イダルガーン大公、日々録、帝暦百年以前(2)
写影:共和暦25年2月24日
訳:ミカ・エリン
【帝暦40年 10月1日】
ミシュアル。雨。午後より馬梁桓来る。書簡三通、淑人へ。
馬梁桓から明日の併葬の典礼の説明とやらをうける。おおまか立っていればよろしいらしい。叩頭礼はご寛恕下さるとの陛下のご差配を頂戴する。陛下もご臨席であるがラウール公と共に、陛下の席近くに作って下さるとのこと。
母親の死はやはり特別である。自分は9歳で別れなくてはならなかったからあまり追憶の量もないが、陛下にはやはりお気落ちであられると聞いている。死に際しては先に見ているしもうあれも年齢なので仕方ないとは思うが、遺言が先帝陛下との合葬であればあれが幸福だったかを繰り返し考えてしまう。
ミシュアル解放戦の頃彼女は20歳で、陛下が亡くなった時は27である。その僅かな期間の代償に彼女は後宮で30年かけて死にゆくこととなった。あれの最初の婚姻の時に父が存命であれば違っていたかも知れぬ。私も若く力不足であり、翰斉徳もまた然りである。過ぎたことではあるが。
*1 馬梁桓
マレンファン侯爵の漢氏名である。元々は馬家の傍流に連なる血筋であったらしいが、宮廷へ出仕する際に始祖帝妃であったマルファ妃(馬愛花)の弟筋としてマ本家に養子に入り、本家の頭領であったマリャンシル(馬梁笥)から一文字貰い、梁桓と名を変えている。元の名はマ・インシャン(馬英山)。
法務官僚であった彼はラウール公に認められて愛弟子と呼ばれるようになる。正式な記録は残らないがラウール公の成した沢山の陰謀略の手足であるともされた。ラウール公が引退した後は国政の指導者として恩師の施政方針を完成させ、執政府の確立と根拠をゆるぎないものにした。
*2 翰斉徳
ハンシーク公爵。漢氏四家のうちの翰家当主であり、史書の編纂を主として王宮へ出仕し、漢氏の宮廷進出の足がかりともなった。始祖帝の正妃であるラファーナ妃と婚約もしくは婚姻していた時期がある。
イダルガーン大公ともよく調和し、文治派と衝突しがちな大公との間をよく取り持った。




