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星の挽歌  作者: 石井鶫子
歴史の呼ぶ声・5
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欺瞞(2)

「や、お待たせ。長丁場になるかもって思ったから途中で食べるもの買って来たよ」

 アネキス氏はそんなことを言って私に総菜屋の包みをぽんと渡す。ほんのりと紙皿の底が温かい。何故かそれにほどけるような安堵を感じ、私はどうぞ、と彼を招き入れた。


 薄い羽織の上着が微かに湿っている。

 それを無造作にソファに放り出し、総菜を並べた食卓でアネキス氏は私から借りた漢氏文字の専用端末を開けた。


 写影と茶を横へ置いてやると、ありがとうと呟いて時折めくり読み比べながらページをすすめていく。時々フォークが総菜を刺す。

 少し酒精も漂うが、飲むときはあまり食べないから、とそんなことを言った。


 確かに漢語は専門外なのだろう。あまり速度はなかったが時折辞書も引いていて、彼が私の頼みにきちんと向き合ってくれていることは分かった。


 不意に彼の指が痙攣し、ぴたりと止まった。

 目線が翻訳文と写影を交互に確認し、指は問題の箇所を指定するように何度か写影を叩いて端末へ移動する。

 漢語辞書を開き、何か調べる。

 調べた内容に首をかしげ、もう一度写影を見て翻訳文を見る……


 それは二時間前の私と殆ど同じ逡巡だった。

「……ごめん、ちょっと聞きたいんだけどさ」

 顔を上げた彼の表情から普段のゆるい笑みがすっかりひいていて、私は薄く微笑んでみせる。彼が何を思い何を聞きたいのかは分かっていた。


「その漢語辞書は私も監修者だから、辞書引いて出る以上のことは何もないわよ」

 だから先回りをする。氏は長い溜息になって端末を押しのけ、写影を閉じた。


「俺にはこの訳が正しいか、は申し訳ないけど分からない。漢語は本当に苦手で、正直に言うと挫折する学生にちょっと経験が乗った程度の知識しかないんだ。でも」

 ぱちん、とアネキス氏は写影の表紙を叩く。

「正直、写影がなけりゃ女子学生の妄想かよって笑っておしまいなんだ。あの子らが授業中にノートに一所懸命書いて回してる小説かよ、って。

 ねぇ、これ何? 本気なの? 歴証委は本気でこれを公費で解読しようとしてるわけ?」


 早口で言ってアネキス氏は銅貨色の髪に手を突っ込み、引っかき回している。溜息、そしてもう一度問題の箇所あたりを目線でさらえて……溜息。

 かなり、大仰な。


「年代測定が間違っている可能性はないのかしらね」

 私はさっきからずっと胸の一部を占めている疑問を口に出してやる。

 この箇所以前にも星とやらの運命論にうんざりして年代測定が間違っているのではないかと思ったことがあったが、愛人だの寵だのということに至りてやはり間違っているのだと思いたくなる。

 後世の創作小説だとしてしまえば沢山の疑問も苛立ちも苦笑と共に溶けるのだ。


 私の言葉にアネキス氏が顔を上げ、何かに思い当たったように私の写影をめくった。

「共和暦25年、2月24日」

 頭紙の鑑定日付を読み上げて彼は眉を(ひそ)めた。眉間による皺は初めて見るもので、その位置にあれば誰であっても険しい表情となる。


「日付がどうしたの」

 私が聞くとアネキス氏は曖昧に頷いた。

「俺の写影は2月5日なんだ」

 呟いている言葉に私はじっと彼を見る。何かが確かに胸に引っかかる。

 彼の写影は2月5日、私の写影は2月24日。これは写影を作成して本の形に綴った日付で、それ以上の意味は無い。日付を呟いてみても何かの影は感じるのに肝心の正体は分からなかった。


 私は一旦それを諦める。堂々巡りは時間の無駄だからだ。

「ともかく漢語をそのままほどくと訳がそうなってしまうのよ。寵は籠の書き間違いかもしれないけど、そしたらその後の愛人の(くだり)との整合性が完全になくなってしまう。年代測定がきっとおかしいんだと思うの。測定をやり直すよう教授に相談して……」

