にも優秀な反面教師であるため、補佐する人物も必要であるが)なので、適材適所とも言える。
「変な……変な人が居たの!」
「土御門先生が言うのですから、相当変な人か、とてもまともな方なのでしょう」
一人の陰陽師は、未知の侵入者がそのような輩であると結論付けた。
「忍者だな。間違いない」
一人の藤原千方は、未知の侵入者がそのような輩であると結論付けた。
千方は忍者であるため、しばしば格闘訓練担当の臨時教官として、土御門機関で臨時勤務を行うことがある。今が丁度、その時期だった。
「それで、どんな忍者だったのだ?」
「恐らく忍者ではないけれど、あそこに」
梨花は壁を指差す。
壁にへばりついていたのは、一人の童子だった。何故こんな所に子供が? そう疑問に思うのはもっともなことだが、その子供が角、牙を持ち合わせていたのであれば、まこと土御門機関の秘密基地には相応しいと、誰もが納得することであろう。襲撃者の登場だ!
「あれが、梨花の言う変な奴か?」
「いいえ、違うわ。もっと変な奴よ」
つまり、油虫のように壁に張り付いている有角の童子よりも、異常な外見の手合いらしい。中身も、梨花より危ない奴に違いない。さつきはそう決めてかかったので、顔が強張っている。さつきの配下の陰陽師に至っては、恐怖のあまり、表情どころか、全身が凍りついたかのように硬直している。恐慌状態に陥り、絶叫して衣服をかきむしる者までいた。
「ですが、捕えないといけませんね。見たところ、式神の類ですし」
そんな中、中神曹長だけは、恐慌状態に陥っていない。
彼は少年のような見た目に反して、かなり年輩の軍人である。明治二十一年に梨花が英国へ渡ったときには、既に梨花の下で働いていた。そのため、さつきや梨花がもたらす恐怖にも慣れている。ただし、経験が豊富であるにも関わらず、さつきを怒らせて頭突きによる制裁を加えられることから、頭脳は貧弱であることも伺える。
土御門機関は異能者を募った特務機関であるから、このような者が沢山所属している。
「よし行け、がしゃどくろよ。あの童子を捕まえてこい」
さつきが何か呪文を呟くと、目の前の空間に穴が開き、そこから巨大な骸骨の腕が現れた。
「きゃー」
がしゃどくろに捕まった童子は、少女のような悲鳴をあげた。
呆気なく終わったかのように見えるかもしれないが、これは、さつきのがしゃどくろだからこそできたことである。他の陰陽師の式神では、こうはいかない。事実、がしゃどくろの腕に捕らえられた今なお、火花を炸裂させ、瘴気を撒き散らして抵抗している。下手を打てば、ただちに餌食にされてしまうだろう。
「梨花、そいつについての話を聞かせて欲しい」
さつきは頭突きで童子を鎮圧した後、梨花に詳しい状況を問いただした。
「変な奴だったわ」
「わかる。変な奴には慣れている。もう一度聞こう。どんな奴だった?」
「尼さんだったわ。徳の高い人なのかしら? 何か光っていたわ」
徳が高いからといって、無闇に光ったりはしないだろう。後光が指すほどに神々しい姿なのだろうか。
「光る尼だって! 確かに変な奴だ」
若い陰陽師は、そう正直な感想を述べた。光る尼が土御門の軍人を襲い、あんな状態にしている。なるほど、梨花が変な奴呼ばわりするのも頷ける。
「しかし、梨花様のババアマジックが通じないとは……どのような尼なのでしょう?」
中神曹長が、驚きの声を漏らす。すると、梨花のババアパンチが、彼の鳩尾に突き刺さった。あの速水誠司を葬り去った、恐るべき拳である。
梨花は千年ほど前に尸解仙の秘術を用いて、不老不死となった。見た目は少女でもババアである。実はさつきの方が年上なのだが、この二人の対比は、ババアとは実年齢ではなく概念であることを示す好例と言えよう。
「あのかわいそうな人達の経歴を知りたい。そこに原因があるかも知れん」
「みんなダークネスブディストよ」
「そうか。葵、翻訳を頼む」
「――はい」
鈴の音のような声と共に現れたのは、狸のような雰囲気を持つ、小柄で愛らしい少女だった。葵である。
葵は表向きはさつきの式神ということになっているが、その落ち着いた物腰に加え、さつきも梨花も頭が上がらない人物なので、彼女が式神ではないことは、誰の目から見ても明らかだった。彼女が暴走しがちなさつきと梨花の制御のために派遣されたことは、もはや暗黙の了解である。
「仏教徒ですね。人を呪い殺したりする訓練をしているわけですから、密教の呪殺法を修める僧侶だったのでしょう」
土御門機関における霊的訓練は、各人の信教や素質によって異なる。大半が陰陽道だが、中には密教の呪術や、欧州旅行を経て体得した西洋魔術を操る者もいる。
今回の被害者は、全て密教の呪術の使い手だったということだった。
「わかった。仏教徒か……となると、先程の鬼は護法童子だな」
護法童子というのは、本来は仏法の守護神であるが、転じて密教の僧侶が用いる使い魔でもあり、陰陽道における式神と同じ働きをするという。
「葵、何だかすごく嫌な胸騒ぎがする」
「……わたしもです」
陰陽師たちが、未知の敵の強力な実力に対する不安を抱える中、さつきと葵だけは、別の理由からなる不安を抱えていた。
そう、二人の不安はただちに的中することになる。