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星の挽歌  作者: 石井鶫子
歴史の呼ぶ声・4
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秘密(3)

 武烈王か、とアネキス氏が呟くのが聞こえた。

 実存か虚構か、実存としても実権のないただの名義貸しなのかを解釈で揺れる始祖帝──エルシアン・エリエアルとは違い、武烈王アスファーン・エリエアルは有力な王子であったために出生から記録がきちんと残されている。

 正史では始祖帝の異母兄で、始祖帝と争い敗れて斬首されたとされる。当時の王族に対し斬首が執行された極めて珍しい例である。


 けれど微妙に何かを掛け違えている気がする。そもそもこの二人の間に齟齬があったとしても、それをラウール公が始祖帝の死後三十年以上にわたり後悔と贖罪の意識に苛まれていることは強烈な違和感になった。


 例えば二人の間に何かがあってそれが執政宮事件という血生臭い事件へつながったのならば、この『例の件』は原因という中核の部分を担う大事な出来事である。

 けれど正史は何も語らない。執政宮事件はあくまでも父王であった戒前王の不調につけこんでアスファーン王子が国政を玩び、注意を促したエルシアン王子を殺そうとして逆に自分が斬られたという意味のことが記述されている。


 ……正史の記録は始祖帝に関する限り捏造・粉飾・伝聞・伝説、何でもござれの酷い様相で、とても信頼に値するようなものではないのだ。伝説や伝承の中にも真実は紛れ込むから、全部を否定するわけでもないのだけど。


「始祖帝は実存し、正体はおそらくエルシアン王子で間違いは無いんだろうな」

 アネキス氏が呟いた。私は小さく頷く。

 だからこの例の件とやらは二人の間に横たわる闇で、ラウール公はその闇に長く気付かなかったのだろう。

 酷い仕打ちというのが何であるかは分からないが、ラウール公の胸に抜けぬ杭をうって、そのため彼は『お前のために何でもしてやろうと決めた』『どんな汚辱をかぶろうと構わぬ』と書いている。


 エルシアン王子が苦しんだ、ということであればイダルガーン大公の方にあるように『酒にしか逃げ込めず』にいた時期があり、それをラウール公から見れば『人生のうち最も悪い時期』ということ、なのだろうか。


 私は思考を整理する為にゆっくり呼吸をして、不意にそれに気付いた。

「──記述がないわ。例の件、の記述がない」


 アネキス氏が怪訝に私を見るのが分かった。私はこめかみを指で押さえる。彼から見せて貰った部分も、私が訳した部分も同じだ。記述がない。

「例の件、という記述が出てくるのはラウール公の回想記録、イダルガーン大公の日記のみです。その他のどこにも見当たらない。特にラウール公の手記は書簡を含んでいるけれど、イダルガーン大公の発言以外に例の件と書いているものはありません」


 ぼんやりとした当惑がアネキス氏の顔に広がり、さざ波のように広がっていく。私は首を振った。記述がない、ともう一度呟くと震えが来た。


 公然の秘密であれば書簡にも出てくるはずで、それは正史のどこかに脚色はされるが織り込まれる。

 紀伝体となっている正史だが、例えば始祖帝の項目に入れなくてもラウール公のところやイダルガーン公、武烈王アスファーンの項目に混ぜておくことはする。

 けれどそれがない。つまり秘密だ。本物の。


 そして闇と書くからには始祖帝の死後三十年が経過しても公開されず、ラウール公が『開けてはならぬ箱』とするならその予定もない。

 エルシアン王子とアスファーン王子の間にあった確執の中核でありながら公表できず、恐らく当人同士以外に知っている者はラウール公とイダルガーン公程度で、執政宮事件に到った理由が『例の件』で秘匿されるべき情報なのだとしたら、正史は一体どこまでが本当なのだろう……


 私は少し震えた。これは闘争心という種類のものだった。身体の底から浮き上がってくる。

 正史が装飾過多だとは思っていたが嘘つきだとは思っていなかったのに、事実を素通りして誤魔化すどころか嘘を書いた……

 アネキス氏は曖昧に頷いて、嘘か、と呟いた。


「私たち、巨大な嘘を見ているのかも知れないわ」

 私が言うと、彼は少しおいて頷いた。今やりかけの翻訳もある。

 出来たらメールしますと私が呟くと、アネキス氏はありがとうと笑った。彼の目尻に鳥の足のように皺がより、それは思いがけないほど幸せなくぼみに見えた。


 氏を見送って私は自分の教授室へ戻ろうと歩きながら幸福の皺についてぼんやりと思う。彼は幸福なのだろうか。

 目尻に残るあのくぼみはゆるゆると明るい人生を歩いてきた人間の目印だ。

 アネキス氏の論文に添えられた略歴を見ると私より七つ年上だから今四十二のはずだが、私は七年後にあんな風に笑っているだろうか。


 けれど今日の気分を表現するならば無常、だ。手に入らないものに焦がれる切なさは分かりやすいが、手に入れたものに対する失望は経験しないと分からない。あれだけ欲しいと思っていたものが大したことはないと分かってしまったことも、また。


 この前買った下着は捨ててしまおう。私は誰に聞かせるでもなく呟く。

 上下揃ったブラとショーツが適度に可愛く大人っぽくて悪くないと思ったけど、それを買ったときの自分のことを思い出そうとすると苦い気持ちになる。


 そしてまた通販の安い三枚特売りに戻ればいい。自分らしくないことをしようとするからそうなるのよ。

 私は私に言い聞かせる為に溜息になり、アッカの良いところを脳裏に探し始めた。


 それは未練というよりも、彼に一途に向けていた自分の感情が、決して間違いではなかったはずだという正当化のための作業だった。

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