「いや、それは多分時間の無駄だな」

 アネキス氏はうん、と大きく頷いて私をまっすぐに見る。声と同じような深い色をした青い目だ。深海を覗き込んでいるような気持ちになる。


「いいかい、君の写影は24日だ」

 君の、に彼は微かに力を入れる。私の仕事だと念を押されているようで嬉しくなる。私は確かにこの世界が好きでここにいるのだ。

 私の表情に彼は合わせたように笑い、俺のは五日だろ、と続けた。

「今回の手櫃文書の解呪が成功して、出てきた文書の写影を作り出したのが丁度1月の半ば頃って聞いてる。

 俺の写影もその時期に作ったんだろう、2月の頭だ。でも君のは2月の終わりに近い……年代測定をやり直してるんだよ、しかもこれだけ、だ」

「まさか……」


 けれど確かにそれは頷ける話だった。年代測定は同時に発見された文書に関しては一枚ずつ測定にかけるわけではない。

 いくつか小さな破片を採取して、その年代がおおまか一致する年代を特定し、試薬を変えて振り子の幅を次第に狭くしながら絞り込んでいく作業だ。


 つまり、一度に発見された文書であれば写影の作成日付はずれてもせいぜい2日か3日程度である。担当者が一人であれば時期がずれることはあり得るが、旧体制の遺産ともいうべきこの史料に対してそんなおざなりな対応はありえなかった。


 史料が重要視されている一つの証例が例えば私と同じ文書をアッカを含めて数名で担当していることであり、文書の書き手が異なればまた別担当者が数名手配されていることである。


 アネキス氏の持ち込んできた写影の日付が2月初頭であれば最初に年代測定が終わったのがその直前頃であり、2月24日になっていないのは彼の持ち分はやり直す必要が無かったから──……

 私は不意に思い出す。確かに引退パーティの日、私は教授と同世代の先生方に言われたのだ。


(例の手櫃の漢氏文書を担当しておりまして)

(非常に困惑する文書だからな)

(あれは随分難敵だよ、心したまえエリン教授)


 難敵。私は目を瞑った。

 私は値踏みされているのだろうか、出来ないと思われているのか……それとも試されているのだろうか。歴証委の考える姿、彼らの作り上げようとしている正しい歴史に私が黙って添うかどうかを?


 いいえ、それはあまりにも歪んだ視点だと私は自分で淹れた黒茶のマグを包むようにして持ち、じっと茶の表面を見る。

 揺れる水面で小難しい顔をした女がじっとこちらを睨んでいる。それが滑稽なほど真剣で、私はやっと肩から力を抜いてそうかもね、と小さく言った。


「……私の分、年代測定はやり直したんでしょうね。それなら多分、1回じゃないわ」

 測定は3日あれば終わる。アネキス氏と私の写影の日付が半月以上ずれているのは何度かやり直したからなのだ。

 そして教授陣はこの内容を先に見ている。私に難敵だろうと意味ありげに笑った彼らもまた、困惑したのだ。


「そうだろうね。なら年代は正しいはずだ。内容を読めば手記主はイダルガーン大公に間違いないと思うけど」

 アネキス氏は曖昧な苦笑を浮かべて溜息になる。私も似たような笑みになった。何しろ内容が酷い。年代測定を疑いたくなるほど。


「年代測定をもうしないなら、イダルガーン大公の手記録として翻訳をすすめるしかない。実に困惑する内容で、翻訳の時にこれどうするのかってことだな」

 私は頷く。年代測定はもうこれ以上無理なのだろう。無理だと判断されたから、最後に測定をした後で写影を作り私の所へ依頼が来た、のだ。


「実際に漢語は仮定や反証反語の指定が無かったり文脈から判断するしかない部分があるから……もしかしたら他の部分や全体と付き合わせると全然別のことなのかもしれないのだけど……」


 でも『|武太子時時密通聖祖《武太子は時々密かに聖祖と通ず》、寵不已五年余(寵は五年にして止まず)』を他にどうしろと言うのだろう。

 漢語はまず背景と状況の理解を解釈に要求してくる。単純に文字を置き換えて意味が通れば良いというものではないのだが、この文章はこれ以外に余地がないように私には見える。


 だがこれ以上漢語の講釈をアネキス氏に説くのも筋が違う。どうせ同じ文書は他の担当者にも渡っていて恐らく彼らも一様に苦しんでいるだろうが、七月末と言われた解釈突き合わせには体裁を整えて提出してくる。

 その時に初めて自分以外の担当者の翻訳を見ることになるが、自分の選択した結果以外の解釈のほうが意味がよく通るのであればそちらでも勿論構わないのだ。

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